第63話:「繁栄という名の牢獄」
潮の匂いが、先に来た。
森の端を抜けた瞬間、湿った土の匂いが途切れた。代わりに塩と魚と腐りかけた木材の匂いが混じり合い、ゼノリスの鼻を打った。街道の石畳が、木立の向こうに見えた。白灰色の石が、港へ向かう緩やかな坂を下っている。
踏み出す前に、外套のフードを目深に引いた。
隣のカイロは、暗色の外套のフードをすでに被ったまま、音もなく半歩後ろに収まった。シルヴァは袖口に手を収めたまま街並みを静かに見渡している。
石畳に足を踏み出した。靴底が硬さを返してくる。
坂の両側に、市場の屋台が並んでいた。橙、黄、深紅。染めた旗が軒先から連なり、風に揺れるたびにぱたぱたと乾いた音を立てた。
物売りの声が重なり合い、荷車が縁石に当たるたびに鈍い音が響く。御者が怒鳴り、脇に避けた子どもが笑って逃げた。
広場の中央に、足場が組まれていた。
木材を組んだ台の上から、白布が垂れ下がっている。『勇者の恩寵に感謝を』と染め抜かれた文字の周囲に、金色の糸で刺繍された太陽のような文様。
足場の周囲では、女たちが花輪を編んで柱に巻きつけていた。通りの石畳には色砂が撒かれ、靴が踏むたびに細かく散った。
ゼノリスは足を止めた。
隣でカイロが、小さく口を開いた。
「明日、祝祭があります。毎年この時期に、勇者の奇跡を称える式典が行われると聞いています」
ゼノリスは何も言わなかった。足場を、もう一度見た。
屋台の前で女が笑っていた。
値切りながら、笑っていた。その隣で荷を抱えた男が知り合いに声をかけ、笑っていた。子どもが犬を追いかけて、笑っていた。街のどこを切り取っても、笑顔があった。
ゼノリスは歩きながら、【至極の理】を使った。
視界の端に人が映るたびに、その頭上に星が浮かんだ。
値切っていた女の頭上。
【白色の星。☆☆/☆☆】
荷を抱えた男の頭上。
【白色の星。☆/☆☆】
星の数はどれも低かった。教育も機会も奪われた土地では、才能が育つはずがない。だが問題は、数ではなかった。
色だった。
白色は中立の色だ。だがゼノリスが見ている白色は、ただ淡いのではなかった。くすんでいた。内側から何かが削られているような白色だった。
女が笑いながら代金を渡した。
その指先が震えていた。
男が知り合いに声をかけた。
笑顔のまま。視線だけが一瞬、広場の足場へ向いき、すぐに逸らされた。
角を曲がる前に、子どもが立ち止まった。兵士の姿が見えた。子どもの体が、一瞬だけ縮んだ。そのまま逆方向へ走っていった。
旗が揺れた。物売りの声は途切れなかった。笑い声も、途切れなかった。
◇◇◇
宿は港から二本目の路地にあった。
石造りの古い建物で、壁に蔦が這い、看板の文字が風雨で半分消えていた。
カイロが事前に手配していた部屋は二階の奥で、窓が港の方角に面していた。板張りの床は軋み、蝋燭の火が揺れるたびに壁の影が伸び縮みした。
部屋に入り、カイロが扉を閉めた。外の喧騒が、一枚の板の向こうに遠のいた。蝋燭の燃える細い音だけが残った。
「港湾の通行税は、正規の三倍です」
カイロは外套を脱ごうともせず、壁に溶けるような影のまま報告を続けた。
「徴収しているのは、辺境伯の配下が設立した商会です。表向きは独立した民間組織ですが、収益は辺境伯を通じて教会連合圏に還流している。商会に属さない船は、港への入港を事実上拒否されます」
ゼノリスが、短く言葉を差し挟んだ
「物資の徴発はどうですか」
カイロは静かに報告した。
「行われています。農村部から月に一度、収穫量の三割が強制納入されます。拒否した村は翌月の市場利用を禁止されます。市場が使えなければ塩と医薬品が手に入らない」
シルヴァが、細いペンで書き留めていた。紙に走る音が、蝋燭の音に混じった。
シルヴァが顔を上げずに口を開いた。
「三割という数字は正確ですか?」
「実態は四割前後です。徴発時の計量が商会の裁量で行われているため、記録上は三割に抑えられます」
カイロが答えた瞬間、シルヴァの手が止まった。
一拍置いて、また動いた。
ゼノリスは窓の前に立っていた。夜の港が、窓の向こうにあった。石造りの倉庫が並ぶ岸壁に、いくつかの船が繋がれている。船の明かりが水面に揺れ、黒い水の上で引き伸ばされ、ゆらゆらと形を変えた。
波の音が、かすかに届いた。
カイロが、紙片をひとつ折った。
「街道の関門も、同じ構造です。通行証一枚につき銀貨三枚。商会の発行でなければ通れない」
シルヴァのペンが、紙の上で止まった。書き留めるまでもなかった。どこを切っても同じ仕組みが出てくる。その事実自体が、記録より重かった。
「街の者たちは」
ゼノリスが窓から口を開いた。振り返らなかった。
「従っています。異を唱えた商人が二ヶ月前に営業停止になった。以来、声に出す者はいません」
波の音が、また届いた。
「祭りに向けて、物資の追加徴発が先週から始まっています」
カイロが続けた。声の温度は変わらなかった。
「祝祭の費用は民から取り、豊かさを演出して民に見せる。収支の実態を知る者は、商会の中枢だけです」
シルヴァがペンを置いた。
書き留めていた紙を、静かに重ねた。それだけだった。何も言わなかった。
部屋の中が、しばらく静かだった。
外から、港の水音が届いた。船が桟橋に当たる、鈍くて低い音だった。波が来るたびに繰り返された。規則的だった。止まらなかった。
◇◇◇
蝋燭が短くなっていた。
壁の影が、最初より高い位置に伸びている。カイロは壁際の定位置から動いていなかった。シルヴァは書き留めた紙を膝の上に置き、目を閉じていた。眠っているわけではなかった。指先が、膝の上でわずかに動いていた。術式を頭の中で組んでいるときの癖だった。
カイロが口を開いた。
「一つ、追加の情報があります」
シルヴァの指が止まった。
「明日の祝祭に、勇者の歌姫が現れるそうです」
ゼノリスは椅子に座っていた。
テーブルの上に両手を置き、指を組んでいた。カイロの言葉を聞いたとき、その指が、一度だけ動いた。組んだまま、わずかに力が入った。それだけだった。
「……歌姫?」
「はい。勇者の奇跡を称える歌を歌う者です。祝祭の目玉として各地を巡っていると、街の者から聞きました」
ゼノリスは何も返さなかった。
蝋燭の火が、また揺れた。壁の影がゆっくりと伸び、天井の端に届いた。外から、波の音が届いた。港の水が桟橋を叩き、引いて、また叩いた。
カイロが、静かに待っていた。
シルヴァも、目を開けなかった。
ゼノリスは、組んだ指をゆっくりと解いた。テーブルの上に、両の掌を平らに置いた。
「明日も、街に出ます」
カイロが短く答えた。
「はい」
蝋燭の火が、細くなった。
ゼノリスは、テーブルに置いた両の掌を、静かに見下ろしていた。歌姫。その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。




