31
「アコナ。アコナ、お願い。わたくし、あなたがいなければ何もできないの。結婚なんてやめて、うちに来てちょうだい。あなたは何でも持っているのだから、わたくしのためにその力を使ってくれても構わないでしょう?」
「私に戻ってきてほしいから、ワルターさんを誘惑しにいらっしゃったのですね……?」
「あなたが、最初からわたくしに尽くすために、こちらの家に来てくれていたら、こんなことはしなくて済んだのよ。あなたのせいで、今こんなことになっているのよ。わたくしのために、あなたは結婚をやめるべきよ。それが、あなたの役割でしょう?」
階段から落ちるお姉様をかばって骨を折ったあの日。
お母様が私を抱きしめて言った「おまえの役割はそれよ。よく覚えていなさい」という言葉を、お姉様も聞いていた。
あの時から、私の役割はお姉様の役に立つことなのだと、お姉様も私も思い込んでいた。
でも、違う。
ワルターさんと一緒に、幸せになる決意をした今。
私は私のために生きる。
ワルターさんと長生きをして、幸せになる。
それが私の役割で、生きる意味だ。
すがるお姉様の手を離す。
ひざまずいたお姉様が涙を浮かべた目で見上げてくる。
「お願い。お願いよ、アコナ。帰ってきて」
「帰りません。結婚もやめません。あなたは、もうジル家の嫁。グロウ家の人間ではないあなたに、私たちの結婚の許可をもらう必要もありません。これは、ただの顔合わせ。そこで、私の婚約者であるワルターさんを既婚者のあなたが誘惑したとなれば、罪は重いですよ」
「マティアス様に……言うつもり?」
お姉様が絶望の表情を浮かべてこちらを見上げる。
その涙を浮かべた目は、私の罪悪感を煽る。
マティアスには、言うべきだろう。
妻の不貞を知っていて、夫に隠しておくべきではないと思う。
それでも、なかなか答えられなかった私の代わりに答えたのは、ドアを開けて入ってきたマティアスだった。
「アコナ様が言う必要はありませんよ。全部聞こえていましたので」
マティアスの群青色の瞳は、冬の湖のように冷たい光を宿している。
「あ……、あ、マティアス様。そんな、わたくしは」
お姉様が床にしりもちをついて、じりじりと壁際まで下がる。
あんなに美しかったお姉様の哀れな姿に、胸が痛んだ。
「ワルター様とアコナ様がご宿泊になると聞いてから、妻の動きは監視しておりました。情けない話ですが、私は妻を信じられておりませんでしたので」
他人行儀にしゃべるマティアスは、夕飯のときは席は共にしていたものの、一言も口を利かなかった。
だから、彼の声を聞くのは、あの東屋での別れ話以来だ。
お姉様を睨みつけていたマティアスは、私に一瞬だけ視線を向ける。
悲しげに瞳を伏せて、彼はぽつりと言った。
「本当に、申し訳ありませんでした」
「……お姉様とは離縁なさるのですか」
壁際で小さくなっているお姉様が、ビクリと肩を跳ねさせる。
マティアスは少しの間を置いて、首を横に振った。
「これは、婚姻後は一度目の過ち。家の顔もありますから、そう簡単には離縁できません。妻と信頼関係を築けるよう、私は努力したいと思います。……リーリス。君は、どうだろうか」
「いいの、ですか?」
「オレだけの努力ではどうにもならないことだ。君の努力次第でもある」
告げられたお姉様は、俯く。
それから、涙を流して私を見つめた。
「アコナ……。助けてくれないの?」
「この期に及んで、まだ言うのか」
黙っていたワルターさんが、耐えきれない様子で言う。
ため息をこぼすワルターさんと私は、きっと今同じ気持ちだろう。
「私は、私のために生きると決めました。この屋敷に着いた時にも、それはお話ししたはずです」
背筋を伸ばして告げる。
気持ちが揺れないように、まっすぐに。
お姉様は、私の言葉を聞いて、嗚咽をもらして泣き始めた。
マティアスが呼んだ侍女に、お姉様が連れていかれた後。
私とワルターさんは、朝食もとらずに馬車に乗ることにした。
御者は、夜間に馬車を修理して待機してくれていたらしい。
すぐに出発することができた。
屋敷の前まで送りに来てくれたのは、マティアスだった。
「本当にご迷惑をおかけいたしました」
深々と頭を下げるマティアスに、私は何も言えない。
代わりに答えてくれたのは、ワルターさんだった。
「あの奥様にはご苦労なさることでしょう。ですが、それもあなたの選んだ結果。大変でしょうが、しっかりと手綱を握っておくことですね」
「はい……」
頭を下げたままのマティアスを置いて、私とワルターさんは馬車に乗り込む。
マティアスは、見えなくなるまで、ずっと頭を下げ続けていた。
「がんばったな」
窓の外。
小さくなっていく、マティアスとお姉様の屋敷を見ていた私は、向かい側に座ったワルターさんを見やる。
赤い瞳で柔らかな弧を描き、微笑みかけてくれるワルターさんに、胸がぎゅっと苦しくなる。
なんだか、その胸に飛び込んでしまいたい気持ちになったけれど、我慢した。
「ワルターさんが勇気をくれたおかげです。本当に、ありがとうございました」
「だが、あれが親戚というのは困りものだ。結婚式に呼ばないわけにもいかんだろう。その時までに少しでも改心してくれていると良いのだがな」
疲れた声を出すワルターさんに苦笑する。
貴族である以上、王に婚姻の報告はするし、結婚式を挙げないわけにもいかない。
親戚であるお姉様をのけ者にするわけにはいかないだろう。
馬車が揺れると、ワルターさんの目が眠そうに細められる。
やがて、硬い壁にこめかみをくっつけて眠りだしたワルターさんは、とても寝苦しそうだった。
ふと思いついて、彼の隣に腰掛ける。
そっと、ワルターさんの頭をこちらへと持ってくると、彼は私の肩に寄りかかって、眠りだした。
彼の呼吸が感じられる距離に、胸が高鳴る。
なんて、罪深いことなんだろうと思い、はっとして手首を見やる。
消えているのではないかと思った手首の数字は、やはり342。
減りゆく余命を淡々と刻み続けていた。




