第136話:「生態系の守護」
手甲を締め直す音が、部屋に響いていた。
魔王城の南翼。騎士団の一室は、装備と汗の匂いが染みついた場所だった。壁に掛けられた剣と盾が並び、その下に鎧の予備が積まれている。窓は小さく、入り込む光も細い。
セラは手甲の革紐を引き、拳を握った。指の一本一本がきつく締まる。
ライカが入口から顔を出した。腰の剣に手をかけたまま、もう体が前に傾いている。
「編成はどう?」
「討伐隊十二名。グラドが外で並べてます」
セラは頷いた。再生地の外縁に魔物が入り込んでいるという報告は、昨日のうちにカイロから届いていた。オーガとキラーベア。スチール級――一人前の冒険者がパーティーを組んで、ようやく相手にできる強さだ。それが複数。
前の荒廃地の掃討とは事情が違う。あの時は、残滓が残る枯れた土地に棲みついた魔物を叩いた。今回は、緑が戻った区画に餌を求めて流れ込んできた魔物だった。その緑の中には、農夫たちがいる。
扉を叩く音がした。
振り返ると、狐の耳が見えた。ミレッタだった。台帳を腕に抱え、入口に立っている。
「セラさん、出撃の前に少しよろしいですか」
「少しだけならいいよ」
ミレッタは一歩だけ部屋に入り、台帳を開いた。
「討伐後の魔物から、魔石を回収していただきたいのです」
「魔石?」
「はい。今までは、魔石や毛皮などの素材は放置されていました。ですが――」
ミレッタの指が台帳の一行を示した。
「素材はともかく、魔石は市場で値がつきます。オーガの魔石は卵ほどの大きさで、工房用途に需要があります。キラーベアも同等です。今回の討伐で出る数を見積もると、かなりの額になります」
セラは腕を組んだ。数字そのものより、ミレッタが既に見積もりを済ませていることの方が目を引いた。
「分かった! 終わったら、ミレッタさんのところに届けるよ」
「助かります」
ミレッタは台帳を閉じ、一礼して去った。セラはライカに向き直った。
「魔石、回収するよ。団員に伝えて」
「了解です!」
ライカが駆け出していった。セラは窓に目を向けた。細い光の向こうに、城壁の輪郭がある。その先に、緑が広がっているはずだった。
手甲を拳で叩いた。硬い音が鳴る。
◇◇◇
外縁の再生地に出ると、風の匂いが変わった。
足元に作物の列が伸びている。かつて灰色だった大地に根菜の葉が並び、その先にも緑が広がっていた。収穫が安定した農地と、まだ再生が追いついていない荒れた地面との境が、遠くに見えている。魔物が入り込んでいるのは、その境界の向こう側だった。
セラは隊列の先頭に立っていた。背後にライカと討伐隊、後方にグラドが控えている。
風が止んだ。草の向こうから、低い唸りが届いた。地面を踏む振動が、靴の底を通じて脚に伝わる。
枯れ木の群れの間から、影が動いた。
オーガが三体。一本角が朝の光を受けて鈍く光り、先頭の一体が丸太を肩に担いでいる。その背後に茶褐色の毛並み――キラーベアが三頭、緩やかに歩いてくる。
「ライカ、隊を広げて。オーガは私がやる。キラーベアは皆で」
「了解です!」
ライカが討伐隊を左右に散開させた。グラドが後方で退路を塞ぐ。
先頭のオーガが吼えた。地面を揺らしながら丸太を振りかぶり、突っ込んでくる。
遅い。
セラの足が地面を蹴った瞬間、草が弾け飛んだ。丸太の内側をすり抜け、オーガの懐に入り、腹に拳をめり込ませた。肋骨が砕ける感触が拳を走り、三メートル以上の巨体が浮いて背後の枯れ木に衝突した。幹が裂け、オーガは枯れ木ごと倒れた。
二体目が角を突き出して突進してきた。
セラは半身をずらし、通り過ぎた巨体の膝を踵で蹴り抜いた。関節が外れる音がして、オーガが傾く。倒れかけた首に肘を落とした。地面に叩きつけられた巨体が、動かなくなった。
