偏屈貴族と、氷の一杯【後編】
「……解けたときが、一番……うまい、か」
男は氷精酒のグラスを見つめた。
霜のついた外側に、ぽつりと水滴が落ちる。
「私はずっと凍らせてきたよ、自分の心も、他人との距離も。
人を信用すれば裏切られ、感情を出せば“感情的だ”と嘲られる。
だから、全部閉じ込めてしまった。……でも、何も残らなかった」
語るその声は、前編の“貴族口調”とは違っていた。
少し弱々しく、年齢相応の疲れが滲んでいる。
ロルフは、少しだけ表情をやわらげると、低く呟いた。
「……たぶん、あんたは“人を信じる”んじゃなくて、“信じられたい”人だったんだな」
「……!」
男の手が、わずかに止まった。
「そういう奴は、誰よりも真面目で、不器用で、……優しい」
ロルフはそっと、カウンターの下から取り出した小瓶を見せた。
「これは“霜解酒”。氷精酒にひとしずく混ぜると、味がやわらかくなる。
ちょっとだけ、角が取れるような、そんな味だ」
男は、それを受け取り、慎重にグラスに垂らした。
淡く白銀の液体が混ざり、香りがふわりと立ちのぼる。
そして――
「……うまいな」
小さく、だが確かに。
その口から、素直な感想がこぼれた。
しばらく沈黙が流れたあと、男がぽつりと呟いた。
「……私の名は、グリード。元・第三宰相補佐官。……今はただの放浪者だ」
「グリードか。……名乗ってくれるってのは、心の氷もちょっとは溶けたか?」
「……まぁ、そういうことにしておこう」
どこか照れくさそうにグリードは答えた。
「礼を言う。……こんな店があるなら、少しくらい生き延びてみるのも悪くない」
翌朝。
扉の前で、グリードは一度だけ振り返った。
「“また来ていい”と、言ってくれるか?」
「“帰ってきていい”場所は、酒場にひとつあれば十分だろ」
その言葉に、グリードはふっと小さく笑い、踵を返して歩き去った。
「ロルフさん……あの人、変わってましたね」
「世の中、変わってる奴しかいねぇさ。……人間なんて、大体“どっか偏ってる”もんだ」
「それを言っちゃあ、店主が一番……」
「ほら朝酒だ、ミア」
「今日もですかーっ!? もう貯蔵庫スカスカなんですけど!」
「男にはな、“氷が解ける前に飲まなきゃならん日”があるんだよ」
「……それ昨日も言ってましたよっ!」
そんな他愛ないやりとりの中で、「月夜の杯」の一日がまた始まる。
店の片隅に飾られた木札には、今日新たに一行が追加されていた。
“言えなかった本音は、酒に溶かして出せばいい”
ロルフはそれを見て、照れ隠しに鼻を鳴らしながら、自分のグラスを傾けた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!