第41話:「脱出」
シルヴァの指先が、ゼノリスの手に触れた。
冷たかった。長い幽閉の間、温もりから切り離されてきた者の手だ。それでも、その指は確かにゼノリスの掌を握った。震えていない。迷いを断ち切った後の、静かな力がある。
「私を、あなたの下に置いてください」
声は低く、端的だった。懇願ではない。決めた者の言葉だ。
「ようこそ、我が元へ」
ゼノリスはその手を、両手で包んだ。
部屋に、短い静寂があった。
それが破れたのは、次の瞬間だった。
遠く、重く、鐘の音が響いた。
一打。二打。三打。石造りの壁を伝って、腹の底まで届く振動だ。警報だとゼノリスは即座に判断した。
カイロが滑り込むように入ってきた。気配もなく、足音もない。影が形を持ったように、そこに立っていた。
「警備が気づいたようです」
声は平静だった。感情を削ぎ落とした、結論だけの声だ。
「東側の通路、まだ空いています。すぐに」
「分かりました」
ゼノリスはシルヴァへ向き直った。
「動けますか」
シルヴァは頷いた。書物を素早く外套の内側に収める。長い幽閉で足元は頼りないはずだ。それでも、その目は揺れていなかった。
「全員、私についてきてください」
◇◇◇
廊下は暗かった。
壁に掛けられた松明が、橙色の光を石壁に投げかけている。だが光と光の間には、深い影の帯がある。カイロはその影の中へ溶けるように先を歩いた。足音がない。呼吸の気配すら消えている。
ゼノリスはシルヴァの左側に付いた。廊下の幅は狭い。二人が並ぶと、壁との隙間はわずかだ。
シルヴァの歩みは、最初の数歩こそ硬かったが、すぐに安定した。長期の幽閉で筋が落ちていても、この方の意思が足を動かしている。
セラが最後尾につく。振り返りざまに、背後の廊下を確認している。右手は腰の近くで構えたまま、一歩ごとに周囲の気配を測っていた。
角を曲がった先の突き当たりに、格子窓がある。外の夜気が、細い隙間から忍び込んでいた。土と草の匂いだ。湿った夜の匂いだ。施設の外は、すぐそこにある。
カイロが右手を軽く上げた。
全員が足を止めた。
廊下の先から、足音が近づいてくる。革底が石床を叩く、乾いた音だ。一人ではない。複数の足音が、整列して近づいてくる。
松明の光が、角の向こうに滲み始めた。
「左の扉」
カイロが、ほとんど声にならない声で言った。
ゼノリスは扉を押した。蝶番が軋む前に、カイロの指先が蝶番に触れた。音が消えた。扉が、無音で開く。
四人が滑り込んだ。
滑り込んだ先は倉庫だった。棚に木箱が積まれている。埃の匂いが、鼻の奥を刺した。カイロが扉を引き、細い隙間だけを残した。
廊下の足音が近づく。
松明の光が、扉の隙間から一瞬、白く差し込んだ。
誰も動かなかった。
足音が、通り過ぎた。
光が消えた。足音が遠ざかる。やがて、石床を叩く音が聞こえなくなった。
カイロが扉を開けた。
「東の出口まで、あと二区画です」
「先行してください」
カイロが頷き、影の中へ消えた。
◇◇◇
二区画を抜けた先に、低い木の扉があった。
閂が掛かっている。カイロがすでに閂の前に立っていた。指先で閂に触れる。金属が、音もなく動いた。
扉が開いた瞬間、夜風が吹き込んだ。
冷たい。頬を撫でる夜気は、石造りの廊下とは違う、生きた冷たさだ。草の匂いが混じっている。遠くで、梟が一声鳴いた。
ゼノリスたちは外へ踏み出した。
足の下が、土に変わった。固い石床ではない。わずかに沈む、湿った地面だ。草が靴先に触れる。
背後で、足音が上がった。
「いたぞ! 異端者が逃げるぞ! 」
施設の壁の上、見張り台から声が飛んだ。松明の光が、ゼノリスたちを捉えた。
「走って!」
セラの声が、夜気を割った。
◇◇◇
カイロは、すでに動いていた。
見張り台から声が上がった瞬間、その身体は建物の壁に沿って走り出していた。闇の中で、影が影に溶ける。松明の光の輪の外を縫うように、施設の壁沿いに回り込む。
見張り台の兵が二人。施設の東門へ向かう通路に、さらに三人。
カイロは数を数えながら、先回りした。
東門の手前、物陰に身を沈める。三人の足音が近づいてくる。革鎧の擦れる音。腰の剣が鞘に当たる金属音。松明の炎が、風を受けてざわめいた。
