月の雫、受け継がれる味
朝靄が晴れ、宿場町に陽が差し込むころ、〈月夜の杯〉の暖簾が揺れた。
ロルフが旅立ってから、三日目の朝。ミアはひとりで開店準備を進めていた。薪を運び、湯を沸かし、厨房の窓を開けて風を通す。
静かすぎる店内に、ミアの鼻歌がぽつりと響く。
「さて、今日もやってやろうじゃないですか」
自分に言い聞かせるように呟いて、彼女は厨房へと足を運ぶ。調理台の隅に置かれたレシピ帳。その表紙には、フローラの名前が記されていた。
幾度となく繰り返されたページの角は丸く、インクはところどころ薄れている。だが、その文字は確かに生きていた。
「……今日こそ、“月の雫”を、自分の味に」
霧花の蜜、香草の葉、そして蒸留酒の透明な輝き。分量は正確に、けれど魔法は心から。
ロルフが言っていた、“今の空気をひと匙”。その意味が、少しだけわかってきた気がした。
グラスに注がれた液体が、光を受けてきらめいた。
開店の鐘が鳴る。常連の旅商人が扉を押し開け、店内に涼風が流れ込んできた。
「お、ミアちゃん一人か。大丈夫かい?」
「ええ、大丈夫ですよ。ロルフさんがいない分、倍頑張りますから」
笑って返すその声に、確かな力が宿っていた。
グラスを差し出すと、商人はひと口飲み、目を細めた。
「……ほう。優しいが、芯がある。前より旨くなってるじゃねえか」
その言葉に、ミアは少しだけ照れたように笑った。
この場所を守るのは、もう義務ではなかった。想いを受け継ぎ、自分のやり方で育てていく。そんな日々が、確かに根を張り始めていた。
旅路の果て、ロルフは小さな村へとたどり着いた。地図にも載っていないような辺境。だが、かつてフローラが薬草の修行をしていた場所として、記憶に残っていた。
村は静かだった。風が低く鳴り、家々の壁には蔦が絡まり、井戸の周りでは子どもたちの笑い声がわずかに響いていた。
外れの薬草園。小高い丘の上に建つ小屋の庭先で、背中を向けて薬草を束ねている女性がいた。
ロルフは、その姿に足を止めた。動きの癖。立ち姿。背中越しにさえ、確信があった。
「……フローラ」
その声に、女性の手がぴたりと止まる。ゆっくりと振り返ると、そこには年を重ねた、けれどあの頃と変わらぬ眼差しの彼女がいた。
「ロルフ……なの?」
「ああ……俺だ」
二人の間に、言葉のない時間が流れた。風が草を揺らし、鳥が一羽、空を横切っていった。
ロルフは小さな革袋を開き、中からひとつの小瓶を取り出した。淡い金色の酒。“月の雫”——ミアが調合した一本だった。
「……飲んでくれ。今の、俺の味だ」
フローラはそれを受け取り、ひと口含むと、目を閉じて静かに笑った。
「優しくなったわね。あなたの酒」
その言葉に、ロルフは息をついた。肩の力が、すっと抜けていく。
「ここに残るのか?」
「ええ。でも……あなたが戻る場所があるなら、きっと、それが一番幸せだと思う」
ロルフはうなずいた。別れではない。ただ、それぞれの道を歩き始める、静かな再会だった。
──
数日後、宿場町の夕暮れ。
〈月夜の杯〉の扉がゆっくりと開いた。
「ただいま」
カウンターでグラスを拭いていたミアが、顔を上げて笑った。
「おかえりなさい、ロルフさん」
店の灯りが、再び二人を包んだ。月の雫が静かに揺れる、その中心に。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──
そんな物語を目指して、のんびり綴っています。
この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。
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また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!




