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「命乞いした腰抜け」と汚名を着せられた魔王、その瞳で真実を暴く ~「無能」と捨てられた逸材たちを最強へと導き、誠実な国造りを始めます~  作者: ぼん
第二部:咆哮

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第78話:「次なる戦場へ」

 地図が、机の上に広がっていた。


 旧魔王領の全域が黄ばんだ羊皮紙に刻まれ、街道が細い線で示され、拠点が点で打たれている。燭台の炎が揺れるたびに、線と点の影が微かに動く。管理施設の窓の外は完全に暗く、潮の音だけが低く届いていた。


 ゼノリスは地図の上に置いた指先を、ゆっくりと離した。


 カイロが地図を覗き込み、一点を指で示した。港の記号から内陸へ延びる街道の先、旧魔王領の奥に位置する一点だ。


「港湾を押さえた今、魔人領主の領地への侵攻が可能です」


 静かな声だった。感情を削いだ、いつもの報告の声だ。


「補給線が確保されています。人員の移動も、陸路より港湾経由の方が速い。侵攻のタイミングとしては、今が最適です」


 シルヴァが地図の端に手を置き、口を開いた。


「港湾からの補給線があれば、長期戦にも耐えられます」


 カイロの言葉を補うような、短い言い方だった。


「物資の継続的な供給が可能である以上、拠点を取った後の維持にも問題はありません。押し切れます」


 シルヴァが言い終えると、室内に静けさが戻った。


 燭台の炎が揺れた。窓の外で波が砕け、遠く潮騒が重なる。帳簿の束が机の端に積まれたまま、動かない。


 ゼノリスは地図の一点から目を上げなかった。


 左の手のひらを机の縁に置く。木の冷たさが掌に伝わった。指が一本、木目の上をゆっくりとなぞる。それだけだった。


「……そうですね」


 ゼノリスが口を開いた。


 声は穏やかだった。いつもと変わらない、丁寧な声だ。


「次は、魔人領主の領地です」


 誰も動かなかった。


 カイロが地図を見たまま、わずかに顎を引いた。シルヴァの指先が、地図の端で止まった。燭台の炎だけが、音もなく揺れた。


 ゼノリスは地図に視線を戻した。


 旧魔王領の奥の一点。そこに、武器と魔石が流れていた。地図の文字は小さく、それでもゼノリスの視線はそこから離れなかった。


 机の縁に置いた手のひらを、静かに持ち上げた。


◇◇◇


 カイロが地図の前で腕を組み直した。


「魔人領主の領地は、旧魔王城への最後の関門です」


 声に迷いがなかった。


「港湾から街道を北上すれば、五日で領地の境界に達します。問題があるとすれば――」


 カイロが一度、言葉を切った。地図の上で、指が境界の線をなぞる。


「領地の防衛力です。現時点では詳細が不明です。内部の情報を取れるかどうかが、侵攻の精度を左右します」


「情報の収集は、移動と並行できます」


 シルヴァが静かに応じた。


「私が術式で索敵の範囲を広げれば、領地の外縁から内部の配置をある程度把握できます。侵攻前に手を打てます」


 カイロが小さく頷いた。


「では、出発の準備を進めます。港の守備はガルムとセラに任せる。補給の初回輸送は三日後に設定します」


 ゼノリスはカイロとシルヴァを交互に見た。


 二人とも、地図から顔を上げていた。カイロの目が、静かにゼノリスを見ている。シルヴァの藍色の瞳も、同じ方向を向いていた。何かを待っているのではなく、ただそこにいる、という目だった。


「わかりました」


 ゼノリスは地図に視線を戻し、もう一度だけ旧魔王領の奥の一点を見た。それから、地図から手を離した。


「準備を進めてください。出発は三日後とします」


◇◇◇


 管理施設の廊下に、足音が遠ざかっていった。


 カイロとシルヴァが部屋を出た後、室内に残ったのはゼノリス一人だった。机の上に地図が広げられたまま、燭台の炎が揺れている。炎の動きに合わせて、地図の上の線と点が光と影の間で揺れた。


 ゼノリスは机から離れ、窓の前に立った。


 外は完全な夜だった。港の水面が暗く、沖に停泊した船の輪郭が星明かりに薄く浮かんでいる。どこかで波が砕け、その音が一定の間隔で届く。潮の匂いが窓枠の隙間から漂い、燭台の蝋の匂いと混じった。


 広場は暗かった。朝に人が集まり、物資を受け取り、帰っていった石畳が、今は誰もいないまま夜の中にある。壁際に積まれた空の木箱が、星明かりの中で輪郭だけを見せていた。


 ゼノリスは窓枠に片手を当て、外を見続けた。


 風が吹いた。潮の匂いが濃くなり、窓ガラスが微かに鳴った。


 その時、何かが『届いた』気がした。


 音ではなかった。風に乗った残響のような、あるいは空気の震えのような、形のない何かだ。


 ゼノリスは顎をわずかに上げた。耳を澄ますのではなく、ただその感覚の方向に意識を向ける。


――歌声。


 届いたのか、届いていないのか、ゼノリスには判断できなかった。港の夜風は音を運ぶことがある。それだけかもしれない。


 それでも、ゼノリスは窓枠から手を離さなかった。


 かつて、広場の人波の中で聞いた声がある。勇者の栄光を称える言葉が乗せられていたその声は、しかし言葉とは別の何かを持っていた。


 言葉の意味ではなく、声そのものの奥にあるもの。祈りに近い、純粋な何かだった。


 ゼノリスは窓の外の暗闇を見た。


 暗闇の奥に、見えないものがある。この港から、街道を辿り、旧魔王領を越えた先に。


 一つずつ、取り戻す。


 ゼノリスは窓枠に当てていた手を、ゆっくりと握った。指先が木材の角に食い込む。冷たさが掌に広がった。


――必ず、あなたを救います。


 声には出なかった。ただ、窓枠を握った指先に、力が入った。


 ゼノリスは窓から身を離し、机に向き直った。地図の上で、旧魔王領の奥の一点が燭台の光に浮かんでいた。



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