135.語られる黒幕の目的
予約忘れ
「――せめて一回だけでも誰かに愛されたかったなぁ…」
「【――偉大なるイシスよ。彼の者の傷を癒し給え】《癒し》」
彼女の独白とは全く関係ない言葉を八重樫が呟く。
其れは彼女の独白の間に紡がれた魔術の詠唱であり、其の効果は病毒を払う事は出来ずとも、瀕死の重傷を負う者を癒し、三途の川から引き戻し現世に繋ぎ止める事を可能とする。
腹部に空いた穴を含めて深く大きな傷は完全には塞がらずとも、腕等の多少の傷が塞がった事で少しは呼吸が安定して来た彼女は、血色の悪い土気色に近い顔を上げて八重樫が何故こんな事をしたのか分からないと云った表情で八重樫を見る。
「大した理由はないよ。ただ単に目の前で、そして何よりそんな勘違いをされたまま死なれるのはどうにも寝覚めが悪い日が続きそうってだけでね」
小さく肩を竦めて淡々とした口調で無言の問いに答えた八重樫は先程回収した、何者かが態々見せる為に八重樫の近くに置いたとしか思えない資料の上に【魔力水晶】と共に置かれていた小型のボイスレコーダーをポケットから取り出し、彼女に差し出す。
まだ完全に力が戻らずに震える手でボイスレコーダーを受け取った彼女は、無言で中に収められている音声を再生する。騒々しい怒鳴り声と此処か似た通路であろう閉鎖的な空間に反響する駆け足の足音が入り込んだ、数秒程耳障りな雑音と荒く乱れた呼吸音が流れた後に、彼女よりも幾分か低い女性の声が流れる。
『――メアリー、駄目な母親でごめんなさい。どうか幸せになって。愛しているわ』
苦痛に呻き、苦し気な声ながらも親愛の籠もった声音のメッセージが終わると同時に再生を終了したボイスレコーダーを暫く呆然と眺めていた彼女は、両目から涙を零すと小さく「お母さん」と呟く。
「良かったですね。どうやら貴女は少なくとも其の人には愛されていた様だ」
そう言った八重樫だったが、実は此のボイスレコーダーで呼ばれていた『メアリー』が彼女であると云う確証があった訳では無かった。
ボイスレコーダーを彼女に渡した理由は、只単に書類と一緒に置かれていた事から対象が此処の関係者で、其の中で思い浮かぶのが彼女だけだった事に加え、『愛されたかった』と云う台詞が嘗て間接的に殺してしまった彼女の事を思い出させて気に食わなかったと云うだけの、ある種の自己満足的な行為だったのだ。
「所で此処は何処で、此の揺れは一体何ですか?」
静かに涙を流すメアリーに淡々とした口調で尋ねた八重樫に、メアリーは涙を両手で拭って涙声で答える。
「此処は研究所の地下二階だよ。其れで此の揺れ…は…ッ!?」
助けられた上にボイスレコーダーの音声を聞いた事で抵抗する気が全く無くなったメアリーは、素直に現在地を告げて、次の質問に答えようとして、水道管を濁流が一気に流れ込む様に揺れが絶え間なく続き、近付いて来るかの様に大きくなっている事に気付き、多少血色の良くなった顔を青ざめさせる。
「真逆、そんな…!?」
「何だ?どうした?」
メアリーは震える手で口元を押さえてほぼ確実に当たっているだろう揺れの正体を語る。
「【テセウス計画】が私達五人にとっての一大計画だったって言ったよね?だけど其の先に、其の完成品を用いたそれぞれの目的があったの」
「目的?」
「其れは時間が無いから省略させて貰うよ。今重要な事は発案者の所長――【進化論者】が其の目的の為に、【テセウス計画】の成果を使っただろうって事」
メアリーは真剣な表情で其の目的を告げる。
「予測される目的は二つ。一つ目は【【自存の源】ウボ=サスラ】の招来。もう一つは【色欲】と【憂鬱】との接触、又は解放だよ」
告げられた目的の危険性に八重樫の顔が強張る。外なる神である【ウボ=サスラ】は云う迄も無く明確な脅威であり、其れと並ぶ【色欲】と【憂鬱】も、八重樫は其れが何であるかは分からないが此の世に顕現させてはならない存在である事は充分に理解出来た。そして、其れだけ強大な存在を招来ないし接触するならば、其れなりの設備や場所等が必要である事も予想出来る。
故に、其れを阻止せねばならないと判断して其の場所をメアリーに聞こうとしたが、
「もう始まってしまった。今更どうにも出来ないよ。此の揺れは恐らく、【ウボ=サスラ】が招来されて通路全体に流れ込んだ所為だろうね」
既に手遅れだと告げられて其の言葉を飲み込む。招来が既に成され生ける濁流が刻々と迫る状況で無用な問答は悪手以外の何者でも無く、其の時間を利用して最善と迄は行かずとも次善策位にはなる様な案を考えなくてはならない。
そして、八重樫はアッサリと【ウボ=サスラ】をどうにかする事を諦めた。
スマートに正攻法で対処しようにもそもそも《退散》の魔術を知らない上に、どのみち【魔力水晶】に籠められた魔力量ではしくじる可能性の方が高く、力技でどうにかしようにも遥かに物量を上回る不定形の神格相手では、八重樫は多少抵抗した所で諸共呑み込まれる事になるからだ。正直、どうにもならない。
だからこそ此の場所から離脱して他の職員と合流し、此の場所ごと封印する事にした。幸い此の場所はメアリーの言葉が事実であれば地下なので、水道等の配管辺りを気を付けさえすれば地上に溢れ出ている場合よりかは多少難易度が下がり、必要な情報は恐らく此の場所に八重樫を送り込んだであろう人物が用意しただろう書類があるので問題無い。
八重樫は新たに煙草を銜えて火を着け左手に【魔力水晶】を握ると、右手で銜えていた煙草を摘み、【魔力水晶】から魔力を、そして魔力よりも根源的な精神を消費しながら燻る煙で中空に文字を書き始めた。
綴るは魔術と密接な関係を持つルーン文字。呼び掛けたるは時空を統べたる【【副王】ヨグ=ソトース】。此の世ならざる外なる神の権能を、異星や異界から来たる異形が体系化した人知を超えた科学が切り取り再現した《魔術》を、更に偉大なる先人達が研究と研鑽、そして犠牲の果てに人の身で扱える様に劣化させながらも完成させた奇跡の一端を八重樫は行使する。
煙で書かれた文字は霧散するどころか歪む事も無く中空に留まり、文字列が右回りに流れて外側に渦巻く螺旋を描く。其れに巻き込まれる様に空間が歪み、捻じれて遠心力で引き千切れる様に中心に10cm程の昏い穴が開く。次第に大きくなる穴が軈て人一人程度なら容易に通れる位に迄広がると、八重樫は壁に凭れたままのメアリーの右腕を取って肩に担ぎ、戸惑う彼女を無視して開いた《門》を潜り、地下二階通路から脱出した。




