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別れの兆し、灯る火

 初夏の夜風が、宿場町の屋根を撫でていた。


 湿り気を含んだ空気には、遠くで咲き始めた花の香りが混じっていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり、〈月夜の杯〉の窓から漏れる柔らかな灯りが、街路の石畳に小さな影を落としている。


 ミアは帳簿を閉じ、背伸びを一つすると店内を見渡した。ロルフの姿が見えない。


「……屋上かな」


 そう呟いて、階段をのぼり、屋上の扉を開ける。


 夜空が一気に広がった。初夏の空は澄み渡り、星がいくつも瞬いている。そこに、ロルフの後ろ姿があった。屋根縁に腰を下ろし、煙草のようなものをくゆらせている。


「星、きれいですね」


 ミアが声をかけると、ロルフは少しだけ肩を動かした。


「……昔、フローラと一緒にこうやって空を見てた。あいつは星の名前をいくつも知ってたよ」


 ロルフの声は、珍しく柔らかかった。風が髪を揺らし、彼の目元の影を微かに動かす。


「酒場を持つのが夢だった。あいつは夢を描く人で、俺は……ついてくだけだった」


「それでも、今はここにロルフさんがいて、夢を続けてる。……あたし、そう思ってます」


 ミアの言葉に、ロルフは振り返らず空を見上げたまま、小さく笑った。


「フローラが、生きてるかもしれないって話を聞いた。まだ、どこかで……信じてるんだ」


「行くんですね」


 ロルフは黙って頷いた。


「なら、ちゃんと帰ってきてください。その間、この店はあたしが守ります」


 ミアの声は静かで、しかし確かな力があった。


 風が星々をなぞるように吹き抜ける。


「……ああ。行ってくるよ」


 星の下、二人の影が寄り添うように並んでいた。

 

  次の日の朝、ロルフは旅装を整えていた。


 陽が昇りきる前の空はまだ淡く、静かに町を包んでいた。ミアは厨房で軽食を用意し、旅の袋にそっと干し肉と果実の酒を詰めた。


「いつもの道具は? 包丁は?」


「背中にしっかり詰めた。旅先でも腐ったもんは出せねぇからな」


 ミアは少し笑った。


 カウンターに並んだ瓶たちが朝の光を浴びて淡くきらめいている。空気の中に、酵母と香草の香りが混じり合っていた。


「……ほんとは、あたし、行かないでって言いたいですよ。でもそれじゃ、ロルフさんらしくない気がして」


 ロルフはミアの肩に手を置いた。


「すまん。ありがとな」


「ううん。こっちこそ、行ってらっしゃい」


 ロルフは扉の前で一度振り返る。


「……星、また一緒に見ようぜ」


 ミアは頷いた。その横顔は、ほんの少しだけ涙をこらえるようだった。


 扉が閉まり、店に静けさが戻る。だがその静けさは、もう寂しさではなかった。


 彼女の背中には、確かに「待つ人」の強さが灯っていた。




ここまで読んでくださって、ありがとうございます!


「月夜の杯」は、ちょっとだけ疲れた誰かが、ふらっと立ち寄って、あったかい飯と酒で少し前を向けるような──

そんな物語を目指して、のんびり綴っています。


この先も気が向いた時にふらっと読みに来てくれたら嬉しいです。

そして、もし「いいな」「ちょっと好きかも」と思ってもらえたなら、

良かったら高評価やお気に入り登録などで応援してもらえると、とても励みになります!


また、月夜の杯でお会いしましょう。かんぱい!

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