第186話:「シルヴァの覚醒」
エルネスの指先が、地に刻まれた術式陣の縁を辿った。
線の上を撫でると、青白い光が指の腹についてくる。陣の中央で、術式陣の核が低く震えていた。震えの間隔がわずかに伸びている。前方の結界が、敵の術式を一つ受け止めた合図だった。
国境境界帯の防壁の内側、杭の列の後ろに、魔術兵団の陣が組まれている。陣の前方には【鉄壁の結界】の一線が張られ、その向こうで聖騎士団の白い鎧の隊列が、結界の薄膜に繰り返し剣と光をぶつけてきていた。
左翼の方角から、遠い震え音が届いている。中央からは剣戟の音。どちらも、まだ持ち堪えている。エルネスはその二つの音の隙間を耳の端で測りながら、目は陣の中央に座るシルヴァの背へ向けていた。
シルヴァは折り畳みの椅子に浅く腰を下ろし、杖を膝に横たえている。銀に近い淡い髪が、頬の横に流れたまま、いつもの位置に戻されていない。
「シルヴァ様」
声をかける前に、エルネスは陣の縁から立ち上がっていた。膝に枯れ葉の屑がついていた。それを払う動作の間も、シルヴァの背は動かなかった。
「陣の維持は、私が回します。術師の交代も私の方で。シルヴァ様は陣で休んでいてください」
「ええ」
短い返事だった。だが、立ち上がる気配は無かった。
シルヴァが膝の杖を、両手で軽く包んだ。視線は前方の結界へ向いたまま、口だけが動く。
「あそこが、薄い。西寄りの一点。編み目の、上から五本目」
エルネスが答えた。
「補修の節は、私が一本足します。起点さえ教えていただければ」
「そうですね……」
シルヴァは杖を膝から降ろした。
「補修はあなたで十分です。ですが、なぜ薄いのかは、術式が読めないと補強の節はまた抜かれます」
そう言いながら、椅子の縁に手を置いた。
立ち上がる動作の途中で、縁を掴んだ指がわずかに震えた。肩の傾きが、半呼吸ぶん遅れた。エルネスはそれを見ていた。
「シルヴァ様」
エルネスはもう一度呼んだ。
「結界の縁までです。それより前には――」
「ええ。出ません」
シルヴァは陣の光の境を、ゆっくりと歩き出した。前方の結界線へ近づくにつれて、肩甲骨の角度が低く落ちていく。背が、いつもより小さく見えた。
エルネスは見送ってから、陣の縁にもう一度膝をついた。撓んだ節を一つ差し替え、編み目の擦り切れた箇所に補修の線を引き直す。指先の青白い光が、線の上で安定する。前方の震えが、一拍だけ間遠になった。
左翼から、また音が来た。
頭上の陽は中天を少し過ぎている。陣の上の影は短い。額に張りついた汗が、線の上に落ちないように、エルネスは顔の角度を一度だけ変えた。
◇◇◇
結界の縁に立つと、前方の戦線の音が急に近くなった。
杭の列の前で、騎士団の兵が剣を構えている。その向こうで、聖騎士団の前衛が、結界の薄膜へ繰り返しぶつかってきていた。剣の腹で薄膜を叩き、後ろに退いた者が再び前に出る。同じ位置を、執拗に。
結界の薄膜が、わずかに後ろへ撓んだ。
味方の兵の踵が、半歩ぶん下がる。下がった分の距離を取り戻すために、隣の兵が一歩前へ踏み出した。が、その兵もすぐに片膝をついた。肩の鎧の継ぎ目から、赤いものが線になって滴っている。後ろに控えていた魔術兵が走り寄り、術式の光を肩に這わせる。光が線を止めた。だが、兵の足はもう前へ出なかった。
杭の列が当初の位置より味方側に寄っていた。
――戦線が押されている。
シルヴァは視線を結界の外側、左へ振った。
そこに、避難民の一画があった。
いくつかの荷車が斜めに寄せられ、その陰に十数人が身を寄せ合っている。荷車の梁は急いで連ねた跡があり、車輪の軸が片方折れているものもあった。周辺の村々から逃れてきた人たちが、内側を目指して進んでいた途中だったのだろう。だが結界線が後退したことで、彼らの位置は内側に入りきらず、結界の縁のすぐ外側に取り残されていた。
