氷一つ、味が変わる【前編】
「ロルフさん、この氷……もう、少し溶け始めてます」
冷蔵庫を覗き込んだミアが、少し不安げに言う。
透明な氷の塊が、わずかに水面を作りはじめていた。
「そろそろ“補充”か」
「……また“あの人”に頼むんですか?」
「ああ。……そのうち、な」
ロルフは静かにグラスを拭きながらそう返した。
夕暮れの〈月夜の杯〉。店内にはまだ誰もいない。
扉の鈴が、控えめに鳴ったのは、日が落ちかけた頃だった。
「こんばんは……ひとり、いいかしら?」
入ってきたのは、しっとりとした雰囲気をまとった旅の女性。
肩までの深い栗色の髪を後ろで緩くまとめ、
白いフード付きのマントからのぞく装束は、旅人のそれだが、手入れが行き届いていて品があった。
すっと伸びた背、伏せ目がちだが切れ長の瞳。
声には少し疲れた色があり、旅路の長さを思わせる。
「カウンターでいい?」
「どうぞ。お好きな席を」
ミアが笑顔で案内すると、女性は軽く微笑んで腰を下ろした。
「なにか、強いのを。ロックでお願い」
ロルフがグラスに手を伸ばそうとした時、彼女がふと続けた。
「氷は、適当でいいわよ。冷えてりゃ飲めるでしょ?」
その言葉に、ロルフの手がぴたりと止まった。
ミアが横目で「おっと」と小さく息をのむ。
「……冷えてりゃ、か」
「うん。昔ね、氷の量で揉めたことがあって」
女性は苦笑する。
「こだわる人って多いけど……私は“味”より、雰囲気を大事にしたいのよ。
気持ちが沈んでる時は、難しい話をされるより、ただ静かに飲みたいでしょ?」
ロルフは数秒だけ黙り込み――やがて、カウンターの奥へと向かった。
そして、冷蔵箱の中から分厚い四角氷の塊を取り出し、まな板の上に置く。
小さく、鋭いナイフを手に取り、刃を入れる。
カン。カンッ。
氷の角が削られていく音が響く。
ミアは黙ってその作業を見守っていた。
女性客も、最初は不思議そうにしていたが――やがて、その指先の繊細な動きに見入るようになっていた。
数分後、まんまるに仕上げられた氷が、グラスに“すとん”と落とされる。
その上から、琥珀色のリキュールが静かに注がれていく。
氷が鳴く。透き通った音が、グラスの中でかすかに響いた。
「……味はな。冷えてりゃいいってもんじゃない」
「……そうなの?」
「冷やしすぎれば香りが沈む。ぬるすぎれば崩れる。
だから、俺は氷の形と温度も、全部“味のうち”だと思ってる」
女性は、差し出されたグラスを両手で受け取った。
一口、そっと含む。
……静かに、息を吐いた。
「……ごめんなさい、ちょっとだけ、話が変わった」
「何が」
「……このお酒、すごく、静かに広がるのね。
……沈んだ気持ちも、少しずつ浮かんでくるような……そんな味」
ロルフは無言で、グラスをもう一度拭き始めた。
その動作が、「なら、もう少し飲んでいけ」と言っているように見えた。




