第13話:「少女」
ゼノリスとカイロは、森を抜けて街道へと出た。
木々が途切れ、視界が開ける。土を踏み固めた道が、遠くまで続いている。
街道は荒れ、所々に轍の跡が残っている。雑草が道の脇から這い出し、石が転がっている。人の往来が減ったのだろう。かつては賑わっていたであろう道が、今は静まり返っている。
風が吹き抜け、草を揺らしていく。ワサワサと乾いた音が響く。空は曇っていて、灰色の雲が低く垂れ込めている。日差しは弱く、辺りは薄暗い。
ゼノリスは、街道を見渡した。隠れ里へ向かうには、この道を辿る必要がある。だが、街道は人族の目に触れやすい。警戒が必要だ。
カイロは気配を消し、周囲を見回しながら警戒している。
「ゼノリス様」
カイロが、ゼノリスを見た。
「この先に、何か建物があります」
ゼノリスは、カイロが指し示す方向を見た。
街道の脇、少し離れた場所に、小さな建物が見える。小屋だ。だが、その小屋は傾いていて、壁が崩れかけている。
ゼノリスとカイロは、小屋へと近づいた。
近づくにつれて、小屋の荒廃が鮮明になっていく。屋根には穴が開き、壁は黒ずんでいる。雨風に晒され続けた痕跡だ。扉は半分外れていて、斜めに傾いている。窓は割れていて、ガラスの破片が地面に散らばっている。
腐った木材の匂いが、鼻をつく。湿った匂いと、土の匂いが混ざり合っている。小屋の周りには雑草が生い茂り、蔦が壁を這っている。
ゼノリスは、小屋の前で立ち止まった。この小屋は、長い間放置されていたのだろう。人が住んでいた形跡はあるが、今は誰もいない。
だが──
ゼノリスは、小屋の中に気配を感じた。微かだが、確かに何かがいる。
カイロも、気配に気づいたようだ。その目が、鋭くなる。
「……中に、何かいます」
カイロが、静かに言った。
「人……ですか?」
ゼノリスは、頷いた。
「恐らく」
カイロの手が、腰に下げた短剣に触れる。警戒している。
「罠かもしれません。ゼノリス様、俺が先に確認します」
ゼノリスは、カイロを制した。
「いえ、私が行きます」
カイロが、ゼノリスを見つめる。その目には、心配が浮かんでいる。
「ですが──」
「大丈夫です。敵ではありません」
ゼノリスは、そう告げた。気配から分かる。中にいるのは、弱った者だ。敵意は感じない。
ゼノリスは、小屋へと近づいた。
◇◇◇
ゼノリスは、傾いた扉を押し開けた。
ギィ、と軋む音が響く。扉が、ゆっくりと開いていく。
中は暗かった。窓から差し込む光はわずかで、奥まで見通せない。埃の匂いが漂い、空気が淀んでいる。床には土埃が積り、何かが這った跡が奥へと続いている。
ゼノリスは、小屋の中へと足を踏み入れた。床がギシギシと軋む。古い木材が、重さに耐えかねて悲鳴を上げている。
目が、徐々に暗さに慣れていく。小屋の中の様子が見えてくる。
壁際には、壊れた家具が積み重なっている。椅子の脚が折れ、テーブルが傾いている。棚は倒れ、中身は散乱している。何かから逃げるように、慌てて放棄された跡だ。
そして──。
小屋の奥、壁際に、人影があった。
ゼノリスの息が、止まった。
そこに、少女が倒れていた。
小さな体が、床に横たわっている。服は泥にまみれ、髪も泥で固まっている。顔も、泥で汚れている。手足は力なく投げ出されていて、微動だにしない。
ゼノリスは、少女へと駆け寄った。
「……大丈夫ですか」
声をかける。だが、返事はない。
ゼノリスは、少女の傍に膝をついた。少女の顔を覗き込む。目は閉じられていて、呼吸は浅い。だが、生きている。胸がわずかに上下している。
この少女は……。
ゼノリスの胸に、怒りが込み上げてくる。
この少女は、捨てられたのだ。そして少女は、必死に這ってこの小屋まで辿り着いたのだろう。
背後で、足音が聞こえた。カイロが入ってきた。
「ゼノリス様……これは」
カイロの声に、驚きが滲んでいる。
「わかりません。ただ……」
ゼノリスは、静かに続けた。
「この少女は、誰かに捨てられた」
カイロが、少女を見つめる。その目には、複雑な感情が浮かんでいる。
「……俺と、同じように」
カイロが、呟いた。
ゼノリスは、カイロを見た。カイロもまた、捨てられた者だった。人族の遠征隊に、囮として置き去りにされた。
「はい。恐らく」
ゼノリスは、再び少女に視線を戻した。
この少女も、カイロと同じなのだろう。何かの理由で、無能だと決めつけられ、捨てられた。人族の理不尽な評価によって。
ゼノリスは、少女の肩に手を置いた。
「カイロ、水を持ってきてください」
「承知しました」
