第1話 幼馴染(モブ)は剣を取る
「貴様の罪はお見通しだ! 裁判を待つまでもない! 我が剣で断罪してやる!!」
第二王子レオンハルト・ラグナ・アルヴァレスが剣を振り上げた。
その先にいるのは婚約者のエレオノーラ・フォン・レインフォード。金色の髪を揺らした公爵令嬢は、卒業式の会場で罪人のように立たされている。ヒロインをいじめた悪役令嬢。
この場ではそういう扱いだ。俺からすれば、ただの幼馴染だけどな。
いや。ただの、は違うか。俺にとっては、とても大事な幼馴染だ。
だからその剣が振り下ろされる直前、俺は会場の横から飛び出した。
金属同士がぶつかる音が響く。手の中に重い衝撃が走った。
腕がしびれる。足も震える。というか普通に怖い。
それでも俺の剣は、殿下の剣を受け止めていた。
「な、なんだ貴様!」
殿下が目を見開く。そりゃそうだろう。王子様が悪役令嬢を断罪する劇的な場面に、急に知らない男が割り込んだのだ。
しかもその男は、主人公にも攻略対象にも引っかからない。名前すら出ないようなやつである。
「アルト……?」
後ろから小さな声がした。お、気づいてくれたらしい。俺の名前はアルト・フォン・クライゼル。
クライゼル公爵家の嫡男で、学園では騎士科。ついでに、この世界が乙女ゲーム『花の乙女の恥じらい』、通称はなはじの世界だと知っている転生者でもある。
前世も男だ。男がなんで乙女ゲームを知っているのか。姉と妹がいれば、そういう事故は起きる。
妹は俺のギャルゲーを勝手にやっていたし、俺は妹の乙女ゲームを横から眺めていた。家庭内の趣味の境界線なんて、だいたい雑だ。
はなはじの主人公は、花のように可憐な少女ミリア・ベルティナ。王子、騎士、文官令息、その他もろもろと恋をする。
その恋路の邪魔者として、どのルートにも顔を出すのがエレオノーラだった。レオンハルト殿下の婚約者で、公爵令嬢で、ゲーム上はいわゆる悪役令嬢。
だが俺はヒロインよりエレオノーラ推しだった。高飛車っぽく見えるけど筋は通す。婚約者として努力もしている。
負けイベントで見せる寂しそうな顔なんか、なかなかくるものがあった。
妹には「お兄ちゃんはまた面倒くさい女を好きになる」と言われた。うるさい。そういうのがいいんだよ。
その俺が、よりによってはなはじの世界に生まれた。王子様の席にも、攻略対象のきらきらした列にも入らず、エレオノーラの近所にいた幼馴染として。
幼馴染なら主要キャラっぽいと思うだろう。違うんだな、これが。
ゲーム本編で俺に割かれた枠は、たぶん一文だけだった。幼い頃は近所の幼馴染と野原を駆け回っていた。そんな感じの生い立ち説明。
顔も出ない。名前も出ない。立ち絵もない気がする。
つまり、完全なるモブである。
前世を思い出したのは五歳の時だった。エレオノーラと川辺で遊んでいて、調子に乗って石の上を飛び移っていたら滑った。頭を打った。
目を覚ました。前世の記憶がこんにちはした。
最初はわけがわからなかった。だが隣で泣きそうになっていた幼いエレオノーラを見て、全部つながってしまった。この子、悪役令嬢じゃん。
俺、幼馴染じゃん。
理解力Sである。最強である。いや最強なら川辺で転ぶなという話だが。
それから俺はいろいろやった。
エレオノーラにはレオンハルト殿下に深入りするなと言った。桃色の髪の少女には気をつけろとも言った。学園で変な噂を流されないようにしろとも言った。
貴族令嬢として不用意に人を追い詰めるなとも言った。
今考えると五歳児にしては余計なお世話すぎる。でもこっちはこっちで必死だった。はなはじには面倒なイベントがある。
卒業式の日の断罪イベントだ。
エレオノーラがヒロインをいじめたとして責められ、婚約破棄されるあれである。普通のルートなら追放や修道院送りで済む場合もあるらしい。
だが逆ハーレムルートを狙うと、レオンハルト殿下がその場でエレオノーラを斬り殺す展開がある。
攻略サイトで見ただけなので細かい条件は知らない。妹が全ルートを横でやっていた記憶もない。だが一つだけは頭に残っていた。
断罪イベントで悪役令嬢が死ぬ可能性がある。だから俺は鍛えた。
父上、グラディウス・フォン・クライゼルに頼み込んで騎士に稽古をつけてもらった。最初は鼻で笑われた。公爵家の嫡男が急に何を言い出した、と。
