第12話:「王の再起と最初の一歩」
どれほど歩いただろう。
森は、変わり始めていた。
足元の地面が柔らかくなった。乾いた枯れ葉の層が減り、代わりに湿った腐葉土が靴底にまとわりつく。木々の幹が一回り太くなり、枝が頭上で絡み合って空を覆い始めている。さっきまで差し込んでいた木漏れ日が、薄くなった。
空気も変わった。ひんやりとした湿気が肌に触れ、土と苔の匂いが鼻の奥に届く。鳥の声が、遠くなっていた。
ゼノリスは、隣を歩くカイロを見た。
カイロの足音が変わっている。さっきまでは地面を踏むたびにわずかに間が空いていた。足枷がない足で歩くことに、まだ慣れていなかったのだろう。だが今は、その間がなくなっている。一歩一歩が、均等になっている。
体が、自由を覚え始めている。
ゼノリスはそれを見て取り、口を開いた。
「カイロ。一つ、聞いてもいいですか」
カイロが、ゼノリスを見た。
「はい」
「……君は、この森を知っていますか」
カイロは少しの間、黙った。やがて、静かに首を振る。
「いえ。……俺が知っているのは、遠征隊の歩いた道だけです。森の奥には、入ったことがありません」
「そうですか……」
ゼノリスは前を向いた。
「私も、この森の奥は知りません。ですが、行くべき場所の心当たりが、一つだけあります」
◇◇◇
カイロの目が、わずかに動いた。
「……心当たりですか」
「はい。大森林の奥深くに、隠れ里と呼ばれる集落があると聞いたことがあります」
カイロの足が止まった。一拍の沈黙の後、また歩き出す。
「……隠れ里」
「魔王だった頃……」
ゼノリスは、その言葉を口にして、少しだけ間を置いた。魔王だった頃。カイロの前でその肩書きを使うのは、まだ慣れない。だが、隠す理由はもうない。
「噂を耳にしたことがあります。大森林の最奥部に、人族の地図にも載らない場所がある。追われた者、逃げた者、捨てられた者──そういった者たちが身を寄せ合い、細々と暮らしていると」
カイロは黙って聞いていた。その横顔に、何かが動いた。
「……そこに、魔人族も?」
「分かりません。噂を耳にしただけで、確かめようともしませんでした。……ですが、手がかりはそれしかない」
ゼノリスは正直に言った。
「滅んでいるかもしれない。あるいは、我々を拒むかもしれない」
カイロは数歩、黙って歩いた。やがて、口を開く。
「……でも、ゼノリス様はそこに行こうとしているのですね」
「はい」
「なぜですか?」
ゼノリスは、一瞬だけカイロを見た。
「人族の目が届かない場所だからです。まずは身を隠し、力を蓄えなければならない。今の私たちには、戦う力も、逃げる場所もない」
その言葉に、カイロは何も返さなかった。
だが──足音は変わらなかった。隣を歩く速度も、間隔も、何一つ変わらない。
ゼノリスは、それだけで十分だと思った。
◇◇◇
森が、深くなっていた。
木々の幹が腕のように太くなり、根が地面を這い回っている。足元の腐葉土は分厚く、踏むたびにぐずりと沈み込む。苔が幹を覆い、空気には湿った土の匂いが満ちていた。
頭上の枝葉が空を塞ぎ、もう陽の光はほとんど届かない。薄暗い森の中を、二人はただ歩き続けていた。
ゼノリスは、自分の体の状態を確かめた。
魔力が、まだ戻らない。
【至極の理】でカイロの足枷を砕いた代償は、想像以上に大きかった。体の奥に、空洞がある。かつてはそこに魔力が満ちていたはずだが、今は枯れた井戸のように乾いている。通常の魔術すら、まともに使えない状態だ。
この森に魔物が出たら……。
カイロはまだ☆1だ。潜在は☆6だが、今はまだ戦力としては、ほぼ素人と変わらない。そして私は、魔力が枯渇している。
二人とも、今は弱い。
それが現実だった。
不意に──カイロが足を止めた。
「ゼノリス様」
低い声だった。カイロの目が、森の奥を見つめている。
「……何か、います」
ゼノリスは息を止めた。耳を澄ませる。
遠くから、低い唸り声が聞こえた。
魔物だ。
ゼノリスの背筋に、冷たいものが走った。
カイロが、一歩前に出た。ゼノリスを背に庇うように。
「俺が、前に出ます」
その声は静かだったが、震えていなかった。遠征隊が置いて行った短剣に手をかけ、森の奥を睨んでいる。
ゼノリスは、カイロの背中を見つめた。
恐れている。それは分かる。肩がわずかに強張り、呼吸が浅くなっている。だが──逃げようとしない。主を庇おうとしている。
短剣一本で。
唸り声が、遠ざかっていった。
風が変わり、木々の葉が揺れる。やがて、森は再び静寂を取り戻した。魔物は、こちらに気づかなかったのか。あるいは、興味を示さなかっただけか。
カイロは、しばらく動かなかった。森の奥を睨んだまま、気配が完全に消えるのを待っている。
やがて──カイロの肩から、力が抜けた。
「……行ったようです」
ゼノリスは、静かに頷いた。
「カイロ」
カイロが振り向く。
「……ありがとう」
カイロは一瞬、きょとんとした。それから、ぎこちなく頭を下げた。
「いえ……俺は、何も」
何もしていない。魔物は勝手に去った。だが──ゼノリスが感謝しているのは、そこではなかった。
恐れながらも前に出た。その一歩が、この青年の本質だ。
◇◇◇
二人は、再び歩き出した。
森はさらに深くなり、光は遠くなっていく。だが、さっきの魔物の気配がカイロの歩き方を変えていた。一歩ごとに周囲へ意識を配り、音を立てないように足を運んでいる。
誰に教わったわけでもないだろう。遠征隊で荷物持ちをさせられていた日々の中で、自然と身についた警戒の技術。生き延びるために覚えた動き。
ゼノリスは、それを黙って見ていた。
カイロは、自分が思っている以上に多くのものを持っている。それを、これから一つずつ引き出していく。
ゼノリスは、前を見た。
木々の間を、ただ歩く。一歩ずつ。枝を避け、根を越え、獣道を辿る。
長い道のりだ。だが、急ぐ必要はない。今はまだ、歩くだけでいい。
◇◇◇
やがて、森の空気が変わった。
風が通り始めた。それまで木々に遮られていた風が、前方から吹いてくる。
カイロが、顔を上げた。
「ゼノリス様。……風が」
「ええ」
ゼノリスは頷いた。前方の木々の隙間が、わずかに明るくなっている。
森の出口だ。
二人は足を速めた。木々の間を抜け、枝をかき分け、光の方へと進んでいく。
そして視界が、開けた。
目の前に、街道が伸びていた。
ゼノリスは立ち止まり、街道を見渡した。荒れた道だ。轍の跡が残り、雑草が道を侵食している。人の往来は、ほとんどないのだろう。
だが──ゼノリスの目は、街道の先ではなく、脇に向いていた。
街道沿いの、少し離れた場所。木々の影に半ば隠れるように、傾いた建物がある。
小屋だ。
壊れかけた、小さな小屋。
そしてその小屋から──微かだが、気配がした。




