エル・ウィエルダ・4
残酷な描写を含みます。
血を大量に失ったからか、それは既に冷たくなりはじめていた。
少しヒゲが伸び、クマが浮いた、男の顔。
――男の。
え、と思う間もなかった。
葉月の目の前で、ウィリアムのまぶたが痙攣するように動く。
だが、彼女が見たのはそこまでだ。
「オレを拒むというのか、エル・ウィエルダ!」
叫んで、鞘に入ったままの剣を振り回したガンゲツが、葉月が近づいていたことにようやく気がつくと、一切の躊躇なく、ガンゲツはそれを鞘ごと葉月に叩きつけようとした。
それはまるで気に入らない玩具を振り回す子供のような仕草にも近かったが――力任せで素早い行動でもあり、葉月は気がついたところで振り返ることしかできなかった。
――いくら争いの身近でない世界から来た葉月でも、それが自分を殺そうとしていることはすぐにわかる。
目の前に迫った武器の、明確な殺意を持った動き。
恐怖は、無意識に葉月のまぶたを固く閉じさせた。
鞘はまっすぐに葉月の側頭部を打ち据え、
「あぐっ!」
悲鳴は別の場所からあがる。
痛みがなかったことに気がついて恐る恐る目を開けた葉月の、その真正面でガンゲツもまた、奇妙なものを見たような顔をしていた。
ガンゲツが振り回す手を止めたわけではない。剣は、確かに葉月を打ち据えたかのように場所を変えていたし、ガンゲツもまたその手に鈍い感触をおぼえたのだ。
だというのに、葉月には怪我ひとつない。
――悲鳴を上げたのは、離れた場所にいたはずのリタだ。
「どうして……うっ」
目を見開いた葉月はしかし、すぐに顔をしかめて唸る。
あまりにも熱い何かが、首の後ろにあった。それは確か、青くなっていると言われた場所だったはずだ。
慌てて手を回すと、そこに何か小さなものが張り付いているようで、それが熱を持っていたようだ。
熱を放ったはずのそれが既に冷めていることに気が付き、首の後からそれをむしりとった葉月は、張り付いていたものが小さな石だったことを知った。
熱のせいで黒くくすみ、葉月の手の中で崩れた石が、元は宝石だったことを。今、彼の腕の中で額から血を流して昏倒しているリタが葉月に貼り付けた宝石だったことを、アデルバートだけが知っていた。
――禁忌に近い術だ。
身分の高い者にだけ伝えられている術だ。
石を媒介にして、一度だけ、それを身に付けた人間が負わされた怪我を誰かになすりつける術。
だが。
それは葉月にはあずかり知らぬことだった。
彼女にわかったことは、ガンゲツが何かをして、あの女性が倒れた、それだけだ。
ウィリアムと、あの女性と。
葉月を助けたり、優しい言葉をかけてくれた相手が二人続けて傷つけられた、それだけだった。
「あなたは……あの女の人を、また」
目の前で誰かが傷つけられることに、慣れている人間と、慣れていない人間がいる。
葉月は間違いなく、後者だった。
涙の浮かんだ目でガンゲツを睨むと、葉月は叫んだ。
「うわあああああああ!」
叫びながら葉月は、困惑しながらも剣を再度振り上げようとしたガンゲツに飛びかかった。
はっきりと何かをしようとしたわけではない。
葉月はもう、いっぱいいっぱいだった。
異世界召喚とか、小説の中だけで十分だ。
こんなに人が傷ついたり、殺されたり。
――化け物になったり、そんなことが目の前で起こるのはもうゴメンだ。
それくらいしか、考えていなかった。
平和ボケしてると言われてもいい。
それでも。
「こんな世界、間違ってる!」
葉月は心の底からそう思い、叫んだ。
ガンゲツは、手にしたエル・ウィエルダのことを急に、異様に重たく感じた。
眉間に皺を寄せながらその剣を手放して泥の中に落とすと、飛びかかってきた少女の頭を押さえつける。
葉月は殴っていたつもりなのだろうが、ひ弱な少女の腕はガンゲツの鎧の前に、寧ろ彼女自身の手を痛めつける結果にしかなっていなかった。