それでも頼んだ。
泣きついた。土下座まではしていない。公爵家の嫡男なので。
気持ちだけは床にこすりつけた。
学園でも騎士科を選んだ。
剣を振った。体を鍛えた。勉強もした。
乙女ゲームの世界だからなのかは知らないが、どれだけ鍛えてもごりごりの筋肉騎士にはならなかった。細身のままそれなりに引き締まる程度で止まった。
いや、見た目は悪くないのかもしれない。でも王子の剣を受け止める予定の人間としては、もっとこう、壁みたいな体がほしかった。
そして今日。
卒業式の会場は、途中から式典の空気をなくしていた。
レオンハルト殿下がエレオノーラの罪を読み上げる。ミリアを階段から突き落とそうとした。私物を隠した。悪質な噂を流した。
聞きながら、俺は胃のあたりが重くなるのを感じていた。
証拠として出された物は、どれも薄い。誰が見たのか、いつ起きたのか、肝心なところがふわふわしている。
それでも会場は、殿下の声に引っ張られていった。ミリアが震えれば、取り巻きたちは正義の側に立った顔をする。
教師も貴族も、口を挟む前に空気を読む。証拠を確かめる場から、殿下が怒る理由を探す場に変わっていた。
エレオノーラは否定した。当然だ。
彼女はそんな事をしていない。少なくとも俺の知るエレオノーラは、そんな雑な真似をしない。そもそも俺が小さい頃からうるさく言っていたのだ。
ミリアには近づくな。関わるなら記録を残せ。怪しい時は誰かを同席させろ。
面倒くさい幼馴染だと思われていた自覚はある。だが今日だけは役に立ったはずだ。なのに殿下は聞かなかった。
「言い逃れをするな!」
その怒鳴り声で、近くにいた令嬢が肩をすくめた。ミリアの肩が震える。カイル・ローデンが拳を握る。
セドリック・バルシュミットがエレオノーラを睨む。ノエル・アストレアは床を見たまま何も言わない。
次の瞬間、殿下の手が剣にかかった。嫌な音がした。だから俺はここにいる。
「殿下」
震える足を押さえつける。声だけはなるべく落ち着かせた。ここで声が裏返ったら恥ずかしい。
いや生きていれば恥ずかしいで済む。死んだらそこで終わりだ。なら裏返ってもいいのかもしれない。
よくないな。
「この場で無抵抗の令嬢を斬り捨てるのは、あなたの尊厳に関わります。どうか剣をお引きください」
言えた。必死に取り繕って無表情で王子に物申す俺、少しかっこいい。内心は今すぐ逃げたい。
「貴様、俺に指図するのか!」
「指図ではありません。忠言です」
「同じことだ!」
殿下がさらに力を込める。俺は歯を食いしばって押し返した。
正面からやり合えば負ける可能性が高い。相手は王族として一流の教育を受けている。剣の腕だって飾りの域を越えている。
ただ、ここは卒業式の会場だ。決闘場みたいに好き勝手に斬り合う空気までは作らせるな。
周囲の目がある。貴族も教師もいる。俺が公爵家の人間である事も大きい。
ここで大事なのは腕力より、周りに見られているという事実だ。貴族と教師の前で、殿下に二撃目を出させない。頼むから状況を見ろ第二王子。
「レオン様……」
ミリアが殿下の腕に縋った。桃色の髪がふわりと揺れる。大きな瞳には涙が浮かんでいた。
かわいい。たしかにかわいい。だが俺の好みとは別方向だった。
「さすがにこの場で斬るのは駄目です。お願いします。わたしのために怒ってくださったのは嬉しいですけど、これ以上は……」
言葉だけ聞けば健気なヒロインである。だがその時、ミリアの視線が俺に向いた。怯えや怒りとは別のものが、そこにあった。
自分の知らない誰かを見つけてしまったような目。本来そこにいるはずのない幽霊を見たような目だった。何だその目。
俺は一応この世界に十八年いるんだが。存在くらい許してほしい。
「……ミリアがそう言うなら、今はやめてやる」
レオンハルト殿下は剣を引いた。俺も剣を下ろす。止まった。
止まったぞ。
手がじんじんする。今すぐ座り込みたい。だが殿下はまだ終わらせる気がなかった。
「エレオノーラ・フォン・レインフォード! お前との婚約はこの場で破棄する! お前のような女の顔など二度と見たくない! 王家の名において命じる。二度と俺の前に姿を現すな!」
