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10 聖なる乙女と魔の乙女

「どうしたんだい!?」


 宿に戻ると、ただ事ではない私の汚れ方に、宿のおかみさんの驚く声がした。


 私は深くうつむいた。


 ――瞳を見られてはいけない。


泥濘(ぬかる)みに足を滑らせてしまったんだ。部屋に戻って湯を使わせてもらえる?」

「まだ退室の手続きは済んでないからもちろんいいけどさ……本当に大丈夫かい?」


 殿下はおかみさんにお礼を言い、私を連れて部屋の前まで戻った。


「服は大丈夫だと思うけど、髪や顔に泥が飛んでるからね。外で出発の準備をしているから一度さっぱりしておいで」


 そう言って戻っていく殿下のローブの背中には、べったりと泥の跡がついていた。


 部屋の中でローブを脱いだ。

 泥の跡はもう取れないだろう。汚れた部分を隠すように畳んだ。


 浴槽にお湯をため、(おけ)で頭からお湯を被った。何度も繰り返した。


 ――まだ街の人の罵声が聞こえる。


 荷造りの済んだ(かばん)から新しい服を取り出した。着ていた服とローブはそのまま鞄にしまった。


 ――まだ背中に泥の当たる感触が残っている。


 半乾きの髪のまま、鞄を持って宿の入口に戻った。


 外に出ると、馬車に物資を積んでいた騎士が私に気づいて駆け寄ってきた。街で私を護衛してくれていた人だ。


「離れてしまって申し訳なかった!」


 謝罪する騎士に、私はうつむきながら首を横に振った。

 私がお願いしたんだからいいんです、そう言いたかったのに……声が出なかった。


「男は捕まえて街の警備兵に引き渡した。奪われたバッグも無事だった。それと、君が助けた女性が……」


 びくりと肩が震える。


 ――まだ無数の視線が突き刺さっている。


「……ありがとう、と言っていたよ」


 そう言って騎士は馬車に戻った。

 その言葉を聞いても、心が麻痺(まひ)してしまったかのように、少しの感情も湧いてこなかった。


 宿の入口にあるベンチでぼんやりと騎士の行き交う様子を見ていると、頭に布が被せられた。


「おかみさんが貸してくれたよ。しっかり乾かさないと風邪を引く。風邪を引いたら明日からの旅がつらくなる」


 殿下は私の隣に座り、それ以上何も言わなかった。

 私は手を動かし、まだ乾いていない髪を時間をかけて拭いた。


 しばらくしてから出発の準備が整ったと声がかかった。


(ようやくこの街を離れられる……)


 逃げるように馬車に乗り込んだ。




 ◇




 馬車が出発して街を離れても、気持ちが安らぐことはなかった。

 強い憎しみが込められた目を思い出すたびに、足の先からじわじわと全身が冷えていく。


 ふと創世神話の一節が頭をよぎった。

 この世界の人なら誰もが知っている、この世界の(ことわり)を記した書物。

 もう何度も読んだ、その一節。



『聖の力は光の心に宿り、魔の力は影の心に宿る――』


 はるか昔、創世神の光から生まれた『聖』の力と、影から生まれた『魔』の力。


 聖の力――聖術は善良な精神の持ち主に与えられるといわれている。

 反対に魔の力は(よこしま)な感情や負の感情を求めて、人間の心の影の部分に入り込む。


 魔に入り込まれると、その人が持つ悪意は力を増し、『魔が刺した』『魔に刺された』人間へと変わってしまう。

 この世界で罪を犯す人は、ほとんどは魔が刺した人間だ。


 そしてどんなに善良な人間でも、強い負の感情を持てば魔が刺すこともある。

 聖術使いに魔が刺せば……聖術は『魔術』に反転する。

 そうした者たちが『魔女』や『魔術師』と呼ばれるのだ。


 目を閉じれば神話の続きが浮かんでくる。



『聖の力は人を救い、魔の力は人を害する――』


 ゲーム本編の悪役令嬢は、解毒の聖術が毒生成の魔術に反転した。

 ざまぁルートで悪役の私は……癒しの聖女から、人々を操る魅了の魔女へと変わる。


 人を害する魔術を使える魔女は、人々にとって「悪」そのものだ。


 たとえ……本人に自覚がなくても。



『――聖も魔も、等しく我らの一部となる』


 結びの一節を心の中で唱え、静かに目を開いた。


 魔が刺した人間は、見ただけでは普通の人と区別がつかない。

 それどころか……魔が刺していることに、本人ですら気がつかないときもある。

 その人の違和感に周りが気がついて、初めて魔に刺されていたとわかるのだ。


(……わたしは? 本当に魔が刺してないと言い切れるの?)


 あの記憶のない空白の一か月。

 私自身に何かが起きていて、本当は魔の力に目覚めていたとしたら。

 今の私に魔女である自覚がないだけの可能性だって十分ある――。


 考えれば考えるほど、疑心暗鬼になっていく。


(だってこの世界のわたしは、悪役ヒロインだから……)


「……殿下は」


 思わずこぼれ出た声は、かすれていた。


「ん?」

「殿下は、わたしを魔女だと思わないのですか?」


 目を合わせる勇気もなく、顔を伏せながら問いかけた。


 否定の言葉を聞きたいと思う反面、いっそ魔女だとはっきり言ってほしい。

 ……そう思う自分がいた。


 抗いたくてもどんどん進んでいく悪役としての運命。

 その流れの速さに……もう疲れてしまった。


 私は膝の上に置いた拳を見つめ、じっと判決の時を待った。




「――思わないよ」


 やがて聞こえた殿下の声は、清々しいほどにきっぱりとしていた。


「……どうして、ですか?」


 殿下は私に言い聞かせるように、ゆっくりと話し始めた。


「話したと思うけど、私は普通の人には見えないものが見えるんだ。()()が君は魔に刺されていない、と言っている。だから君は魔女ではない。……私もそう思っているよ」


 私を慰めるための作り話かもしれない。

 殿下の言う()()は、まだ私の中の魔に気づいていないだけかもしれない。


 それでも……殿下の言葉が胸の奥にじんわりとしみ込んでいく。

 こらえきれずに涙がこぼれ落ちる。


(たとえ嘘だったとしても……殿下はまだ、わたしを見捨てないでいてくれる)


「助けに入るのが遅くなってごめんね」


 そう言って殿下は、嗚咽(おえつ)をもらす私の肩を優しく叩いた。

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