子供を抱いた女が、こちらを見上げている。手の届く距離ではない。だが、声を上げれば届く距離だった。
シルヴァは低く構えた。
【真理の眼】を使った。
通常の視覚の上に、術式の構造が文字のように重なって映る。結界の編み目が糸の一本一本に分かれて見え、撓んでいる三本目の根まで透けた。北寄りの一点を、外側から押している術式がある。圧の根は、結界の外、聖騎士団の魔術兵の指先だった。
その術式の構造を、読み下した。
組み方の核に、一語だけ覚えのある文字列が混じっている。味方の補修術式を内側から発動できなくする押し込み――【沈静】の術式。広域の鎮静を狙う術ではない。補修術式そのものを発動の手前で止めるための、執拗な細工だった。
「北寄り、三本目。圧の根は外側の節二つ。内側へ一本、補修の節を足してください」
シルヴァは近くの魔術兵に、口頭で構造を渡した。兵は一礼して、陣の方角へ駆けていった。陣の縁で受けたエルネスが、撓みの内側へ補修の節を一本足す。撓みが、内側から押し返された。
北寄りの薄膜が、均された。
指の腹を見ると、わずかに白くなっていた。術式を一つ読み下しただけで、これだ。寝台に伏していた身体の底が、まだ戻ってきていない。
シルヴァはもう一度、構造を読みに視線を上げた。
そのとき、視界の奥で、聖騎士団の白い揃いの後ろから、別の列が前進してくるのが見えた。
黒い祭服。
胸の前で交差した、金の縁取り。
十数人が一団となって、前衛の隙間を縫って歩いてくる。先頭の男の縁取りは、他の祭服のどれよりも金が太かった。歩幅は乱れていない。儀礼の場へ進む足の運び方だった。
異端審問官だ。
本来、戦が終わるまで剣を抜かない一団だ。だが戦線が押された分、結界の縁の外に取り残された避難民に、後方から術式を撃てば届く位置に出ていた。
男たちはそれを、好機と読んだ。
結界の外で、先頭の男の片手が持ち上がった。男の口が動き、朗誦のような声が、戦線の音の上を渡って届いた。
「神の名において、異端を浄化する!」
言葉が落ちきる前に、随伴の聖騎士が動いた。
結界の外、避難民の方角へ、複数の指が向けられた。
空中に、術式の構造が浮かぶ。
炎の核と、圧縮の殻。光の弾と、貫通の鍵。私の眼には、組み上がる順序まで透けて読める。一発目は荷車の一台目へ。これは【火球】だ。二発目は別の角度から、二台目へ。これは【光弾】――音より先に届く、貫通の術式。
シルヴァは杖の先を、結界の起点から避難民の方角へ向け直した。
一発目の構造に、別の理を書き込んだ。
ほんの一文字分の介入だった。発火の核に、別の文字を差し込む。
組まれていた術式は、組まれている理由を失い、荷車の手前で、霧になって散った。
だが――。
二発目が……遅れた。
光の弾が二台目の荷車の縁を貫き、その奥にいた人たちまで届いた。
子供を抱いていた女が、抱いた腕のまま前へ崩れた。隣にいた男が咄嗟に女と子供の上へ覆い被さる。男の背を、貫通の余熱が灼いた。背はすぐに動かなくなった。子供の小さな声が一拍だけ高く上がり、そのまま消えた。
焦げた木材の匂いが、風に乗って届いた。匂いの中に、別の匂いが混じっていた。両目の縁に呪印を刻まれた日に嗅がされた匂いと、同じ匂いだった。
シルヴァは一歩、踏み出していた。
杖を握る指の力は、もう抜けかかっていた。
「逸らしたか」
異端審問官の声が、こちらへ向いた。
「神の摂理を歪めた異端な力か。確かに見たぞ」
男はゆっくりと、祭服の金縁を整えた。乱れてもいない縁を、わざわざ整える動作だった。
