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私の夫だというワルターさんは、プティエの常連客だったらしいけれどなにも覚えてはいなかった。
私が記憶を失う原因になったというワルターさんの弟、テディールさんは地下研究室の一室に閉じ込められた。
「頭が冷えたら、あいつをどうするかは考える」とワルターさんは言い残して、書庫に行ってしまっている。
私の記憶を取り戻す方法を探してくださっているのだそうだ。
「アコナはアコナが生きたいように生きれば良い。ただ、君の体はとても弱っている状態だ。できれば、この屋敷にいてもらいたいとは思っている。少し考えていてくれるだろうか」
どこにも怪我をしていないのに、誰かに斬りつけられたように苦しげな表情で、ワルターさんは私に言っていた。
ワルターさんが言うには、私は165日分も記憶をなくしてしまっているらしい。
その間に起きた出来事は、私にとっては辛い出来事も多かったそうで、ワルターさんは私になにも教えてはくれなかった。
手首にドス黒い色で刻まれている『149d』という数字の意味も。
どうして私がここに居るのかも。
ワルターさんには伝えたけれど、私の頭の中には強く「ワルターさんと禁忌を犯せ」という言葉が残っている。
禁忌がなにかはわからないけれど、彼となにか悪いことをすれば、私は記憶を取り戻せるらしい。
ワルターさんが調べ物をするために書庫に行った後も、私はベッドの上で混乱している頭を抱えたまま過ごしていた。
けれど、ここでぼーっとしていても何も解決はしない。
どういう経緯でワルターさんと結婚をしたのかはわからないけれど、夫にあんな悲しい顔をさせていてはいけないだろう。
彼と禁忌を犯さなければ。
「よし!」
ようやく決意が出来たところで、ワルターさんが向かい側の建物だと言っていた書庫に行こうと一階に降りる。
その一階で食堂と厨房を見つけた私は、厨房に寄り道した。
ワルターさんに何か手土産がないかと思ったのだ。
そろりと覗いた厨房にあった吊り戸棚にハーブが詰まった瓶がたくさん置いてあるのを見つけて、ハーブティーを淹れることにする。
なにしろ何がどこにあるかを知らないため時間がかかったが、オリジナルブレンドのハーブティーを完成させることができた。
銀盆にティーポットを載せて、カップをひとつ載せる。
ワルターさんへの手土産なのだから、カップはひとつでいいはずだ。
実家でだってお姉様にハーブティーを淹れるときは、カップはひとつだった。
なのに、盆にひとつしか載っていないカップにひどく違和感がある。
じっと盆を見つめて、迷いに迷ってからカップはふたつ持って行くことにした。
書庫に行くために中庭に出ると、もう日が沈みかけていた。
夕日色と夜色の狭間の光をあびて、中庭の花畑が揺れている。
そこには、花屋で見たことのあるロゼッタの花も咲いていた。
居住するためのお屋敷よりも遙かに大きな書庫の扉はとても大きい。
ノックを鳴らしても聞こえない気がして、マナー違反とはわかりつつもドアを押し開いた。
「失礼します」
「……は、なんだか懐かしいな」
おずおずと書庫内に顔を覗かせると、ワルターさんは床に座り込んでいた。
彼を中心に大量の文献が円陣状に広がっている。
見上げるほど高い本棚に囲まれた書庫には、そこかしこに本の海や山ができていた。
「いい香りだな。お茶か?」
私に切なげなまなざしを向けていたワルターさんが、優しい表情で首を傾げる。
その目は愛しい人を見る瞳だ。
彼が本当に私のことを愛してくれていたのだと思うと、忘れてしまったことが申し訳なくて顔をまともに見ることができなかった。
「はい。その、ハーブティーなのですがお好きですか?」
「ああ、俺はアコナの淹れるハーブティーが大好きだ」
「おいで」と手招きされて、ワルターさんの隣に座る。
彼は銀盆の上に乗っているティーポットとカップを見て、眦を下げた。
「カップはふたつ持ってきたんだな」
「はっ、す、すみません。図々しかったですよね」
「いや、嬉しかったんだ。君の中に、俺がまだ少し残っている気がして」
なんのことだかわからないけれど、ワルターさんは嬉しそうに笑っている。
カップをふたつ持ってきたことは間違っていなかったのだろう。
カップにお茶を注いでワルターさんに渡す。
自分のカップにお茶をいれていいのかためらう私を見かねたのか、ワルターさんはポットを奪ってお茶をいれると私に差し出してくれた。
「そう緊張しなくていい。夫婦だからっていきなり襲いかかったりしない」
「そんな心配はしていないです……。その、申し訳なくて。私とあなたは結婚しているというのに、なにも覚えていなくて……」
「愚弟のやったことだ。君は被害者なのだから、そんなに縮こまらなくて良い。聞きたいことがあれば、聞いてくれ。答えられることは答えよう」
「じゃあ、一番気になっていたことを聞いても良いですか?」
ちらりと横目に見たワルターさんの横顔に緊張が走る。
けれど、彼は「いいぞ」と神妙に頷いてくれた。
心臓が早鐘を打つ。
こんなこと聞いて良いのだろうかと、私も緊張しながら唇を開いた。
「私とワルターさんは……、その、恋愛結婚なのでしょうか」
「そこか!?」
突然の大声にびくっと肩が跳ねてしまう。
ワルターさんは、「ああ、すまん」と眉を下げた。
「いや、驚いてしまってな。てっきり、手首の数字のことを聞かれるかと思っていた。できれば、それは記憶をなくして混乱している今の君には聞かせたくない話だったからな」
「そう言われると手首の数字についても気になってきました……」
「それは、もう少し落ち着いてからにしたい。それよりも俺たちの結婚のことだ」
ワルターさんの私を見つめるまなざしには、どう見ても熱がこもっている。
彼が私を愛してくれているのは、うぬぼれた話だけれど、まず間違いないと自信が持てるほどの溺愛ぶりだ。
けれど、私が彼を愛していたかとなると、それはわからなかった。
だって、私の記憶では、私は昨日までマティアスと婚約をしていたのだから。
ごくんと息をのむ。
ワルターさんは、柔らかな笑みで答えた。
「俺たちは、契約結婚だった」




