01 淫乱メイド
「はぁ……つっかれたぁ……」
重い体を引きずりながら、ゆっくりと確実に、一歩また一歩と足を進めてゆく。
茜色に染め上げられた街並みには夕食の香りが漂い始めている。飲食店や酒場も書き入れ時が迫り、辺りは喧噪に満ちていた。俺の左肩に乗ったラグは呼吸を荒げ、鼻先を慌ただしく動かしながら匂いの元を辿っている。
街が息を吹き返すようなこの時間は嫌いじゃない。活気溢れる光景とは対照的に、気力を搾り取られたこの体が恨めしいだけだ。
石畳へ映し出された自分の影が、舞い踊っているかのように頼りなく左右へ振れている。情けないことこの上ない。
「それにしたってなぁ……」
思わず愚痴がこぼれてしまう。まさか、寺院の仕事がこれほど大変だとは思わなかった。
朝と夕に執り行われる礼拝の儀。そして院内と周囲の清掃。礼拝に訪れる方の誘導もあるし、それとは別に治療院もある。こちらもこちらで清掃は常だし、入院されている方々のお世話に加え、通院される方々の対応にも四苦八苦という有様だ。
司祭って凄い。
奉仕活動も一ヶ月が経過した。毎朝五時集合ということに加え、仕事は慣れないことばかり。正直、疲労困憊だ。時折、ブリジットが声を掛けてくれるのだが、彼女と話すわずかな時間だけが唯一の癒しになっている。
「ジョフロワさんに会ったら、本気で謝ろう」
きっと俺は、とんでもなく失礼なことをしていたのだろう。マリーの一件が絡んでいたとはいえ、やはり相手は聖職者。敬う気持ちを忘れてはならない。それに気付かされただけでも、この奉仕活動は無駄ではなかった。
宿で用意されているであろう夕食を想像しながら、木製の扉をくぐる。その先のカウンター越しに見えるモーリスさんへ睨みを効かせると、彼は即座に渋い顔を見せた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
あの一件の後も仕事だけは真面目にこなしているらしい。俺が強引に奪った二階も清掃してくれている辺りは、本当に反省の様子が窺える。とてもいい兆候だ。
フェリクスさんに拠点として貸し出していることもあり、現在、十部屋のうち半分程度は埋まっている。俺が自室として使っているのは際奥の角部屋だ。そこまで進み、扉の取っ手へ触れようとした時だった。
人の気配がする。即座に身を引きながら、ベルトへ差した護身用の短剣を引き抜いた。同時に、腰の革袋をまさぐる。
さすがに奉仕活動の間は武器を携帯できない。それでなくとも魔剣を失った今、俺に武器と言えるものはないのだが。
壁に背を突け、短剣を構える。呼吸を整えながら気持ちを落ち着かせた。
ジャコブさんはいつもの様子だった。だとすれば宿泊客に紛れて何かを企む輩か、屋外からの侵入ということになる。
「がう?」
肩の上で、ラグが間抜けな声を上げる。なんとも緊張感のない奴だ。
左手で扉をわずかに押し開け、握っていた閃光玉を投げ入れた。隙間から光が溢れると同時に、身を低くして一気に踏み込む。
人影はない。だが気配がする。敵はまだ、この部屋の中へ確かに存在している。しかし、居間と寝室に浴室程度の間取りだ。隠れるとすれば隣の寝室しかない。
すると気配は背後から。完全にやられた。
振り向くより早く、扉が締まる音と共に足音が迫る。まさか裏に隠れていたとは完全に想定外だった。
咄嗟に死を予感したその時だ。
「お帰りなさいませ。ご主人様」
「は?」
唖然とするしかない。振り向いた先には、シルヴィさんが恭しく頭を垂れていた。しかもなぜか、黒地に白エプロンのメイド服姿で。
「ここで、何をしてるんですか?」
どうにか声を発すると、頭を上げたシルヴィさんが澄まし顔で見つめてきた。
「この姿の時は、どうぞシルヴェーヌとお呼びくださいませ」
「は? なんで?」
新しい悪戯だろうか。これは、どう相手をすればいいのか
頭にはカチューシャ。首にカフスを巻き付け、胸の谷間を大胆にさらけ出している。背中も大きく開き、交差した編み上げの紐で申し訳程度に隠しているだけだ。おまけに膝上丈のミニスカートで太ももを見せ付け、膝下は黒の網タイツ。なんなんだこれは。
「本日もご苦労様でした。すぐにお食事になさいますか? それとも、私をお召し上がりになられるのが先ですか?」
「は? え?」
「失礼致しました。私をお召し上がりになられてから、お食事になさいますか?」