ガンゲツは右手で葉月の髪をひっ掴んで、力任せに持ち上げる。
「あっ!」
「異世界の娘、だったな」
小馬鹿にした表情で、ガンゲツは葉月の顔を見下ろす。
「お前の世界は、人の世界を馬鹿にできるほどゴリッパなものなのか?」
答えを聞く気はガンゲツになく、彼は葉月の体を更に少し持ち上げようとした。
葉月の足が、無理なつま先立ちにも似た姿勢になる。
それでも、悲鳴を上げることはせず、葉月はガンゲツを睨む。睨み続ける。
「……つまらん」
ぴたりと真顔に戻ったガンゲツが、左手を拳に握ると葉月の腹に当てる。
「悲鳴ぐらいは、この世界のと違うものを聞かせろ」
そしてガンゲツは拳を引くと、思い切り前へと突き出した。
「あ?」
感触がない。
さっきの妙な術を再び使われたのかと、ガンゲツはその一瞬、真剣に考え込んだ。
だが、その次の一瞬で、葉月が目の前にいないことに気がついた。
おかしい。
さっきまで、確かに。
――そこまで考えて、ガンゲツは自分に何が起きたのかを知った。
掴んでいたはずなのに。何を。黒髪を。
掴んでいたはずなのに。どうやって。右手で、持ち上げて。
掴んでいたはずなのに。黒髪の女は地面に落ちている。
「あぁああがああ……!」
黒髪は泥にまみれている。だがあの髪を握っている手は、誰の手だ。
「オレの、手だ!」
ガンゲツの血が吹き出す。肘より肩に近い位置をばっさりと切られていた。
真後ろに人の気配を感じて振り向いたガンゲツは、さっきの術より面妖なものを見た。
さっき殺したはずの、金髪の女、ウィリアム。
あの女と同じ服を着た、背の高い男が、血と泥にまみれて立っている。
その胸はあふれたばかりのような鮮血で汚れている。
手に構えているのは、半ばから折れたファルシオン――さっき、あの女の胸に突き立てた刀。
ガンゲツは何が起きているのか、わからなかった。
「誰だ……誰だ、貴様!」
「ウィリアム」
誰何の声に、ウィリアムはいつかと同じように答えた。
目を見開いて隙を見せたガンゲツに、ウィリアムは姿勢を低くして足払いをかける。そのまま低い位置に肩から体重をかけた体当たりで姿勢を崩させ、飛び込むような勢いでガンゲツの腹を膝で踏む。
そして、折れた剣をガンゲツの首に触れるか触れないかのところにとどめた。
「ガンゲツ。忘れましたか、私の名を」
血が足りないのだろうか、真っ青な顔でウィリアムはそう呟く。
油断なく、ガンゲツの剣をガンゲツ自身に突きつけたまま。
ガンゲツもまた、少しずつ顔色を蒼白に変えていく。
本当に僅かな時間の攻防だった。
葉月が、身を起こし何が起きたのかを把握した時には、もう男二人は睨み合って動こうとしなかった。
そこに、リタを地面に座らせたアデルバートがゆっくりと歩み寄っていく。
アデルバートは懐から半球型の水晶を取り出すと、それに向けて事務的な口調を投げかけた。
「連絡。例の竜騎兵を確保した。至急、応援を送られたし。
囮隊の姫もこちらで身柄を確保した。繰り返す、例の竜騎兵を――」
「ははははは……!」
突然、ガンゲツが笑い出した。
「お前か。お前か! ウィリアム……そうか、お前か!」
喉仏が、刃に擦れて小さな傷をつけているのにも構いもせず。
目だけが異様にギラギラとした光を放ったまま、ガンゲツは笑い続ける。
「あの女と、お前は、同じウィリアムだ、そうだな!
変化の術に何の意味があるのか知らんが、お前、女の服が似合わんな!」
ひとしきり笑うと、がくりとガンゲツは頭を垂れる。
呼吸はある。失血で意識を失っただけのようだ。
「……余計なお世話です……」
無理やり締め付けた腰のベルトは広がった幅に耐え切れずぶっつりちぎれているし、ベストはいっそ肩を締め付けているかのようにパンパンで、窮屈だ。
酷く滑稽な自分の姿を見下ろしてから、ウィリアムは眉根を寄せて呻いた。
次は16日、木曜日。




