第167話:「第三混成軍と即時統治」
鉱都カルディアの輪郭が、三つに割れていた。
正面の主門。左手の坑道口。右手の採掘場入口。エルネスの探知術式が、息を一度吸う間にそう返してきた。三方向、すべてに人がいる。
想定より、多い。
空気が、鉄と土の混じった匂いをしていた。鉱山街道を進むにつれて、坑道の換気口から白い煙が細く上がり、風に流れて消えた。道の両脇に積まれた採掘屑の山が、灰色の壁のように続いている。エルネスはその色を視界の端に置いたまま、前方の囲壁を見据えていた。
石造りの囲壁が、複数の方向から延びている。城壁というよりは採掘区画を仕切るために積み上げた壁を、そのまま防衛線に転用したような構造だった。
エルネスは隊列の中ほどで足を止め、隣を歩いていたライカに向いた。獣人族の耳が前に向いている。
「正面に騎士と魔術師。左の坑道口と右の採掘場入口にも、それぞれ守備の兵が展開しています」
ライカは一瞬だけ正面を見た。それから、エルネスに向き直った。
「三か所同時か」
「はい」
「私が正面を引きつける。エルネス、残り二方向を頼む」
確認ではなかった。決定だった。エルネスは頷いた。
「分かりました」
◇◇◇
ライカが地面を蹴った。
石畳が一度だけ大きく鳴って、味方の騎士団の前衛が後ろに続いた。獣人族の脚力は、最初の一歩で隊列の足音の質を変える。正面の敵守備隊の騎士たちが反射的に剣を構え、敵後衛の魔術師が詠唱に入った。敵の視線が、ライカに集まっていく。
その一瞬、エルネスは左へ踏み出した。
左の坑道口。出口を囲む石組みの手前に、敵の弓兵が並んでいた。射線を正面に向けているが、こちらの隊列が動いたことに気づいて向きを変えようとしている。エルネスは杖を水平に構え、坑道口の縁に術式を這わせた。光の線が石の表面を走り、出口の形に沿って閉じた。遮断結界だ。敵の矢が放たれたが、結界の面で弾かれ、角度を変えて地面に落ちた。
同時に右の採掘場入口へ術式を伸ばした。敵の魔術師が二人、詠唱を始めていた。面制圧の術式――範囲内の魔力の流れを乱し、詠唱の精度を落とす。杖の先から術式が広がり、採掘場の入口を薄く覆った。敵の詠唱が崩れ、一人が組み直しに入った。
正面のライカへの支援を、同時に維持する。
三点。左の結界、右の面制圧、正面の支援――それぞれが別の術式だった。同時に維持する負荷が、杖を持つ手の指先から肩にかけて、じわりと広がった。
正面でライカが敵の騎士列に入った。剣は抜いていない。体当たりで敵の前列の騎士二人の間に割り込み、そのまま押し広げた。敵の騎士たちが左右に弾かれ、敵後衛の魔術師たちが射線を失う。敵後衛の指揮官が叫んで隊形を立て直そうとした。
敵の指揮官が大きく杖を構えた。
エルネスは敵の術式の構造を見た。複数の詠唱を束ねる集中魔術だ。周囲の敵魔術師の力を引き込んで、一点に集めようとしている。完成すれば、エルネスが維持している三点の術式を同時に押し流す威力になる。
その瞬間、左の結界が揺れた。坑道口の敵弓兵が結界の縁を集中して打ち始めていた。
三つ全てを同時にこなす余裕は……ない。
エルネスは一秒だけ判断した。左の結界は維持する。右の面制圧も維持する。正面の支援は、手放す。浮いた一点で、敵の指揮官の術式を撓める。
シルヴァなら術式の構造そのものを書き換える。エルネスにはできない。
代わりに、放出方向だけを撓める。集中魔術の出口に細い術式を一本添え、横にひと押しした。指揮官が積み上げた魔力に逆らわず、向きをずらすだけ。
杖の先で、光が大きく傾いだ。
膨大な魔力が、斜め上――採掘屑の山の頂点を越えた空へ抜けていった。轟音が壁面に反響し、石の粉が舞い上がる。誰も傷つかない。ただ、莫大な魔力が、本来向くはずだった場所からずれた。それだけだった。
三方向で、ほぼ同時に武器が止まった。
◇◇◇
武器が地面に落ちる音が、三か所から順に届いた。
エルネスは術式を一つずつ解いた。左の結界、右の面制圧、正面の支援。三点分の魔力を解放するたびに、肩の重さが少しずつ抜けた。息が、知らないうちに浅くなっていた。