カイロが、外へと駆け出していく。足音が遠ざかっていく。
ゼノリスは、少女を見つめた。泥にまみれた顔。閉じられた瞼。か細い呼吸。
この少女を、救わなければ。
◇◇◇
カイロが戻ってきた。手には水が入った器を持っている。
「お待たせしました」
カイロが、ゼノリスに器を差し出す。ゼノリスは、それを受け取った。
「ありがとう」
ゼノリスは、少女の体を起こそうとした。だが、少女は動かない。意識がないのだ。ゼノリスは、少女の頭を支えながら、慎重に体を起こした。少女の体は軽く、骨と皮だけのように感じられる。
ゼノリスは、少女の唇に器を近づけた。わずかに水を口に含ませる。
少女の喉が、かすかに動いた。
飲み込んでいる。まだ、反射は残っている。
ゼノリスは、さらに水を含ませた。少しずつ、ゆっくりと。急がせてはいけない。むせてしまう。
少女の喉が、また動く。水を飲み込んでいる。
ゼノリスは、優しく少女の背中を支えながら、水を与え続けた。一滴、また一滴と。少女の唇が、わずかに濡れていく。
カイロは、その様子を静かに見守っていた。小屋の入口近くに立ち、周囲を警戒しながらも、時折ゼノリスと少女に視線を向けている。その表情には、複雑な感情が浮かんでいる。
ゼノリスは、カイロの視線に気づいたが、何も言わなかった。ただ、少女への介抱を続ける。
やがて、水が半分ほどになった器を下ろした。これ以上与えても、少女の体が受け付けないだろう。
ゼノリスは、少女の体をゆっくりと横たえた。少女の頭を優しく床に下ろし、髪を整える。泥で固まった髪が、ゼノリスの指に絡みつく。
「カイロ」
ゼノリスが、カイロを呼んだ。
「はい」
「彼女を、ここで休ませます。少し時間が必要です」
カイロは、頷いた。
「承知しました。周囲を警戒します」
カイロは、小屋の外へと出ていった。足音が遠ざかり、静寂が戻る。
ゼノリスは、少女の傍に座った。少女の顔を見つめる。泥にまみれた顔。だが、その下には、幼い顔立ちが隠れている。年の頃は、カイロよりも若いだろう。まだ十代半ばか。
この少女は、なぜ捨てられたのだろうか。
ゼノリスには、分かっていた。カイロと同じ理由だろう。人族の理不尽な評価。聖教会による一方的な判定。そして、無能という烙印。
この少女も、その犠牲者なのだろう。
ゼノリスは、少女の手を見た。小さな手。だが、その手には、古い傷がある。訓練の跡だろう。この少女は、努力していたのだ。必死に、何かになろうとしていたのだ。
だが、認められなかった。
ゼノリスの胸に静かな怒りが宿る。
この世界は、間違っている。
才能ある者を正しく評価しない。努力する者を踏みにじる。そして、弱った者を捨てる。
私は、この世界を変えなければならない。
ゼノリスは、少女の手を優しく握った。冷たい手だ。だが、まだ温もりは残っている。
「大丈夫です。あなたは、もう一人ではありません」
ゼノリスは、静かに呟いた。
少女の瞼が、わずかに動いた。
ゼノリスは、息を呑んだ。
少女の瞼が、ゆっくりと開いていく。
◇◇◇
少女の目が、開いた。
ぼんやりとした瞳。焦点が定まらず、虚ろだ。だが、その瞳は、ゼノリスを捉えた。
少女は、ゼノリスを見つめている。
ゼノリスは、少女の目を見つめ返した。何も言わず、ただ静かに。
少女の瞳に、徐々に焦点が戻っていく。ゼノリスの顔が、少女の視界に映っているのだろう。
少女の表情が、変わった。
恐怖ではない。
驚愕だ。
少女の唇が、わずかに動いた。声にならない声。だが、その口の形から、言葉が読み取れる。
「……あなた、は……」
かすれた声。か細く、今にも消えそうな声。
ゼノリスは、少女に微笑みかけた。
「大丈夫です。もう、安心してください」
少女の瞳から、涙が溢れた。
透明な涙が、泥にまみれた頬を伝って流れ落ちる。一筋、また一筋と。
少女は、何も言わなかった。ただ、涙を流し続けている。
ゼノリスは、少女の頭を優しく撫でた。泥で固まった髪に触れ、ゆっくりと撫でる。
「もう、大丈夫です」
少女の瞳が、再び閉じられた。
力尽きたのだろう。だが、その表情は、先ほどよりも穏やかだった。
ゼノリスは、少女の傍に座り続けた。少女が、安らかに眠れるように。少女が、安心できるように。
外から、カイロの足音が聞こえてくる。警戒を続けているのだろう。
ゼノリスは、窓の外を見た。空はまだ曇っている。だが、雲の隙間から、わずかに光が差し込んでいる。
この少女を、救おう。
カイロと同じように。
ゼノリスの心に、静かな決意が芽生えていた。




