第9話:「至宝の輝き」
男の瞳が、変わった。
カイロは、その変化を見ていた。
黄金の瞳が、何か別のものに変わっていく。光を失い、代わりに現れたのは──深く、静かな、底知れぬ色。まるで深淵を覗き込んでいるような。
風の音が遠くなり、木の葉の擦れる音が小さくなる。鳥の鳴き声が消えていく。すべてが遠く、まるで水の中に沈んでいくような。静けさが、カイロを包み込む。
空気が、重い。
呼吸がしづらい。何かが、体を押さえつけているような圧力を感じる。肌に触れる風が、冷たくなった。森の匂いも薄れ、何も感じなくなる。
男は、動かなかった。
ただ、カイロを見つめている。その瞳は、深淵のような色のまま。
呼吸のリズムが整っているようだ。体が完全に静止し、視線がカイロに固定されている。
何が起きている。
この男は、何をしているんだ。
そして──
カイロは、気づいた。
男は自分の頭上を見ている。
確かに感じる。何かが、そこに存在しているかのように。光のような、温かいような。
男は、それを見ている。
カイロは、息を呑んだ。
◇◇◇
ゼノリスは、星が浮かび上がるのを見つめた。
最初は、かすかな光。小さな点が、青年の頭上にぼんやりと浮かんでいる。
それが、次第に形を成していく。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
そして──六つ。
六つの星が、青年の頭上に浮かんでいた。
それは──黄金に輝いていた。
灰色に沈んだ世界の中で、その星だけが鮮やかな色を放っている。黄金の輝き。温かく、柔らかく、だが力強い光。まるで、太陽の欠片のような。
ゼノリスの心臓が、高鳴った。
六つ。
☆6。
ゼノリスは、星の配置を見つめた。視界の中に、文字が浮かび上がる。
【黄金の星。☆/☆☆☆☆☆☆】
現在の実力は☆1。だが、到達可能な限界は☆6。
そして──その星の下に、別の文字が浮かんでいた。
【万能の影】
権能の名。この青年が習得できる、唯一無二の絶対能力。
ゼノリスは、息を呑んだ。
黄金──。
至極の理が示す、好意の色だ。
敵意があれば漆黒。中立なら白色。だが、この青年の星は黄金に輝いている。
つまり──この青年は、すでに私を信じようとしている。出会ったばかりなのに。謝罪を受けたばかりなのに。
ゼノリスは、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
そして──☆6という数字の重さ。
限界突破。
☆6に到達できる者は、極めて稀だ。数千人、数万人に一人。いや、もっとかもしれない。
聖教会は、この青年をゴミと判定した。無能。価値のない存在。
だが──真実は違う。
この青年は、世界の至宝だ。
ゼノリスは、ゆっくりと膝をついた。
もう一度。青年の目線の高さまで、体を下げる。地面が膝に触れ、冷たい泥の感触が伝わってくる。
ゼノリスは、青年を見つめた。
青年は、困惑した表情で男を見ている。何が起きているのか、理解できていない様子だ。
ゼノリスは、静かに口を開いた。
◇◇◇
男が、また膝をついた。
カイロは、混乱していた。
なぜ、もう一度膝をつくんだ。さっき、謝罪は終わったはずじゃないのか。
男の表情が、変わっている。真剣で、だが優しい。何か、重要なことを伝えようとしているような。
そして──男が、口を開いた。
「世界は君を『無能』と呼んだ」
カイロの体が、震えた。
無能──。
その言葉は、カイロを一生縛り続けてきた言葉だ。聖教会の鑑定石が示した、ゴミランクという評価。価値のない存在。何もできない存在。
遠征隊員たちも、そう言っていた。「魔族のくせに」「無能のくせに」「お前は何の役にも立たない」。
カイロは、それを信じていた。
自分は、本当に無能なんだ。価値がないんだ。生きている意味がないんだ。
喉が渇く。息がうまく吸えない。体が震え、手が握りしめられる。
だが──。
男は、続けた。
「ですが、私には見えます」
カイロの目が、見開かれる。
「君のその身に宿る、真の価値が」
男の声は、静かで、だが揺るぎない確信に満ちていた。
真の価値?
俺に、……価値があるのか?
カイロは、男の目を見つめた。
男の瞳は、もう深淵のような色ではなかった。元の黄金の瞳に戻っている。その瞳は、まっすぐにカイロを見つめている。
嘘をついているようには見えない。冗談を言っているようにも見えない。
本気だ。
この男は、本気で言っている。
男が、さらに言葉を続けた。
「君は強い」
カイロの呼吸が止まった。
「──世界の至宝です」
瞬間──カイロの目から、涙が溢れた。
◇◇◇
ゼノリスは、青年の涙を見た。
青年の目から、透明な雫が零れ落ちる。一筋、また一筋と、頬を伝い落ちていく。
青年は、声を出さなかった。ただ、涙を流している。止めることもできず、ただ溢れてくる涙を。
その涙は、喜びの涙か。それとも、悲しみの涙か。
いや──どちらでもあるのだろう。
人生で初めて、正当に評価された。
人生で初めて、価値を認められた。
人生で初めて、「強い」と言われた。
その喜びと同時に。
これまで否定され続けてきた悲しみ。踏みつけられ続けてきた痛み。それらが一気に溢れ出しているのだろう。
ゼノリスは、静かに待った。
青年が落ち着くまで。青年の心が、この真実を受け入れるまで。
◇◇◇
カイロは、涙が止まらなかった。
頬を伝う涙の温かさ。塩辛い味が、唇に触れる。視界が滲み、男の姿がぼやける。
世界の至宝──。
俺が?
無能と呼ばれ続けた、俺が?
囮として捨てられた、俺が?
カイロの体が震える。喉が詰まり、声が出ない。息を吸おうとするが、空気がうまく入ってこない。
ただ、涙が溢れてくる。次から次へと。止まらない。
信じていいのか。
本当なのか。
この男の言葉は、真実なのか。
カイロは、男の目を見つめた。滲んだ視界の向こうで、男は静かに微笑んでいる。
優しい笑みだった。
否定の色はない。嘲りもない。ただ、誠実な笑み。
カイロは、ようやく理解した。
この男は、嘘をついていない。
この男は、本気で言っている。
俺には、価値がある。
俺は、強い。
俺は──世界の至宝だ。
新しい涙が、溢れた。
今度は、純粋な喜びの涙だった。
◇◇◇
ゼノリスは、青年の表情が変わるのを見た。
最初は混乱と困惑。次に、わずかな期待。そして今──確信。
青年は、ゼノリスの言葉を信じた。
ゼノリスは、静かに微笑んだ。
そして──青年の足元に、視線を落とす。
重い鉄の足枷が、青年の足首に食い込んでいる。皮膚は赤く腫れ、血が滲んでいる。鎖が地面を這い、わずかな動きのたびにガチャリと音を立てる。
この鎖が、青年を縛っている。
物理的にも。精神的にも。
ゼノリスは、手を伸ばした。
ゆっくりと、慎重に。青年を驚かせないように。
そして──足枷に、手をかけた。
冷たい鉄の感触が、掌に伝わってくる。ざらりとした表面。錆びた金属の匂い。
ゼノリスは、青年を見上げた。
青年は、息を呑んでいる。目を見開き、男の手を見つめている。
ゼノリスは、静かに言った。
「君を縛るこの鎖も、もう必要ありません」
青年の目が、さらに見開かれる。
足枷が、わずかに軋む。
その音が、森に静かに響いた。