ライカが正面から戻ってきた。汗をかいているが、怪我はない。
「終わった?」
「終わりました」
ライカは一度だけ頷いた。それ以上何も言わず、広場を見渡した。
騎士団が捕虜の誘導を始めていた。降伏した守備隊の兵たちを、囲壁の端に沿ってまとめていく。
魔術兵団は坑道口と採掘場入口の安全確認に入った。
――静寂が流れる。
しばらくした後、坑道口の方から、団員が肩を貸されて運ばれていくのが見えた。一人ではなかった。続いてもう一人、布で腕を縛った者。さらに後ろから、担架が一つ運ばれていく。
ライカが、その列を見た。獣人族の耳が、低く伏せられた。
「……救護員からは」
ライカが、近くを通った騎士団員に声を低く向けた。
「軽傷で動ける者が三十二名、重傷で運ばれた者が五名です。命に関わる者はいないと、救護員が」
騎士団員はそれだけ伝え、足早に列の方へ戻っていった。
ライカは何も言わなかった。耳が、まだ伏せられたままだった。
エルネスは囲壁に背を預けた。
左の結界の縁を、敵の弓兵が最後まで集中して打っていた。三点同時の維持の中で、その縁が一瞬だけ薄くなった瞬間があった。矢が二、三本、抜けたかもしれない。あの瞬間、自分の手から落ちたものが、今、布で縛られて運ばれていく腕の中にある。
「エルネス」
ライカが、囲壁の方を見ずに言った。
「お前のせいじゃない」
「……いえ」
エルネスは、短く返した。それ以上は言わなかった。
ライカも、それ以上は言わなかった。ただ、しばらく囲壁の前から動かなかった。
路地の奥に人影が動いた。石の陰から顔だけ出して広場を見ている。鉱山労働者だろう、両手が黒く汚れていた。少し離れた路地から、女が一人、子どもを背にかばって出てきた。子どもの方が先に広場を指差し、女が肩越しにその手を押し戻したが、女自身の足はもう前に出ていた。
エルネスは動かなかった。
近づけば、また警戒させる。この間は、向こうが埋めるしかない。
ライカが先に動いた。武器を持たずに広場の端まで歩いていた。ライカは住民の方を向いて立った。走らない、叫ばない。ただ、そこにいた。
最初に顔を出していた男が、路地から出てきた。一歩、また一歩。十歩ほどの距離でライカの前に立ち、何か言おうとして、言えなかった。
ライカが言った。
「終わりました。もう、大丈夫です」
男の肩が、ゆっくりと下がった。
◇◇◇
エルネスは通信魔道具を取り出し、起動した。刻印に魔力を通すと、わずかな間があって、応答が返った。
「第三混成軍、エルネスです。鉱都カルディア、制圧完了。守備隊の降伏を確認しました。捕虜の処理と安全確認を継続します」
「了解。第一混成軍より——鍛冶街ハスレム、制圧完了。第二混成軍より――監督都市ヴァルン、制圧完了。三方面の制圧を確認しました」
エルネスは通信を切った。
広場では、路地から出てきた住民が少しずつ増えていた。ライカが最初に出てきた男と向き合ったまま、何かを話している。声は届かない。だが、男が一度深く頭を下げたのが見えた。
ライカは返礼しなかった。ただ、前を向いたまま立っていた。
別の住民が近づいてきた。今度は子どもだった。女の手を振り切って、ライカの方へ小走りに向かってくる。女が慌てて追いかけた。ライカは子どもが来るのを見て、少しだけ腰を落とした。目線を合わせるためだった。
エルネスはその様子を見ていた。
ライカが先に動いたから、自分は動かなくてよかった。前衛と後衛の役割は戦場で終わっていない。広場の上でも、続いている。
囲壁の影が伸びる広場で今起きていることを、エルネスは静かに最後まで見ていた。
◇◇◇
地図の上に、三本目の印が入った。
カイロはペンを置き、一歩引いて地図を見た。ヴァルガン鉱山公国の輪郭の中に、鍛冶街ハスレム、監督都市ヴァルン、鉱都カルディア――三つの拠点が並んでいる。昨日までは教会連合圏の色で塗られていた場所に、魔王国の印が入った。
ゼノリス様が机の端に立ち、地図を見ていた。
カイロは地図から視線を外さなかった。
「三方面すべての制圧を確認しました。現在、各省庁が現地へ展開中です」
◇◇◇