「魔の理を担ぐ女、お前自身が浄化されるべき異端だ。神は偽りの力を選ばれない。お前のその異端な力が、たった今、神の摂理を一つ歪めた。歪めた分の罪は、お前の命で贖うがいい」
名は知らない。だが、聖都の異端審問官の長だと、構えと呼吸の運び方でわかった。男はもう一度、片手を上げた。随伴の聖騎士が、また同じ並びで起点を組み始める。三台目の荷車へ、術式の輪郭が向けられていく。
シルヴァは杖を両手で握り直した。指の腹が、また白くなる。
そのとき、二台目の荷車の方角から、布の擦れる音が一度だけ聞こえた。
覆い被さった男の背の下で、女の手が緩んだ。
その手はもう生きている者の手ではなかった。
――私の『真理の眼』は……まだ世界の真実に届いていないのか。
杖の重さが急に遠のいた。
握っているはずの指の感触が、自分のものではないように薄い。シルヴァは杖を地に置きかけ、思い直して握り直した。だが力は戻らなかった。
足が、勝手に動いた。結界の縁を越え、外側へ。後ろから誰かが呼ぶ声がしたが、シルヴァは振り返らなかった。
焼け落ちた荷車の縁。その手前で伏している女の手のそばに、シルヴァは膝を折った。掌をそっと女の手の上へ下ろす。女の手の温度は、まだ温かい。
シルヴァは顔を上げた。
掌に残った温かさが、首の裏を一度通って、後頭部の奥で凝った。涙ではない。叫びでもない。動かないものが、シルヴァの中で一つ、形を持って居座った。
結界の外、聖騎士団の手前で黒い祭服の男が、また片手を上げている。合図を、もう一度繰り返そうとしている。視線が、こちらを捉えた。視線が交差する。男の目の奥に、勝者の落ち着きがあった。歪めるべき異端を見つけた者の、満ち足りた目だった。
男が口を開いた。
「聖都派遣団の団長――教会異端審問官ラウレンティウスの名において、汝を異端と認定する。記録に残すがいい。お前を浄化したのは、この私だ」
その目の奥を、シルヴァは見返した。
【真理の眼】が、これまでにない深さで動いた。
術式の構造が、文字となって視界に重なるのはこれまでと変わらなかった。だが今、その文字の下に、もう一枚、別の層が透けている。文字の意味を支えている、もっと下の層。組まれた術式を『術式として成立させている』根拠が、薄く明滅しながら、男の口の奥と、随伴聖騎士たちの指先を結んでいる。
その層に、聞き覚えのある語が縫いつけられていた。
『神の名において』
ラウレンティウスたちが放っていた術式の中央に、必ずこの一語が縫い込まれていた。発火の核を組むときも、貫通の鍵を結ぶときも、その一語が術式の前提として置かれている。前提を信じる者がいる限り、術式は成立する。そういう仕組みだった。
組まれた仕組みであれば、別の文字に書き換えられる。書き換えて、放った本人の顔の前へ突き返せる。
その確信が掌に降りた。後頭部で凝っていたものが、指先まで降りてきた。
ラウレンティウスの口が動き始めた。次の指示を出している。随伴の聖騎士の指が、三台目の荷車へ向けて、新しい起点を結びかけていた。
「異端の――」
シルヴァは立ち上がった。
「偽りの神学で世界を縛るな! 術式は、私が書き換える!」
声が自分の喉から、自分の知らない速さで出ていた。
立ち上がる動作の途中で、足元の焦げた土が、流れる煙の上下と一拍ずれた。煙の柱が一度、根元から斜めに歪み、すぐに元の流れに戻る。空の色は変わらない。風も止まらない。ただ、シルヴァの掌に集まる感触だけが、これまでとまったく違う質に変わっていた。魔力ではない。術式を組み立てている『仕組みそのもの』に、指先が直接触れている手触りだった。
組み立てに、指先を差し込んだ。
聖騎士の指の先で、新しい起点が結ばれかけていた。
目の前の構造の中央に、いつもの一語が縫い込まれている。シルヴァはその語に指先で触れ、引き抜いた。
