第6話:「囮として捨てられる者」
夜の森は、昼間とはまったく違う顔を見せる。月明かりが木々の間から差し込み、地面に複雑な影を落としている。冷たい夜風が頬を撫で、遠くで梟の鳴き声が響いた。
足枷の音は、規則的に響いている。ガチャリ、ガチャリと金属が擦れ合う音。重く、引きずるような足音。その音は、ゆっくりとした歩みで森の中を進んでいる。
ゼノリスは気配を殺して追跡した。足音を消し、木々の影に身を隠しながら。枯れ葉を踏まないよう慎重に足を運ぶ。
足枷の音は、途切れることなく続いている。だが、その音には焦りも恐れもない。ただ、機械的に繰り返されるだけの音だ。まるで、何かを諦めきった者の歩みのように。
ゼノリスは木の幹に手をかけ、そっと覗き込んだ。月明かりが照らす森の中、足枷を引きずる人影が見える。
細身の体躯。短く切り揃えられた黒髪。魔人族特有の、淡い紫がかった肌。
魔人族の追放者だ。
やがて、音が止まった。
ゼノリスは立ち止まり、周囲を見渡す。木々の向こうに、わずかな光が見える。焚き火だ。
人族の野営地か。
ゼノリスは慎重に近づいた。木の幹に身を寄せ、焚き火の明かりが届かない場所に留まる。そこから、野営地の様子を観察した。
焚き火の周りに、数名の男たちが座っている。武装した者たちだ。粗末な鎧と剣を身に着けている。遠征隊──昨夜、森で見かけた連中だろう。
そして、焚き火から離れた場所に、一人の青年が座らされていた。
だが、その姿には生気がない。俯いたまま、地面を見つめている。
青年の足首には、重い鉄の足枷が嵌められていた。両足を繋ぐ鎖が、わずかな動きのたびにガチャリと音を立てる。手首にも、擦り傷の痕が残っている。縄で縛られていた跡だろう。
これが……。
ゼノリスは木陰から青年を見つめた。遠征隊員たちは酒を飲みながら笑い、青年には目もくれない。まるで荷物のように扱っている。
遠征隊員の一人が、青年に向かって罵声を浴びせた。
「おい、魔族。明日はしっかり働けよ。お前が囮になれば、俺たちは安全に進めるからな」
別の遠征隊員が笑う。
「魔族の生き残りが囮になるのは当然だろ。それが贖罪ってもんだ」
ゼノリスは木陰から、その言葉を聞いていた。
魔族──。
まるで、名前すら正しく呼ぶ価値がないとでも言うかのようだ。
私たちは魔人族と呼ばれる種族だ。だが人族たちは、蔑みを込めて『魔族』と呼ぶ。存在そのものを否定する響きが込められている。
青年は何も答えない。ただ俯いたまま、黙っている。反論することも、抵抗することもない。まるで、それが当然だと受け入れているかのように。
ゼノリスは拳を握りしめた。
あの男と同じだ。
森で息絶えていた追放者の男。あの男も、こうして追い詰められていったのだろう。罵声を浴びせられ、価値を否定され、最後には森に逃げ、力尽きた。
だが、今動くわけにはいかない。相手は武装した遠征隊。こちらは魔力が枯渇している状態だ。不用意に動けば、青年を巻き込む可能性がある。
ならば──待つ。
ゼノリスは木陰に身を沈め、夜を過ごすことにした。冷たい夜風が吹き抜け、木々が揺れる。焚き火の光が揺らめき、遠征隊員たちの影が地面に長く伸びている。
青年は動かない。ただ俯いたまま、地面を見つめている。その背中は、どこまでも小さく見えた。
◇◇◇
夜が明けた。
東の空が白み始め、朝霧が森を覆っている。冷たい空気が肌を刺し、木々の葉に露が滴っている。霧の向こうから、わずかに朝日が差し込み始めた。
ゼノリスは木の幹に背を預けたまま、遠征隊の様子を観察していた。一睡もしていない。だが、疲労は感じない。この程度の夜営など、かつて何度も経験している。
