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私が私に何としても伝えたいこと  作者: 深谷玄冬(松木朱夏)
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自分の信念や感じ方を大事にすることこそが最上級の倫理である

一度、地上の倫理について語ってみます。

今までの流れを整理してみましょう。


形而上学第0原理:「存在は対称性への信仰の乱れで生じる。」

形而上学第1原理:「構造が機能を生むのではない。機能が構造を要求するのだ。」


ここで前話では、信仰には確固たる正しさはなく、信じることは理由の伴った願いでよい、という趣旨のことを書きました。


存在というのは、人間存在でもありますので、それが生活主体でもあります。その生活主体が信じるという作用と無関係でないというのは、なかなか理解は難しいところです。さらに言えば、信仰そのものではなくその乱れが、存在を成り立たせているということです。


今までの私は、真実を志向して宇宙の法則めいたことしか語ってきませんでした。常の哲学者たちがやるように、その存在論や世界論から、倫理を説いていないのです。もちろん、私の中では倫理というのは確固として存在します。それに従って、己の行動や信念を律することもしています。それが倫理ですから。


今回は、この倫理を導出してみたいと思うのです。


信仰には正しさはなく、理由の伴った願いが基準である、というのが、まず最初に来ます。そして、その願いの破れによって、存在が生じるのです。この事情を表している記述として、機能が構造を要求するのだになっています。つまり、願いの破れが存在という構造を生成しているのです。


まだわかりにくいでしょう。そこで私という人物を立てます。


私の願いが、仮に「愛したい」だったとします。するとその乱れや破れから対称性(中庸)からの逸脱が世界の構造となって存在するようになります。これが、「愛したい」という私の願い(機能)が、愛の満ちていない世界(構造)を要求したのです。何のためにかといえば、私がその世界で「愛したい」を実践するためです。愛のない世界だからこそ、「愛したい」は形にできます。


同じように、あなたという人物を立てます。


あなたの願いが、仮に「楽しくなりたい」だったとします。するとその乱れや破れから対称性(中庸)からの逸脱が世界の構造となって存在するようになります。これが、「楽しくなりたい」というあなたの願い(機能)が、楽しくない世界(構造)を要求したのです。何のためにかといえば、あなたがその世界で「楽しくなりたい」を実践するためです。楽しくない世界だからこそ、「楽しくなりたい」は形にできます。


他の人物を立てても同様です。世界は、その人が最も望んでいるものを遠ざけている形で存在します。それがなぜそうなっているのかと言えば、人はその世界で「変化」、方向性も付け加えるならば「成熟」を経験するために生まれてくるからです。


この「成熟」のことを、人の信仰する願いに応じて世界の様相も異なることから、この過程を「個性化の過程」と呼ぶ場合もあります。そして、世界というのは、間違いなくそのように機能から要求された構造として、建設されています。


ここまでが、世界論です。ここから倫理です。


逆に考えます。私にとってこの世界が愛が満ちていないと思うからこそ、「愛したい」というのが目標になります。同様にあなたにとってこの世界が楽しさに満ちていないと思うからこそ、「楽しくなりたい」というのが目標になります。


この目標を外れた生き方をしても、願いという機能には届かないので絶対に真の幸福は得られません。真の幸福は、世界の構造化された理由に合致したときだけ、感じるものなのです。


つまりは、個人個人の願い(機能)が異なる以上、同じ世界(構造)は要求されていませんから、同じ世界に住んでいたとしても、見ている心象風景は全く別なのは当たり前です。そして、その世界の中でのやるべきことややってはいけないこともまったく異なるのです。


だから、己の価値観(幸福観)を押し付けて道徳性を咎めたとしても効果はありません。倫理としては、価値観が別々であるというのが正解なのです。そして、そこにも倫理から来る道徳があるとしたら、「汝自身を知れ」に尽きるはずであり、そのための手段として「無知の知」の自覚はあり得ます。


我々はわざわざ世界を自分で描き出したうえで、そこでそれぞれが成長・成熟するという「個性化の過程」を歩んでいます。この課題を果たさないまま人生を終えることもあるでしょうけど、本人の立っての願いが果たされなかったのですから、未練はたっぷりで、次の世界でも同じような課題に立ち向かうことになります。


これが、輪廻の構造です。


もちろん、身体として脳は死にます。自分が脳だと思ってるならば、それはこの構造化された世界でついえます。脳の自分と機能としての自分が一致したときだけ、次の世界へ進める自分になっているだけの話です。次の世界へ進む自分のことを、魂と呼ぶ場合もあります。


魂は自分の機能を自覚しているので、構造化された世界でやるべきことを知っています。ですが、脳は構造化された世界のことしか知らないので、その中での知識に振り回されると幸福の価値も知らないままに死を迎えて、全てはなかったものとなってしまいます。


さあ、あなたは脳ですか? それとも魂ですか?


それによっても倫理は違います。脳であるなら、己の信念や願いにこそ敏感になることで、魂へ接近して一体化を図るべきです。これをなした後は、魂の主導に任せれば万事うまくいきます。そして、その場合は、仏教でいうところの無明を超えることにもなると思います。


なお、言うまでもないですが、説明のためにこの文章の中では私やあなたの願いは簡略化しましたが、魂の願い(機能)は語りつくせないほど複雑であり、だからこそ地球の自然の微細さがあったり、細部に構造が満ちていたり、物理法則も単純ではないのです。


ぜんぶ詳細に味わってみることで、自分の本当の願いに触れることも絶対にあると思います。合言葉は「神は細部に宿る」とか「凡事徹底」とかがいいかもしれません。

我々の悩みというのは、脳の選択と魂の選択に齟齬が生じたときに起こります。そして、脳の選択を優先すると、魂は答えを知っているので頑として曲げないので、どんどん悩みは精神的なものから身体的なもの、さらには事件性にまで発展します。

魂に選択を委ねた場合のみ、アタラクシアが得られます。ただ、外面的に幸福に見えるかどうかは定かではありません。これがこの世界の一番難しいところなのです。

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