第二十五話「妙義山・晴天その3」
桐生明日香が退学処分になったその日、俺はというと「ああ、なんだやっぱりそうか」と淡白な感想を抱いていた。しかし、その胸の奥でくすぶるもう一つの感情は認めたくなかった。
もうあの金髪を見ることはできない。
それが頭をよぎっても無理矢理打ち消した。桐生の存在は俺の人生に何も関わりがない方がいい。
でも俺が桐生の手を引いて走り回ったあの時の彼女のほころんだ笑顔が忘れられない。
……馬鹿言え。結局あれから何もなかったじゃないか。
気持ちとは裏腹に社会人になっても人混みの中にあの金髪を探していた。
大宮駅中央改札口豆の木周辺。渋谷センター街スクランブル交差点。新宿駅西口。
目立つ髪の色だ。教師に叱られても頑なに染め直さなかった髪だ。どうせ今でもきっとあの髪色のままだ。
地元の駅ホームへ続くエスカレーター、振り返る人混みの中。地元のショッピングモール賑わうフードコート。気の進まぬままに行った地元の祭り。
桐生はそのどこにもいなかった。最初からその存在がなかったかのように思えた。
会ってどうする。何も話すことなどない。
でももう一度会えたなら、なんでもいい。話がしたい。人との関わりを拒んでいるようだったあいつの目にこの世界はどう映っているのか。俺の視界はとうに淀んだ。綺麗なものはすべて霞んで見える。
桐生は思いもよらぬ山の中にいた。その瞳に美しい景色を湛えるために、孤独を孤独と認めて受け入れるために。
よく考えればそれらしいとも思えた。ただ考えたところでその発想には至らなかっただろう。彼女との出会いは偶然の産物であり、奇跡と呼ぶには仰々しすぎる。
相変わらずの無愛想に怯えつつも満更でない自分の想いを認めるのにそう長くはかからなかった。いや、ずいぶん長かったのかもしれない。あの手を引いてから早十年。十年も彼女を追って探して見つけたのだ。ある意味遅すぎるとも言える。
「好きだ」
まだそれすら言えないからこの時間はもう少し続くのかもしれない。
「あ?なんだ急に?」
そうでもなかった。
「いや……妙義がさ。なんかすげぇ山容じゃん。なんかこう岩〜ってかんじでかっこいいつうか……」
「そうか。そりゃよかったな」
このタイミングで切り出せるほど勇敢でも空気が読めないわけでも無い。やっぱり続くみたいだ。
妙な心拍音を奏でながら大砲岩分岐を過ぎていく。ここ、一般登山道は車道と各ピークを踏む表妙義縦走路の間にあって展望はちまちま存在するもののピークらしきピークはない。あくまでも中腹を横断するだけの道だ。
また石門登山口付近では奇妙な岩の形に好奇心を刺激されまくったのだが大砲岩分岐を過ぎると薄暗く狭い登山道を歩くのみになる。
中にはこうした岩の天井を頭上にしながら進んでいく道もあり冒険心をくすぐられることもある。少なくとも鷹ノ巣山の稲村岩尾根よりは見所ありだ。また出てきたよこいつ……。傾斜もない分こちらの方が歩きやすい。
「これ階段っていうかハシゴを無理矢理階段にしたみたいな感じだな」
桐生が現れた階段(仮)を見て言った言葉は言い得て妙。一段一段靴がほとんど浮く。踏み外しても高低差はなく間隔が狭いので怖いということもないが、手すり部分に草木が覆い被さる箇所がやたらと多い。葉っぱの裏にマダニなんていようものなら噛みつかれることは実に容易い。
「……それにしてもだんだん飽きてきたな」
言うまいと思っていた言葉が漏れる。展望は新緑に覆われて見えない。できればこの緑を上から眺めたいものだ。
「たまに上見てみろよ。そうすりゃ気分も晴れる」
桐生の言う通り上を見上げると荒々しい岩壁が確かに自分の遥か上にある。妙義山の醍醐味であり、味気ない料理に塩をかけるようにそれからちまちま上を見続けた。
危険箇所はほとんどないとはいえ、ほとんど展望のない中間道を歩くのか、それとも景観がよく、終始危険と隣り合わせの表妙義縦走路を登るのか。極端すぎやしませんかね。正解は「妙義の山容を遠くから見る」だったりするのだろうか。いや、俺の回答は大砲岩や天狗の評定、見晴台からの絶景を見る。これだ。
ゴール付近の妙義神社付近になると鎖場付きの見晴台が現れる。景観の乏しい登山道に飽きてきたので迷いなくそちらへと向かう。
「うーん……まぁ開放感がすごいね」
「あんま喜んでねぇだろお前」
言うな。言ってくれるな。
石門周辺からかなり下ってきたので見える景色はかなり違う。ただあの見晴台から見た景色が強烈すぎたのだ。これはたぶん妙義神社から中ノ嶽神社へ登って行く方が景観や山行そのものがレベルアップしていくので楽しかったのかもしれない。
昼前には妙義神社へとたどり着くことができた。登山道はいきなり境内に続く。静かな境内には踏みつければ沈むほどの細かい砂利が敷き詰められ、神社そのものはまるで東照宮を思い出すほど立派で豪華に構え、中ノ嶽神社とはまた違った趣がある。どちらにせよ静謐な空間だ。