なぜか、スカートの裾をわずかにたくし上げる。ただでさえ短いのに、そんなことをしたら下着が丸見えだろうが。
「シルヴィさん……言葉の前後が入れ替わっただけですよね? なんなんですか、その異常に狭い選択肢は。それに、食事は済ませてきましたから」
「そんな……」
わざとらしい大げさな仕草で口元を覆っている。
「別に、何か用意してあるわけでもありませんよね? どうせ、一階のバルバラさんを顎で使って、何かを作らせるんですよね?」
この人の料理は豪快だ。しかも焼くか煮るか程度の技術しかないはず。フェリクスさんが率いていたこのパーティは、いつもエドモンとアンナが料理番だった。
図星のようだが、別段取り乱す様子はない。
「では、どうぞ浴室へ。お背中をお流し致します」
「それも結構ですから」
なぜか鋭い目で睨まれている。
「私に何もさせないおつもりですか?」
「ええ。頼んでないし、望んでません」
「ご主人様のお顔には、欲求不満の相がはっきりと出ております。血走った目と、だらしなく緩んだ口元。今すぐに不満を発散させなければ、お命に関わります」
「そんなわけあるか!」
言っていることが滅茶苦茶だ。その真剣な眼差しは、一向に揺るぐことがない。
「私に従って頂けないのなら、“あの部屋”に置かれていたトランクと荷物一式は、全て処分させて頂きます。現在は別の部屋で丁重に保管しておりますが、仕方ありませんね」
「ちょっと待った! どうやってあそこに?」
鍵は俺しか持っていないのに。
「過去にそういった技術が必要になったもので……一般住宅の施錠ならばお手の物です」
「過去に何があったんですかっ!?」
怖い。怖すぎるよ、シルヴィさん。
彼女の口元が不敵な笑みを形作り、背筋を伝う悪寒に身震いした時だった。
「この街へ戻られてから時々、あの部屋で物思いにふけっていらっしゃいますよね?」
心臓を鷲掴みにされた気分だ。最早、この人に対して恐怖しか感じない。
「知ってたんですか」
「もちろんです。ご主人様のことならば全て……私の体、あの方だと思って、お好きなようにして頂いて構いません」
「いや、いや、いや……」
思わず後ずさりしてしまう。
左肩に乗るラグは、我関せずといった様子で置物のように動かない。廊下で騒がなかったのも、気配で彼女だと察していたのだろう。
「あぁ、そうだ。急用を思い出した。そろそろ新しい剣を捜しに行かないと……」
「トランクがどうなってもよろしいので?」
隣をすり抜けようとしたが、その言葉に足を止めざるを得なかった。
「それだけは困ります」
セリーヌの私物を勝手に処分しようとするこの人も問題だが、彼女がいつ帰ってきてもいいように、荷物とあの部屋だけは誰にも譲れない。
「では浴室へ参りましょう……剣ならば素晴らしいものをお持ちなのですから、急ぐ必要はございません。わたくし、ご主人様になら何度刺し貫かれても構いません。何度でも昇天させて頂きたいほどです」
しなだれかかってくるシルヴィさんに背を押され、そのまま浴室へ。そして、歓楽街の遊女に勝るとも劣らない、過剰で過激な奉仕が待っていた。
☆☆☆
「もうダメだ……」
ようやく解放された後、シルヴィさんを追い出しベッドへ倒れ込んだ。全身がだるく、もうこれ以上は動きたくない。
だが、そこで不意に気付いた。いつもと違い、微かな香草の匂いが漂っている。なぜか体が動かない。
するとドアの施錠が解かれ、再びシルヴィさんが顔を覗かせた。
「ご主人様。ここからが本番ですから」
近付いてきたシルヴィさんは、ベッドの下から小瓶を引きずり出した。
「毒草の一種を煎じ、この部屋で炊いておきました。お酒に酔った酩酊状態と同様の症状を起こす秘術です。これらの技を使ったのは実に数年ぶり。腕は衰えないものですね」
怪しい笑みを浮かべ、小瓶に栓をする。
「ご主人様の抑圧された不満を解放して差し上げますから……」
彼女はメイド服へ手を掛けて微笑んだ。
「着たままの方がよろしいですか? でも、ご主人様はおっぱいが大好きなようですからね……上だけ脱ぎましょうか?」
全身から漂う妖艶な色気。艶めかしい笑みを浮かべて胸を持ち上げた淫乱メイドが、ゆっくりと迫ってきた。
ほんのり上気した顔と、結い上げられた濡れ髪。なんともそそられてしまう。
「今夜は寝かせませんよ。覚悟してください」
もう、この破壊力に打ち勝てない。