『神の名において』が、術式の中心から抜けた。
術式は、組まれていた形のまま、空中に残った。だが、組まれている理由を失った。発火の核と圧縮の殻と貫通の鍵が、それぞれの意味を見失い、宙でばらばらに振動した。
シルヴァは抜いた語を握りつぶし、別の文字をそこへ入れた。
『真理の名において』
仮の置き換えだった。だがそれで充分だった。術式は新しい前提を読み込み、別の理として再び成立した。今度は、組んだ本人の方を向いて。
組み直された術式が、聖騎士の掌の上で薄く膨らんだ。
次の瞬間、術式は組み立てた本人の方を向いて発動した。聖騎士の白い鎧が、彼自身の【火球】に内側から焼かれて崩れる。隣で組み始めていた二人目も、自分の【光弾】に貫かれて後ろへ倒れた。三人目は、組みかけの編み目に手を入れたまま、組んだ術式が腕に折り返してきて動けなくなった。
戦線の押し合いの音が、右翼の前で、一段だけ低くなった。
「異端の――!」
ラウレンティウスが、片手をシルヴァへ突き出した。男自身の掌の上で、新たな術式が組まれていく。随伴聖騎士のものより太く、深い術式だった。
シルヴァは、その術式の中央に縫い込まれた『神の名において』の一語に指先で触れた。引き抜く。
前提を失った術式は、組まれていた形のまま、組み手の方へ逆流した。
ラウレンティウスの開いた口の中へ、自分の組んだ術式が押し戻されていく。男の喉が、自分の発しかけた侮辱と一緒に、内側から焼かれた。
膝が地に落ちた。
ラウレンティウスは最後まで、自分が何に焼かれたのか掴めなかった。掴めないまま、祭服の裾を地に広げて、土の上に伏した。残ったのは、ただの黒い布だった。
残った随伴の聖騎士たちも、同じ理の崩れに飲まれていった。後退しかけた一人が、結界を張ろうとした。だがその結界の術式は、シルヴァに書き換えられて本人の足元に返った。輪郭が編まれていく。輪は男の腰までを縫い取り、地に貼りつけた。男は上半身だけで救いを求める形に手を伸ばした。手は、誰にも届かなかった。隣で結界を張ろうとしたもう一人は、自分が組んだ結界が『結界である』根拠を抜かれて、結界の輪郭と一緒に宙に散った。悲鳴は、長くは続かなかった。
右翼の戦線の音が、結界の一線へ戻った。
シルヴァは杖を地に立てた。
柄を握る指の白さが、いつの間にか消えていた。痛みは身体の中に残っている。回復しきっていない肩も、息の浅さも、消えてはいない。それでも、術式を支えている、もっと下の層へ、こちらの手が届いている。
「シルヴァ様」
後ろから、駆けてくる足音があった。
エルネスだった。結界の維持を別の術師に渡し、ここまで走ってきた足音だった。シルヴァのすぐ手前で足を止め、息を整えてから、それ以上は言葉を継がなかった。
シルヴァはエルネスの方を見なかった。
焼かれた荷車の方角へ、もう一歩踏み出した。靴底の下で、焦げた土が乾いた音を立ててほぐれた。
二台目の荷車の脇に、女と男と子供が、同じ姿勢のまま伏していた。男の背の下から覗いている女の手は、シルヴァが掌を重ねたときの位置から動いていない。子供の小さな足が、男の脇から半分だけ見えていた。
シルヴァは男の背の脇に、杖を立てた。
杖の先が土に少し沈んだ。その音が、戦場のいまの静まりの中で、ひどく小さく響いた。
エルネスは何も言わなかった。一歩離れた位置で、シルヴァの背を見ていた。覆い被さった男の背と、伏した女の指と、半分だけ見えている子供の足を、エルネスの目も追っていた。
焦げた木材の匂いが、まだ風に乗って届く。
シルヴァは杖を残して、焼け跡の縁に立った。
――これが……真理の先にある力。
だが、間に合わなかった。