最初に動いたのは、評価院長エリオットだった。
カルディアに入った評価院の職員たちが、住民を一か所に集めるのではなく、路地ごとに分かれて歩いている――そういう報告が入った。鑑定石を持っていない。代わりに帳面を持ち、一人ずつ話しかけていた。何をしているのか住民側は分からず、最初は誰も近づかなかった。だが、一人が意を決したように自らの名を告げると、それを合図にしたかのように次の一人が続いた。
カイロは通信の内容を手元の紙に書き付けた。
『再評価開始、住民の反応は様子見』
次は行政長官ラガンだった。
ハスレムの元徴税所に行政省の職員が入り、窓口を開けた。教会が設けた徴税の台帳を脇に置き、新しい帳簿を広げた。一列目に書いたのは『名前』の欄だった。住民が窓口に近づき、恐る恐る名前を告げた。台帳ではなく帳簿に名前が書かれるのを見て、その住民は少し間を置いてから、もう一度名前を繰り返した。確かめるように。
カイロはそれも書き付けた。
『戸籍登録開始、一件目確認』
復興長官オルドからは、一行だった。
『三日で直す』
ヴァルンの坑道口の崩落について、それだけだった。道具の荷車が街道に着く前にすでに歩いて測っていたらしかったが、報告には経緯も根拠もない。
『復興院、現地調査開始』とだけ書いた。それで十分だった。
施療長官セフィリアの報告だけは、少し遅れて届いた。
内容を読んだカイロは、一度だけ手を止めた。
施療省の職員たちは、施療院の場所を確保する前に動き始めていた。街道脇に荷を下ろし、その場で手当てを始めていた。
『住民からの申し出、増加中』
カイロは続きを書こうとして、止まった。
書き直しはしなかった。次の書類に手を伸ばした。
◇◇◇
通信が一本入った。カルディアからだった。
「評価院より報告。住民からの再評価申し出、現在までに四十三件。うち、教会の鑑定石での評価と大幅な乖離が予測される件数は、三十二件です」
「了解した」
カイロは通信を切り、紙に数字を書いた。四十三件、三十二件。それだけ書いて、少し見た。
次に、守護隊からの報告が届いた。ガルムの声だった。
「補給線、三領地まで通った。荷駄の往来に支障はなし。後方の防衛線も異常なし。以上だ」
短い。ガルムの報告はいつも短い。問題がないときほど短い。問題があるときは、もっと短い――誰を、どこへ、何分で、それだけ言って通信を切る。今日は『以上だ』が付いた。
カイロは紙に『補給線確保、後方異常なし』と書いた。
ゼノリス様が机の端から離れ、地図の前に立った。
「各省庁の動きは」
「予定通りです。全省庁、現地展開を完了しています」
ゼノリス様は地図を見たまま、何も言わなかった。
カイロは次の報告書を手に取った。施療省からの二報だった。
『住民からの申し出、継続増加。施療院の仮設拠点を三か所確保』
セフィリアのことだから、確保した三か所はすでに動いているはずだった。報告が来た時点で、もう次の段階に入っている。カイロはそれを知っていた。
◇◇◇
夕刻になる前に、三領地すべての報告が出揃った。
カイロは机の上を整えた。書き付けた紙を順番に重ね、端を揃える。一枚ずつ確認して、抜けがないことを確かめた。
ゼノリス様が窓の外を見ていた。西の光が石床に斜めに入っている。
「ゼノリス様」
ゼノリス様が振り向いた。
「三領地すべての制圧と統治の確立が完了しました。各省庁の現地展開も、予定の工程に入っています。問題はありません」
ゼノリス様は少し間を置いた。
「ご苦労さまでした」
労いの言葉に、装飾はなかった。
カイロは頷き、視線を書類に戻した。次の工程の確認に入る。やることはまだある。
だが、手が一瞬だけ止まった。
止まった理由を、カイロは自分でもうまく説明できなかった。ゼノリス様の声の質か、あるいは今日一日で地図の上に入った三本の印のせいか。どちらでもなかったかもしれない。
窓の外、雲が北から流れていた。
カルディアからの報告は、届いた。
だがその雲は、カイロの目には、北の空のさらに先まで続いているように見えた。
届くべきところに、まだ届いていない。