三体目は背を見せた。逃がさない。セラは一歩で間合いを詰め、背骨の真ん中を蹴り上げた。何かが砕ける音がして、オーガの体がくの字に折れ、前のめりに崩れ落ちた。
三体。一呼吸のうちだった。
セラが息を吐いた時、横で金属音が弾けた。
討伐隊の団員がキラーベアと向き合い、剣を振り下ろしている。だが、刃が毛皮の上を滑り、弾かれていた。厚い毛と脂肪が、刃を通さない。弾かれた勢いで腕が流れ、剣の構えが崩れた。キラーベアの前足が振り上がる。
セラの体が動いていた。
キラーベアと団員の間に割り込み、振り下ろされる前足を手甲で受け流す。骨まで響く衝撃が腕を伝った。だが、止まった。
「下がって!」
団員が転がるように後退した。セラは体を回し、踵をキラーベアの顎の下に蹴り上げた。巨体の頭が跳ね上がり、バランスを失ってそのまま横倒しに沈んだ。
残り二頭。ライカが一頭の鼻先に剣を突き入れ、怯んだ隙に団員たちが左右から脚を囲む。膝を打たれた巨体が前のめりに崩れたところへ、ライカが首元に剣を突き立てた。
最後の一頭は、グラドの隊列に追い詰められていた。逃げ場を失ったキラーベアが吼え、隊列の端の兵が足を半歩引く。
「逃がしません!」
グラドの短い声が飛んだ。兵が踏みとどまる。突進しようとしたキラーベアの鼻先に槍が突き出され、顔を庇って身を捩った。その横をセラが駆け抜けた。すれ違いざまに、首の付け根を拳で打ち抜く。
重い音が鳴った。キラーベアは動かなくなった。
草の上に、六体の魔物が転がっている。
セラは拳を下ろした。手甲の革が擦り切れ、指の関節が赤い。
「怪我人はいる?」
「全員無事です」
グラドが隊列を崩さないまま答えた。
「ライカ、魔石の回収をして。ミレッタさんに届けるから、丁寧にお願い」
「任せてください!」
ライカが団員に声を飛ばし、兵たちがオーガとキラーベアの胸元を開き始めた。卵ほどの魔石が、一つずつ布に包まれていく。
セラは再生地の方を見た。作物の葉が風に揺れている。農地に繋がるその向こうに、領民の姿は見えなかった。避難が済んでいる。
ここは、守れた。
◇◇◇
机の上に、布に包まれた魔石が並んでいた。
六つ。布を解くと、鈍い光が執務室の空気に滲んだ。大きいものは卵ほど、小さいものでも親指ほどある。
ゼノリスは机の向こう側に立ち、魔石を見ていた。
セラが正面に立っている。セラが正面に立っている。拳の関節が赤く腫れていた。だが、怪我ではない。報告の声には疲労よりも熱が先に立っていた。
「オーガ三体! キラーベア三頭! 全て倒しました! 怪我人はいません!」
「ご苦労さまでした。全員無事で何よりです」
ゼノリスの視線が、机の上の魔石に戻った。
「これが、回収した魔石ですね」
「はい。ミレッタさんに言われて回収しました。今までは倒した後そのまま放置してたんですけど、売れるらしいです」
セラの横に、ノアが立っていた。帳面を開き、何かを書き込んでいる。
「ミレッタさんから報告が来ています」
ノアが帳面から目を上げた。
「スチール級の魔石六個。ミレッタさんの試算では、工房用途の相場で銀貨七十枚前後になるそうです。領民の一日の給金が銀貨二、三枚ですから、六個でこの額は悪くないです」
ゼノリスは魔石の一つを手に取った。掌の中で、淡い輝きが微かに脈打っている。魔物の体内で魔力を蓄えていた石。
「ノア、一つ提案があるのですが」
ゼノリスが魔石を布の上に戻した。
「魔物の討伐を、定期化できないでしょうか?」
ノアの手が止まった。
「再生が進めば、緑が広がります。緑が広がれば、餌を求めて魔物が来る。これは一度きりの問題ではありません。そうであれば、討伐を仕組みとして組み込んだ方がいい」
「僕も、同じことを考えていました」
ノアが帳面を開き直した。
