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私が私に何としても伝えたいこと  作者: 深谷玄冬(松木朱夏)
20/21

信仰は根拠がないから強いけど、信じる理由があるなら裏切りに耐えられる

この部分も、すでに投稿した内容の焼き直しではあります。

信じるはこの世界で最も強い作用ですが、その根拠はあいまいです。そのあいまいさを回避する方法を模索してみたのがこれです。

言っていいか迷うところであるが、この世界には正しいことなんてない。論理命題が真というのも正しいそのものではない。予測の的中も正しいではない。合理性が正しいでもないし、実在だって正しいの根拠ではない。正しいは見かけ上はあってもその基準に万人に通じる絶対がない。そもそもが宇宙の解釈(認識・意識すること)には意味しかないはずである。そして意味は善悪や正否の二元論ではない。だから、本当を求めたかったら、正しいにこだわる必要はない。


それに間違ってるは正しいへの導入だし、悪は善への道しるべだ。実在と非実在は存在の二面性、太極に過ぎない。だから、確実とかそういうのもどうでもいいのである。


正しいがなくても、世界は壊れたりしない。だって、人間には信じるがあるから…。それはむしろこれまでもそうだった。


詳細はわからなくていいが、極端な話、わからないことがわかってればいい。そして信じるは希望でいい。「こうであってほしい。こうであるべき」、これが信じるの内容でいい。信じるは極めて能動的な行為である。信じると決めたら裏切られても信じ続けるから信じるなのだ。信じるに足る本当というのは探すんじゃなくて、創るのである。


冒頭で述べた宇宙には意味しかないというのも、強固な信仰だが、それがあると信じるか、ないと信じるか、それだって自由信仰である。基準が同意できず、確認できないことは正しいとか間違ってるとかは絶対に言えないし、世界には原理的に確認できないことや矛盾したことが成立することなんていくらでもある。


世界は物ではなくて、概念だからであるが、例えば物事の解釈に二元論は通用しない。世界は物ではない、とは恐ろしい信仰であるが、そう考えられる余地がある以上、そう信じたってかまわないはずである。宇宙の解釈(認識・意識すること)には意味しかないとは、実際には宇宙は概念的存在であると言ってるのと等価なのである。


根拠なく信じるのは危険かもしれない。だが、信じるは不変ではない。信じ続けるためには知って、洞察して、働きかけて、求める必要がある。そうでないと裏切られたときに信じるは終わってしまう。裏切られても信じる強度が信じるの条件だし覚悟なのである。


それだと、結局、正しいことを求めることになるのではないか?という考えは当然沸き起こる。


だが、信じる根拠として、正しいを求めるのは人間の持つ性癖なのだ。別に信じる理由は正しいでなくてもいい。多くの人が無自覚にそうしているように役に立つかどうかでもいい。ただ、役に立つかどうかだと役に立たないと感じたときに裏切られたになる。覚悟といったからには、裏切りなんて結論に逃げたらダメなだけである。信じるのは自由であるからこそ、そこには負うべき責任がある。信じるのに理由があるのはとてもいい。裏切られても信じ続けること、そこまでして初めて信じるだから、何があっても信じた対象のせいにしてはいけないのだから、もう一度理由を振り返ることができる。



そもそもが信じるというはとても個人的な儀式である。何を信じるかがその人の個性だともいえるのではないか。だから、個々人の人格を大切にするなら、他者に信じろとは言えないし、信じるなとも言えない。それをわかってないから危険なのである。正しいを安易に持ち出して、押し付けようとする人にはその辺の機微がわかってないということである。


そうなると学問とか言論活動は全て無駄なのか?という疑問は当然出る。


ここで、客観性も実在性も合理性も論理性も信ぴょう性も、決定打にはなり得ないと知りながら、提出された資料を意味のあるものとして参考にするのは、信じることの内容の更新やそれに基づいた言動への自信にもつながるはずである。


だいたい、信じることが単純に守られ続けるよりは、大小の裏切りに見舞われた方が信仰は高まるものである。そういう意味では、正しさに準ずるものを主張して論破されるなんてのは、自分にとっては何よりも得難い経験になる。信じることがより明確になって補強される。そもそも、論破されたときに腹が立つのは、自分の優秀さを信じていることが土台にあって、自分のその信念を現実が裏切ってる証拠なのである。それも含めて信念は少し見直して改訂すれば、そのままもっと汎用的で強い信じるになるはずなのである。