会場がざわめいた。婚約破棄。テンプレである。
ただ実際に目の前でやられると、テンプレだねと笑ってはいられない。
王子と公爵令嬢の婚約破棄だ。当人同士の恋愛感情で片づけた瞬間、王家と公爵家の関係ごと転ぶ。
これ、あとでめちゃくちゃ面倒なやつだ。
「行くぞ、ミリア」
「は、はい……」
ミリアは殿下に寄り添って歩き出した。取り巻きたちも続く。騎士科のカイル。
文官家のセドリック。何を考えているのかわからないノエル。
攻略対象たちである。やっぱり逆ハーレムルートじゃねえか。すれ違いざま、ミリアがもう一度だけ俺を見た。
ほんの一瞬だった。だがその顔には納得できないという色があった。泣きそうなヒロインより、予定外の異物を見つけた人間に近い。
こっちはこっちで予定を狂わせるために生きてきたんだよ。悪いなヒロイン。殿下たちが会場を出ていく。
扉が閉まった瞬間、俺はその場にへたり込んだ。
「こ、こわかった……」
本当に怖かった。前世を思い出してから十三年くらい経つけど、本物の剣は怖い。画面越しに見る断罪イベントとは違う。
音がある。熱がある。殺意がある。
あれを真正面から受け止めた俺はかなり頑張ったと思う。誰か褒めてくれていい。
「……アルト」
後ろから声がした。振り返ると、エレオノーラが俺を見下ろしていた。金色の髪は少し乱れている。
顔色も悪い。それでも背筋だけは伸びていた。
泣き崩れたりはしない。でも指先は震えていた。扇も持っていない手が、ドレスの布をぎゅっと掴んでいる。
「なんで助けてくれたの?」
「なんでって、幼馴染だから当然だろ」
「もぶ?」
「ああいや、こっちの話」
危ない。素で言ってしまった。
「とにかく、お前がこんなところで斬り捨てられたらレインフォード公爵家の名誉にも関わるだろ。裁判もなしに王子が公爵令嬢を殺しましたなんて話になったら国が揺れるぞ」
「婚約破棄された時点で十分揺れるわ」
「それはそう」
正論である。会場の貴族たちは遠巻きにこちらを見ている。誰も声をかけてこない。
さっき第二王子に婚約破棄されたばかりの公爵令嬢に近づくのは危険だ。俺も本当なら避けたい。
でもここで避けるなら、十三年も剣を振っていない。
「……私、そんなに憎まれていたのかしら」
エレオノーラがぽつりと言った。その声は小さかった。俺にだけ届くくらいの声だった。
「私が何を言っても、殿下は聞いてくださらなかったわ。誰も止めなかった。あの場で斬られていたら、皆はそれで納得したのかしら」
俺はすぐには答えられなかった。彼女の目は俺を見ていない。殿下たちが出ていった扉を見ている。
でも彼女の視線は、扉の向こうまで届いていない気がした。残っているのは、あの瞬間に浴びせられた会場の目だ。
悪役令嬢。罪人。斬られても仕方ない女。
そんなふうに見られた痛みを、俺が軽口で埋められるはずもなかった。
「納得させない」
だからそれだけ言った。エレオノーラがこちらを見る。
「お前がやっていないなら、そう証明する。斬られて終わりになんかさせない」
「……簡単に言うのね」
「楽な話にはならないだろうな。相手は王子だし、ヒロインだし、攻略対象もそろっている。地獄みたいな面子だ」
「ひろいん?」
「ああいや、またこっちの話」
今日は口が滑る。命の危機を乗り越えたばかりなので許してほしい。エレオノーラは少し息を吐いた。
笑ったようにも見えた。目はまだ暗い。
「それなら、あの場で斬られた方がまだ家の名誉は保たれたかもしれないわね」
その言葉で、俺は立ち上がった。つい彼女の頬に手が伸びる。軽くつまんだ。
「何言ってんだバーカ。死んだら名誉回復も何もないだろ」
「ひ、人前で何をしているの!」
すぐに手を払われた。ですよね。
「婚約もしていない異性に簡単に触れるのは望ましくないわ。あなた公爵家の嫡男でしょう。礼儀をどこに置いてきたの」
「剣を受け止めた時に落としたんだと思う」
「拾ってきなさい」
「はい」
いつものエレオノーラだった。少し安心した。
彼女は昔からこうだ。気が強くて真面目で、俺の雑な言葉に呆れながらも相手をしてくれる。ゲームでは悪役令嬢と呼ばれていた。
でも俺にとっては川辺で一緒に泥だらけになって遊んでいた幼馴染だ。たかがシナリオなんぞに殺されてたまるか。
