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「契約結婚……」
「意外か?」
恋愛結婚だとばかり思っていたから目を丸めてしまう。
首を傾げて口元を緩めるワルターさんに、私は思わず口走った。
「意外でした。だって、ワルターさんは私のこと、その」
「ああ。君のためなら、なんでもできるくらい愛している」
甘い言葉を甘い瞳で言う人だ。
心臓の音が彼にも聞こえてしまっているのではないだろうか。
赤くなってしまう私に、ワルターさんは苦笑した。
「あまり照れられると、いろいろな意味で困るな」
「ご、ごめんなさい」
「だが、一番困っているのは君だろう。アコナは、マティアスを愛しているはずだからな」
「マティアス……」
結婚式当日に婚約破棄し、お姉様と結婚した彼の姿を思い出す。
それは昨日、いや実際にはもっと前のことらしいけれど私の記憶では昨日の話だ。
なのに、どうしてだろう。
マティアスに会いたいという気持ちは、かけらもなくなってしまっていた。
困惑して私が黙り込んでいると、ワルターさんは今にも泣きそうな笑みを浮かべる。
「マティアスは、いろいろとあってな。今は独り身のはずだ」
「お姉様とマティアスは離縁されたのですか?」
「ああ。君が実家に帰ると言い出せば、俺はそれには反対する。だが、マティアスの元へ行きたいというのならば、強くは止められない」
「止めてくれないんですか?」
自分の口から拗ねたような声が出たことに驚いた。
ワルターさんもびっくりしたようで、銀色のまつげに縁取られた赤い目を見開いている。
ぱっと口を押さえると、ワルターさんは私の顔を覗き込むように近づいてきた。
「……マティアスが好きなのではないのか?」
「私の記憶では、マティアスに婚約破棄されたのは昨日です。昨日までは、彼のことをとても愛していました。でも……、薄情かと思われるかもしれませんが、正直に言ってワルターさんに言われるまでマティアスのことはほとんど考えていませんでした」
思わずうつむいてぽそぽそと喋ってしまう。
ワルターさんは私の拙い話も真剣に聞いてくれていた。
「おかしいんです。私にとって、ワルターさんは初対面なんです。なのに……、夫婦だったからでしょうか。あなたのことばかり考えてしまう。生きたいように生きて良いとおっしゃいましたよね?」
「ああ」
「それなら、私はこの屋敷で、ワルターさんと一緒に生きたいんです。わがままを言っているのは、わかっているんです。こんな、記憶をなくしてしまったような妻でもよろしければ」
情けなくて、最後はへにゃりと笑ってしまう。
ワルターさんのことを愛しているかは、まだよくわからない。
けれど、こんなにも離れがたいと感じてしまっている。
記憶をなくした妻が傍にいることは、ワルターさんを傷つけることにもなる。
記憶が戻る保証も無い以上、私のわがままな願いは却下されても仕方の無いことだ。
ダメ元でのお願いだったのに、ワルターさんは私の方に手を伸ばし、そっと背中に滑らせる。
私が拒絶しないのを確認するように少し待ってから、ワルターさんは私を強く抱きしめた。
「アコナ。アコナ……。愛してる」
「っ、はい」
「君が俺を愛する気持ちを忘れてしまっても、俺は愛する気持ちを捨てることなんて出来ない。君が先にいなくなっても、俺はずっと君のことが一番だ」
ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられる。
彼の体は私をすっぽり包んでいる。なのに、彼がとても小さく感じられた。
「ワルターさん。私、あなたのことを思い出したいです。あなたに愛されて、あなたを愛して、共に幸せになりたい。だから、ここに来たんです。あなたと禁忌を犯すために」
ワルターさんがそっと私から体を離す。
鼻先がくっつきそうな距離に、全身の血が顔に集まる感覚がした。
途端、ワルターさんは私から距離をとる。
ずささっと後ずさった彼は「はああああ」と深いため息をこぼした。
「わ、私なにかまずいことを言ったでしょうか」
「大丈夫。大丈夫、なにも問題は無い。ただ、君の血のにおいが……」
「血?」
「いや、なんでもない。この話は後にしよう。混乱する」
何の話だろうか。
首を傾げる私に、ワルターさんは咳払いをして腕を組む。
保たれた距離はそのままだ。
さっきまで少しの隙間も埋めるみたいに抱きしめられていたから、ちょっと寂しい。
「禁忌だな。実はわけあって、俺とアコナはずっと様々な禁忌を犯してきた」
「どんなわけですか!?」
「説明しても良いんだが、君が何度も同じ事実を知って落ち込む姿を見たくはない。なにかしらの禁忌を犯して記憶が戻るなら、いろいろ試してみてからでも遅くはないだろう」
真剣な表情をしているワルターさんが、私を慮ってくれていることはわかる。
気にはなるけれど禁忌を犯して思い出せば、彼に何度も説明させる苦労をさせずにも済むだろう。
私は引き下がって、違う質問をした。
「今までは、どんな禁忌を犯してきたんですか?」
「そうだな……。深夜にデートに行ったり、婚姻前に同衾したりしたな」
「そ、そんなにも罪深いことを……!」
深夜にちょっとごはんをたくさん食べたくらいの禁忌かと思っていたけれど、想像以上に罪深いことをしていた。
記憶をなくす前の私にそんな勇気があったなんてと驚いてしまう。
驚愕に口を魚みたいにパクパクさせている私を見て、ワルターさんは思案顔をした。
「アコナの記憶は『ワルターと禁忌を犯せ』という言葉が、強く残っていたのだったな」
「は、はい。そうです」
自分の罪深さへのショックから立ち直れないままに頷く。
ワルターさんは手元の文献を手に取って、首をひねった。
「ディナス家に伝わる記憶操作魔法の記述を読みあさっていたのだが、禁忌を犯すだなんて記述はどこにもない。アコナは魔法に関してだけは器用だったからな。もしかすると、自身の記憶が戻る鍵を自ら用意したのではないか?」
「それがワルターさんと禁忌を犯すことだと?」
「どうだ? 記憶操作魔法をかけられたとして、自分でそんなことができると思うか?」
少し考えてから、頷く。
記憶操作魔法をかけられるとわかっていて回避できなかったのならば、記憶をなくした後の自分が記憶を取り戻せるようにヒントを残すはずだ。
「私が自分自身に与えたヒントですから、記憶をなくす前の私が最も罪深いと思っていたことが、その禁忌なんじゃないでしょうか?ワルターさんとふたりでなければ犯せない禁忌で、なにか心当たりはありませんか?」
腕を組んでワルターさんが、しばし考え込む。
その顔はやがて真っ赤になっていった。
何事だろうと、きょとんとしているとワルターさんはためらいがちに口を開いた。
「あー、君がとても罪深いと言っていたことがある。何度やっても罪深い気がすると言って、君は照れていた」
「……な、なんでしょう」
なにかとんでもないことだろうか。
ドキドキしている私に、ワルターさんは耳まで赤くして告げた。
「キス、だ」