そんな空間に微かな熊鈴の音が聞こえた。キョロキョロ辺りを見回してみるが人っ子一人見当たらない。
「……あ、これか」
桐生も音の出所を探していたようで、ふとその視線を追うと木の枝に小さな風鈴がくくりつけられ小さく透明感のある音を奏でていた。
「この控えめな感じがいいな」
風鈴はいくつもあってその全てが探さなければ分からないような位置で風に揺れている。あくまでも風流として音を感じる趣向のようだ。
「でもこれ何も知らないまま深夜にここ来たら流石に怖いよな」
「……かもな」
妙義神社の長い長い階段を下り、その麓にある道の駅みょうぎへ。朝からなんとなく曇りがかっていた空は見事に晴れ渡って、そんな青空の下でそびえる妙義山を見ながらの昼ごはん。結局いつものカップ麺にはなった。
「……邪魔くせえ」
時折吹く風に煽られる髪を押さえつけながら麺をすする桐生。
「短くしたらいいんじゃね?」
「あんまし切ったことねぇから似合うかどうか分かんねぇよ」
「……いや、たぶん似合うんじゃねぇか?いっそのことガッツリ切っちゃえば?」
桐生は何度も髪を摘んではまるでこちらを睨みつけるようにして返す。
「似合わねぇよ」
「いや似合うって。……まぁお前の髪だし好きにしたらいいんじゃないか」
「……考えとく」
思えば桐生は昔からこの長い髪型だったので短くしたら新鮮味があっていいんじゃないかと思った。まぁこう見えてこだわりが強いのは知っている。あまり期待しないでおこう。
妙義神社方面から中ノ嶽神社までは公共交通機関が一切ない。車まで自分の足で戻らなければならないのがこの妙義山の辛いところだ。
流石に往路で戻る体力はなく、長い県道を歩いていく。
「車でも結構長いって思ったけど、これ歩いていくんだよな?」
「しょうがねぇだろ。でも金鶏橋から登山道あるからそれでショートカット出来るぞ」
時折後方から山道を上っていく車を追いつつ会話のない車道歩きが一時間ほど。ついに金鶏橋登山口までやってくる。
登山口に入るといきなり沢が流れて渡渉。現れた看板には「猿注意」の文字がある。
「登山に来て熊注意ってのは見たことあるけど、猿注意ってのもあるんだな」
「群馬栃木あたりはいるだろうな」
必然静かな森の中で猿の姿を探してしまう。野生の猿は凶暴なイメージが強く、やはり会いたくないものだ。人を見たらすぐ逃げてしまうようなシカ類くらいしか遭遇したくはない。
展望もなく薄暗い森を早々と抜けていく。時間にして二十五分。コースタイムの半分だ。
十四時過ぎには中ノ嶽神社前の駐車場に着いた。
時間はかかったが登ったという印象が薄いため、登山というよりハイキングと言った方が良いのかもしれない。
「ついたついた……って車ん中あっつ」
「もうすっかり夏だな」
「これから梅雨入りだってよ。まったくやんなっちまうぜ」
「梅雨明けたらまた登りにこれるんだからいいだろ」
これから先の天気予報はずっとぐずついたままだ。登りに行けるのは果たしていつになるのだろうか。
サイドミラーやバックミラーに映る妙義山に名残惜しさを覚えながら埼玉方面へと車を走らせた。
地元についた頃には辺りは薄暗くなっていた。
桐生から珍しく「家まで送っていけ」と俺に頼まれた。会長と一緒なら適当なコンビニから二人で帰ってもらっていたのだが、そこからだと結構な距離を歩いていかなければならないらしい。
「一人暮らしなんだっけか」
「ああ、高校辞めてからずっとそこだ」
駅から歩いて二十分程度、そこそこ年季の入ったアパートの前で車を停める。「寄っていくか?」そんな言葉を期待してはいたが「じゃあまた今度」と至極当然の挨拶で別れられる。
すぐ近くの自販機でコーヒーを買いつつ桐生が自分の部屋に入っていくのをなんとなく目で追う。
二階の左から三番目。どういうわけか桐生は鍵を開けようとせずにインターホンを押した。
「ああ、お帰り明日香」
「ただいま拓ちゃん。今日も来てたんだ」
「飯できてるけどどうする?」
「先に食べる」
遠い、遠い距離にその会話を聞いていた。冷たい缶コーヒーを握る手が震える。どこかから漂う焼き魚の匂いも、薄暗い空に響く小学生の声も、ポツポツと灯る家の明かりも、何もかもが遠くに思えた。
その最果てにいる桐生は見たこともないような笑顔で優しそうな男の人の元へと消えていく。
その光景に耳鳴りすら聞きながら俺は俺の中の何かが音もなく落下するのを感じていた。
妙義は良い山だよね。癖になるよね。観光客、初心者から超上級者まで楽しめる山だよね。妙義はいいぞ。
参考ルート
中ノ嶽神社〜見晴台〜第四石門〜大砲岩〜本読みの僧〜妙義神社〜県道を経て金鶏橋登山口〜一本杉〜中ノ嶽神社