「でも……ありがとう」
エレオノーラが言った。さっきよりも小さな声だった。
「あなたが昔から言っていたこと、話半分だったけれど聞いていてよかったわ。ミリア嬢にはなるべく近づかないようにしていたし、記録も残してある。穴はあるけれど、自衛にはなるはずよ」
「話半分かよ」
「全部信じろという方が無理でしょう。五歳の男の子が急に桃色の髪の少女に気をつけろって言い出したのよ。普通は熱を疑うわ」
「それはそう」
また正論である。だが記録を残してあるのは助かる。証拠があるなら戦える。
問題は相手が第二王子とヒロインと攻略対象たちで、しかも王家が絡む点だ。控えめに言って地獄である。
「これからどうするんだ?」
「お父様に報告するわ。レインフォード公爵家として正式に抗議することになるでしょうね」
「うちも巻き込まれるな。俺が殿下の剣を止めちゃったし」
「助けてくれたことには感謝しているわ。でも、あなたまで危険な立場になるかもしれない」
「今さらだろ」
俺は笑った。笑うしかなかったとも言う。
「こっちはお前が死ぬかもしれないとわかっていて、今日まで剣を振ってきたんだ。危険な立場になるくらい予定の内だよ」
「……どうしてそこまで」
エレオノーラが俺を見る。強い目だ。でもその奥が少し揺れている。
婚約破棄された。王子に斬られかけた。無実の罪を着せられた。
それでも背筋を伸ばしている彼女が、今だけは頼る場所を探しているように見えた。
「ねえ、アルト」
「なんだ?」
「もし私がここで、全部捨てて逃げたいと言ったら……あなたは笑う?」
「笑わない」
「じゃあ、一緒に逃げてと言ったら?」
周囲の音が、急に布越しになった。彼女の言葉が本気そのものだとは思わない。公爵令嬢である彼女に、何もかも放り出す選択肢がどれほど重いかもわかっている。
それでも口に出した。口に出さなければ立っていられなかったのだと思う。
だから俺は、できるだけ軽く答えた。
「別に構わないぞ。隣国でも辺境でもどこでもついていく」
「え……」
「ただ逃げるなら準備はいるな。金と馬車と身分証。あと父上に見つからない経路。うちの父上は怒ると本気で怖いからな。第二王子の剣より怖いかもしれん」
「そこまで具体的に考えなくていいわよ」
「逃げるなら計画性は大事だろ」
エレオノーラの頬が少し赤くなった。こういう顔を見ると、やっぱり助けられてよかったと思う。
「なんで……幼馴染だから? 同情?」
「なんでって、お前のことが好きだから」
言った瞬間、近くの令嬢が扇を閉じる手を止めた。しまった。いや、しまってはいない。
本音だ。でも言うタイミングというものがあるだろう。
婚約破棄直後の卒業式会場。周囲には貴族が山ほどいる。そこで告白する公爵家嫡男。
なかなかの問題児である。父上に知られたら今度こそ説教だけでは済まないかもしれない。
「……ばか」
エレオノーラはそれだけ言って顔をそらした。耳まで赤い。可愛い。
普段すましている分、破壊力がすごい。
「と、とにかく今の発言は聞かなかったことにするわ。まずはお父様への報告が先よ」
「はい」
「あなたも早くクライゼル公爵に報告なさい。勝手に王子の剣を受け止めたのだから」
「勝手にっていうか、受け止めないと死んでたんだが」
「それでも報告は必要でしょう」
「はい」
これは怒られる。間違いなく怒られる。だがエレオノーラが生きているなら安いものだ。
屋敷の者が迎えに来る。レインフォード家の侍女がエレオノーラに駆け寄った。彼女は一度だけ目を閉じ、それからいつもの公爵令嬢の顔に戻った。
強いなと思った。同時に、強くいなければ崩れてしまうのかもしれないとも思った。
俺たちはそれぞれの家の者に連れられて会場を出ることになった。去り際、俺は扉の方を見る。レオンハルト殿下とミリアたちはもういない。
だがミリアが向けてきたあの目だけが、どうにも頭から離れなかった。
自分の知らない誰かを見るような目。本来そこにいるはずのない幽霊を見るような目。その意味を知るのは、もう少し先の話だ。
俺は乙女ゲームのシナリオを知っている転生者。その日から、悪役令嬢の幼馴染だった俺の卒業後は、予定と違う方向へ転がり始めた。