野営地では、遠征隊員たちが準備を始めていた。焚き火を消し、荷物をまとめている。粗雑な動きで、統制が取れているとは言い難い。酒を飲んでいた者たちは、まだ酔いが残っているのか、足取りが覚束ない。
青年は、荷物を背負わされていた。大きな荷袋が二つ。遠征隊員たちの食料や装備だろう。足枷を嵌められた状態で、それを背負わされている。
リーダー格らしき男が、青年を見下ろしながら言った。
「さっさと歩け、置いていくぞ」
青年は無言で頷いた。重い荷物を背負い、足枷を引きずりながら立ち上がる。鎖がガチャリと音を立てた。体が傾き、バランスを崩しかけるが、必死に踏ん張る。
別の遠征隊員が、青年の背中を小突いた。
「のろのろするな。魔族のくせに、荷物一つ運べないのか」
青年は何も言い返さない。ただ黙って、荷物を背負い直す。
遠征隊が出発する。
ゼノリスは距離を取りながら、彼らの後を追った。木々の間を縫うように移動し、決して姿を見せない。足音を殺し、気配を消して。
◇◇◇
遠征隊は、森の奥へと進んでいった。
朝霧が次第に晴れ、陽の光が木々の間から差し込んでくる。だが、その光は弱々しく、森全体を照らすには至らない。
やがて、森の空気が変わった。
木々の配置が不規則になり、地面には落ち葉ではなく、黒く変色した草が生えている。風が吹くたびに、枯れた枝が不気味な音を立てて軋む。空気が重く、湿っている。腐敗した植物の、甘ったるい匂いが漂っている。
魔物出現エリアだ。
遠征隊員たちの動きが硬くなる。剣に手をかけ、周囲を警戒しながら歩いている。だが、その視線は常に青年へと向けられていた。
リーダー格の男が命令する。
「魔族、前を歩け。お前が先頭だ」
青年は黙って従った。足枷を引きずりながら、重い荷物を背負って前へ出る。鎖が地面を擦り、ガチャリ、ガチャリと音を立てる。
遠征隊員たちは、青年を盾にするように後ろに下がった。数メートルの距離を取り、青年の背中を見ながら進む。
ゼノリスは木の影に身を隠しながら、遠征隊を追った。静かに、気配を殺して。
森はますます静かになっていく。鳥の鳴き声が消え、虫の音も聞こえない。まるで、何かが息を潜めて獲物を待っているかのような、不自然な静寂。
ゼノリスは周囲を見渡した。この森には確かに魔物がいる。その気配を、肌で感じ取れる。木々の向こうに、何かが潜んでいる。
魔物にはランクがある。人族が定めた格付けだ。ブロンズ、アイアン、スチール、シルバー、ゴールド、プラチナ。ブロンズは弱いが、プラチナは国が滅ぶ強さだ。スチール級ともなれば、一人前の冒険者パーティーでも苦戦する相手だ。
そして、この森にいる魔物は──おそらくスチール級以上。
遠征隊員たちは、この危険を分かっていながら青年を囮にしている。自分たちは安全な位置に留まり、魔物が現れたら青年諸共、倒そうとしているのだろう。
青年は黙々と歩いている。重い荷物を背負い、足枷を引きずりながら。だが、その足取りには迷いがない。まるで、これが自分の役目だと理解しているかのように。
◇◇◇
その時──森が震えた。
地面が揺れ、木々が激しく揺れる。遠くから、重い足音が響いてくる。ドスン、ドスン、ドスンと規則的な音。それは次第に近づいてくる。
遠征隊員たちの顔色が変わった。
「……まずい!」
木々の向こうから、巨大な影が姿を現した。
それは、牛頭の人怪だった。
三メートルを超える巨躯。筋骨隆々とした体は、岩のように硬い筋肉で覆われている。頭部は巨大な雄牛のそれで、二本の角が鋭く突き出している。その目は血走り、鼻息は荒い。口からは、白い息が漏れている。