「定期巡回と討伐を騎士団の任務に組み込む。回収した魔石はミレッタさんの商務を通じて市場に流す。討伐の費用を魔石の収益で賄えれば、領地の負担は増えません。討伐が経済を回し、経済が討伐を支える。……循環です」
ゼノリスはノアの言葉を聞きながら、机の上の魔石に目を落とした。淡い輝きが、布の上で脈打っている。
セラが腕を組んだ。
「つまり、私たちが魔物を倒せば倒すほど、領地が豊かになるってこと?」
「端的に言えば」
ノアが返した。
「いいね!」
セラの口元が上がった。
「領民の安全を守りつつ、経済にも還元する。良い仕組みです」
ゼノリスが頷いた。
「セラ、騎士団の定期巡回の体制を組んでもらえますか。巡回の頻度と範囲は、ノアと相談して決めてください」
「お任せください!」
「ノア、魔石の流通経路と収益管理の枠組みを、ミレッタさんと詰めてください」
「分かりました。明日までに素案を出します」
ゼノリスは机の上の魔石を見た。六つの石が、布の上で鈍く光っている。つい先刻まで魔物の体内にあったものが、もう領地の仕組みの中に組み込まれようとしている。
その時、扉が開いた。
ミレッタだった。台帳を脇に挟み、足早に入ってきた。狐の耳が、いつもより角度がきつい。
「ゼノリス様、一つご報告が」
「どうぞ」
「物流に混乱が出始めています」
ゼノリスの目がミレッタに向いた。ノアの手も止まった。
「領地の生産量が増えたことで、荷の量が物流の処理能力を超え始めました。中継拠点で荷が滞留し、市場への到着が遅れています。農地からの出荷と、外からの仕入れが同じ経路に集中しているのが原因だと思います」
ミレッタの声は落ち着いていた。だが、台帳を持つ手が強く握られている。
「今はまだ一時的な遅延で済んでいます。ですが、このまま生産量が増え続ければ、腐った荷が流通してしまいます」
ゼノリスは黙って聞いていた。
六代表を置いた。討伐の仕組みを作った。魔石で経済を回す段取りを組んだ。一つずつ、手を打ってきたはずだった。だが、領地の成長は、打った手の先をすでに走っている。
「ミレッタさん、対策の案はありますか?」
「経路の分離と増設が必要です。農地向けと市場向けの荷を別経路にし、中継拠点をもう一か所追加する。ただ、人手と資材が要ります。商務だけでは回りません」
「ノア」
ゼノリスがノアに目を向けた。
「明日の素案に、物流の再設計も含めてもらえますか。魔石の流通と併せて、全体の枠組みを見直しましょう」
「……仕事が倍になりましたね」
ノアが帳面に目を落としたまま言った。口調は平坦だったが、ペンはもう動いている。
「ミレッタさん、明日、詳しい数字を持って来てもらえますか。滞留量と経路ごとの処理量が分かれば、設計に落とせます」
「明朝、届けます」
ミレッタが頭を下げ、部屋を出ていった。
セラが窓の方を見た。
「……領地が大きくなると、倒す相手も増えるんだね」
「魔物だけじゃなく、課題もです」
ノアが返した。帳面にはもう、明日までに整理すべき項目が箇条書きで並んでいた。魔石の流通経路、定期巡回の頻度、物流の再設計。一日で片付く量ではない。
セラは手甲の革紐を一度引き直し、拳を軽く握った。
「まあ、魔物の方は任せて!」
ノアが帳面から顔を上げ、セラを見た。何か言いかけて、やめた。代わりに小さく息を吐いて、また帳面に目を戻した。
ゼノリスは机の上を見渡した。魔石が並ぶ横に、ミレッタが残していった物流の数字がある。その隣に、未処理の報告書が積まれている。一つ解決すれば、次が来る。だが、それは領地が止まっていない証だった。
「明日、全員を集めましょう」
ゼノリスが言った。ノアのペンが、一瞬だけ止まった。それから、帳面の一番上に「会議」と書き足した。




