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男は赤子を連れて谷を目指すらしい
ヴァキレンが目を覚ましたとき、日はもう高かった。昼が近かったのかもしれない。
御者台の男は赤子のほっかむりをめくるようにしてその痣を眺めていた。たしかに左目を覆うような色の濃い赤い大きな痣だ。まだ寝ぼけたようなヴァキレンだったが、御者の視線から赤子を守るように自らの胸に抱きしめた。御者は「う〜」と唸った。この男はどうも口がきけないらしい。まだ少し離れたところ、数キロは向こう側には山が二つ連なるようになっていて、その谷間には村が見える。この男は顎でそちらを示している。あっちへ行けということらしい。ヴァキレンは赤子を抱えたまま荷台から降り、谷を目指して進み始めた。
男は御者台へ戻って手綱を手に取るが、赤子を抱えたヴァキレンが谷の方へ進んでいくのを眺める。ヴァキレンの逞しい背中が徐々に小さくなっていくが、そのしっかりとした足取りで遠ざかっていくのをずっと眺めている。