ミノタウロスだ。
スチール級の魔物。熟練の冒険者パーティーでも苦戦する強敵。
魔物は咆哮を上げた。耳を劈くような轟音が森に響き渡る。地面が震え、木々の葉が揺れた。鳥たちが驚いて飛び立ち、森全体が騒然となる。
遠征隊員たちは完全にパニックに陥った。
「逃げろ!」
「こんな魔物、倒せるわけがない!」
遠征隊員たちは剣を抜くこともせず、逃げ出そうとした。だが、リーダー格の男が叫ぶ。
「待て! 逃げるな! こいつを使え!」
男は青年を指差した。
「こいつを囮にしろ! 魔族の生き残りが囮になるのは当然だ!」
遠征隊員の一人が、青年に駆け寄った。そして、荷物を背負ったままの青年を、力任せに突き飛ばす。
青年は前のめりに倒れた。足枷が足首に食い込み、重い荷物が背中を圧迫する。泥にまみれ、顔を地面に打ちつけた。鈍い音が響き、青年の体が震える。
「おい! お前が時間を稼げ! それがお前の役目だ!」
遠征隊員たちは、青年を見捨てて逃げ出した。足音が遠ざかり、やがて森の中に消えていく。誰一人として振り返らない。青年のことなど、最初からいなかったかのように。
残されたのは、青年だけだった。
◇◇◇
青年は泥にまみれたまま、ゆっくりと顔を上げた。
ミノタウロスが、こちらを見下ろしている。巨大な体躯。血走った目。荒い鼻息。その視線は、獲物を見つけた捕食者のそれだ。
青年は立ち上がろうとした。だが、足枷が足首に食い込み、重い荷物が動きを制限している。手を地面につき、体を起こそうとするが、泥に滑って再び倒れ込んだ。
ミノタウロスが一歩、近づいてくる。地面が揺れた。その足音は、青年の心臓を締め付けるように重い。
青年は動けない。足枷の鎖がガチャリと音を立てるが、それ以上動くことができない。荷物が背中に食い込み、呼吸すら苦しい。
ゼノリスは木陰から、その様子を見つめていた。
青年の表情が変わっていく。
最初は驚愕。突然の出来事に、何が起きたのか理解できていない顔。目が見開かれ、口が小さく開いている。
次に絶望。
自分の状況を理解し、死を悟る顔。顔が青ざめ、体が震える。
そして──諦念。
青年は、もう抵抗しなかった。泥にまみれたまま、俯いている。その目には、もう何の光もない。
まるで、これが当然だと受け入れているかのように。
こんなものか、と。
魔族の生き残りが囮になるのは当然だ、と。
自分には価値がない、と。
だから、ここで死ぬのも当然だ、と。
ゼノリスは拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
許せない。
この青年は、何も悪いことをしていない。ただ魔人族として生まれただけだ。それだけで、囮として扱われ、死を押し付けられている。
これが、勇者の作った世界か。
これが、人族の『正義』か。
ミノタウロスが、さらに一歩近づく。巨大な腕を振り上げた。その拳は、青年を一撃で潰すだけの力を持っている。筋肉が膨れ上がり、血管が浮き出ている。
青年は目を閉じた。死を受け入れるように。もう何も期待していない顔で。
ミノタウロスの拳が、振り下ろされようとした──その瞬間。
木陰から、静かな声が響いた。
「──そこまでだ」
青年の目が見開かれる。ミノタウロスの動きが止まる。
森の静寂の中、その声だけが静かに響いていた。低く、穏やかで、だが揺るぎない意志を秘めた声。
青年は顔を上げた。泥にまみれた顔で、声のする方向を見つめる。
木陰から、一人の男が姿を現した。