学者はそのあたりを心がけないと、正義の妄信や蓋然性への過信(あるいは不信)へとつながるだろう。


以上のことは、わからない人にはとことんわからないだろうという気はする。それこそ、わかりたくない、今の自分の都合を否定されたら事態は悪化するに決まってる、と信じてるのかもしれない。さらにそれを自覚してないから厄介なのではないだろうか。そういう人が無意識下にある信仰を守るために犠牲にするのは、いつだって自分より弱いと信じる他者の人格というのが相場である。その結果、迫害者の人間性も将来の安全性も損なわれるんだから、誰も得をしていないのである。


そして、何よりも問題なのは、そもそもが信じているだけってことに気がついていない。知識や事実が正しいと思ってる、これらが信じているに過ぎないとわかってない。自覚的に希望を信じるのはいいけど、変化を嫌う都合のために醜い現実恐怖の力を信じるのは問題が大きい。


確かに現実は疑いなく信じられてるから、現実と呼ばれているのかもしれない。だが、それを疑う哲学は掃いて捨てるほどある。そして、多くの人間の現実に、本人を含めた幸せにつながる秩序がないように見える。


もし宇宙に真実(秩序)を維持する意志があるなら、それを知らざるを得ないような出来事がその人を見舞うことになるとしてもおかしくはない。目覚めろと言うノックの音は目覚めるまで大きくなり続ける。起きなければいけないなら。扉を蹴破られるかもしれないし、布団をはがされるかもしれないし、さらに頬を叩かれるかもしれない。それでも起きないってのもあるかもしれない。そう、それをノックだということを、布団をはがされたということを、頬を叩かれたということを無視し続けるか、それを偶然や誰かや何かのせいにし続ければ。しかし、それは生きているに値する生き方なのだろうか、というのは疑問である。


信じるとは、そうあって欲しい、という希望だと自覚を持つべきではないかいう提案をしている。それは確かに宇宙の法則を創造するような仕事だろう。まさに物語の作者の仕事である。当然、その法則は作者を模した主人公も襲う。最近は、その辺が治外法権になっている物語もあるにはあるのが残念だが、現実はそうではない。(自分が作った秩序なんだから、自分は秩序に従属しなくていいなんて不公正を認めたら、秩序そのものが信じられなくなるだろうと思われる。)


この宇宙物語はいろいろな世界観秩序をおのおの個人の資質に応じて信じるに足る神話として用意している。たとえば科学もその一つである。この宇宙の中心を自覚できるようになれば、信じる世界観神話を自在に変えて、あらゆる課題に対処できるのではないかと考えられるのである。



実際に今の世界が理解すべきなのは、太極、それだけではないだろうか。そのあたりの理解が進むかどうかはひとつには表現次第であろう。



信仰は根拠がないから強いけど、理由があるから裏切りに耐えられる、と言えば、矛盾を回避しようとした結果、全部は言い当ててないと思うけど、最低限はまとめになるだろうか。(本当にわかってることなら、いくらでもバリエーションで表現できるはずだってのが、創作者としての信念である)。


思ってることそのものじゃなくて誤解が伝わってもいい。その話題がお互いの刺激になるのであれば。もちろん、別にならなくてもいいけど。誰にでも共通する正しさなんてないと認めた方が早い。人間にできるのは、信じていることをお互いがそれぞれに確認するきっかけを与え合うだけ。人間関係の存在意義の一つはそれなのかもしれない。ただ、正しさにこだわらないのであれば、それ以上に大切なものを示唆しなければいけないとは思うのだが、それが信じるであっていいのかどうかは、難しい課題ではある。



【ある会話】


K:「永遠にわたって有効である機能や効果を、正しいと定義できないか?」


T:「うん、定義に過ぎないよね。人生を有限だと考える人がそれを支持するとは思えないよ。」


K:「じゃあ、正しいって、多数決?」


T:「民主政治の現実を支持する人はそう信じてるんじゃないかな。実際には理想も美しさもあったもんじゃないから、僕は拒否するけど。」


K:「なるほど、正しいを信じない人がいる時点で、正しいは正しいの基準にならない。笑える。信じる方が強いのか。強さが正義なら、信仰は正しさか。いやはや堂々巡りもいいところだ。」


裏切られても信じ続ける。これが難しいことは言うまでもないのだが、これができるときには人間の人格は大いに発展する。つまり、信じるを根拠に生きつつ、それを崩されることによって「雨降って地固まる」を繰り返して、より強固な信仰へと育てる。その信仰は、他者を排撃するものであっていいはずはなく、他者をも理解の輪に取り込むからこそ、より大きな根拠にたどり着く。


基本はそういった内容です。

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