先頭の兵が、角を曲がった。
次の瞬間、その首筋に指先が当たった。音もなく、崩れた。カイロが身体を受け止め、物陰へ引き込む。
二人目が「おい、どうした」と声を上げかけた。声になる前に、喉の前を手刀が掠めた。
二人目も崩れる。
三人目が振り返りかけた。右の手首を掴み、一回転。石壁に肩を当てて沈んだ。
三人分の気配が、消えた。
カイロは振り返らず、元の位置へ戻った。
ゼノリスたちが、施設の出口から外へ出ている。見張り台の兵が、松明を掲げて叫んでいる。「東だ! 東口から出たぞ!」施設の奥から、金属音と怒号が混ざり合って広がってきた。
カイロは走った。
◇◇◇
ゼノリスは前を見ていた。
夜の草地が、月明かりの下に広がっている。施設を取り囲む低い外壁の向こう、暗い木立が壁のように立ち並んでいる。あの森の中まで入れば、追手は追いにくくなる。
「セラ」
「はい!」
「シルヴァを頼みます」
「任せてください!」
セラがシルヴァの右側に並んだ。「ここ、足元が悪いの」短く告げながら、草地の窪みを先に踏む。シルヴァが同じ場所を踏む。二人の息が自然に合っていく。
背後で怒号が近づいてくる。松明の光が、草地に揺れる影を作った。
カイロが音もなく横から現れた。
「東門、塞ぎました。北回りで来ます。三分、いや二分」
「森まで入れますか」
「ぎりぎりです」
ゼノリスは足を速めた。草地を踏む音が大きくなる。湿った土が靴底に絡みつく感触があった。風が横から吹いた。夜気が耳元を流れ、草の穂が波打つ音がした。
外壁が近づいた。
高さは腰ほどだ。ゼノリスが飛び越えた。振り返り、シルヴァへ手を差し出す。シルヴァが手を取り、壁を越える。セラが跳んだ。音がしなかった。カイロはすでに壁の向こう側にいた。
木立の入り口まで、あと二十歩。
後方で、松明が壁を越えてきた。
「止まれ! 異端者を捕らえろ!」
声が夜気を割る。だが脚は止まらない。
ゼノリスは木立へ踏み込んだ。
足の下が、土から落ち葉に変わった。枯れ葉が湿気を含んで積み重なっている。踏むたびに、柔らかく沈む感触がある。木々が頭上を覆い、月明かりが細い筋になった。闇が深くなる。木の幹の間を縫うように、四人は奥へ進んだ。
松明の光が、木立の入り口で揺れた。
兵たちが、立ち止まっている。
カイロが、ゼノリスの耳元で低く言った。
「追ってきません。森への立ち入りが禁じられているか、権限がないか。いずれにせよ、深追いはいません」
ゼノリスは頷いた。
そのまま、さらに五分ほど歩いた。木立が深くなり、施設の灯りが完全に見えなくなった頃、ゼノリスは立ち止まった。
「ここで」
四人が足を止めた。
◇◇◇
夜の森は、静かだった。
風が木々の間を流れ、梢がかすかに鳴っている。土と葉と、湿った木の皮の匂いが、空気の底に澱んでいた。遠くで、細い沢の音がする。水が石の上を滑る、途切れない音だ。
セラが大きく息を吐いた。緊張が解けた身体が、肩から力を抜く音がするようだった。「……間に合いました」と呟いた。呟きというより、自分への確認だ。
カイロは周囲へ視線を流した。気配を探るように、少し間があった。それから短く「安全です」と告げ、黙った。
ゼノリスはシルヴァへ向いた。
長い幽閉の後、初めて踏んだ夜の森だ。石造りの部屋の空気とは、まるで違う。土の冷たさも、木の匂いも、空気の厚みも、すべてが別物だ。この方の肺に今、どんな空気が入っているのか。
シルヴァは、足元の落ち葉を見ていた。
視線が、ゆっくりと上を向く。木々の梢の間から、星がいくつか見えた。幽閉されていた部屋に小窓しかなかった。どれくらいの間、広い空を見ていなかったのだろう。
しばらく、そのまま立っていた。
やがてシルヴァは、ゼノリスへ向き直った。
「……ありがとうございます」
声は静かだった。感謝の言葉は短く、それだけだった。だが、その短さの中に、長い時間が詰まっていた。
シルヴァの指先が、無意識に自分の目元に触れた。呪印を、指の腹で撫でる。
ゼノリスは、その指先を見ていた。
「行きましょう。もう少し奥へ」
四人は、森の奥へ歩み始めた。




