第2話 小屋の主
アルヴィスが目を覚ましたのは小屋の中。そこには白いエルフが立っていた。
はじめに戻ってきた感覚は、薪の爆ぜる音。
つぎに、匂いだった。
湿った木の匂い。乾いた薬草の匂い。
背中があたたかい。やわらかい。
アルヴィスは、ゆっくりと息を吸った。
息が入る。胸の奥に引っかかるものはまだある。けれど、森の中で倒れた時よりはずっと楽だった。
生きている。その事実が、遅れてきた。
「……ここは」
目を開ける。薄暗い部屋だった。
壁は古い木で組まれている。天井からは薬草の束がいくつも吊るされ、棚には見たことのない瓶や骨でできた道具が並んでいた。窓はあるが、布で覆われているらしい。時間がわからないくらいに、外の光はほとんど入らないつくりになっている。
炉の火だけが、部屋の輪郭を静かに照らしていた。
アルヴィスは寝台に横たわっていた。
自分のものではない毛布がかけられている。粗い布なのに、不思議と体になじんでいた。
終わらなかった。
その言葉が、胸の奥で形になる。終わってもよかったはずなのに。
アルヴィスは、まだここにいた。
「目を覚ましたか」
平坦な声がした。
アルヴィスは息を呑む。
部屋の奥に、白い人影が立っていた。
白い髪。白い服。白い肌。
森の中で見た、あの影だった。
けれど今は、絵本の中のお化けには見えなかった。
人の姿。耳先は尖っている。耳が尖っていないラートネク人とは違う。エルフと同じ見た目の特徴を持っていた。
肌は異様に白い。火の光を受けても雪のように静かだ。
生きているというより、ただそこに在る者のようだった。
その姿に、アルヴィスは一瞬だけ別の人物を重ねた。
王都の奥にいた、白衣をまとうエルフの国の象徴。
しかし目の前の男は、もっとどこか違う存在に見えた。薄暗い場所に、ひとりで立っているような気配がただよう。
「あ、あなたは……」
「名はシリル。ここに住んでいる」
男は視線を合わせないまま言った。
「ダークエルフだ」
アルヴィスは一瞬、言葉を失った。
「……ダークエルフ、なのに」
「何だ」
「その……白いから」
「間違ってはいない」
責める響きではない。彼はただ、そのままのことを言う。
アルヴィスは体を起こそうとした。すぐに眩暈が来る。腕に力が入らず、上体が布団に沈む。
「動くな」
シリルが短く言った。
「まだ魔力が戻っていない」
「僕は……どのくらい眠っていたの」
「少し眠っていただけだ」
「あなたが、助けてくれたのですよね」
「拾っただけだ」
その言葉にアルヴィスは少し間を置いてから言葉を繰り返す。
「拾った」
「森で倒れていた。放っておけば、何かに食われていた」
淡々としていた。
親切を誇る声ではない。
だからこそアルヴィスは戸惑った。
王都で向けられた冷たさとは違う。優しいとも違う。ただ必要だからそうした、という声音だった。
「シリルさん、すみません」
「謝罪は必要ない」
即答にアルヴィスは固まる。
「あと、さん付けをするな」
「でも、助けてもらったから」
「助けたことと、謝罪は別だ」
シリルは棚の上に置いていた器を取った。湯気の立つ薬湯らしいものを、寝台の横の台に置く。
「飲め」
「ありがとう」
「礼は受け取る」
短い。
けれど、拒まれてはいない。
アルヴィスは器を両手で持った。温かさが指に移る。森の冷えが、まだ骨の内側に残っている気がした。
薬湯は少し苦く、草の香りが強かった。
飲み込むと、喉の奥がじんわりと開く。
「……息がしやすい」
「魔力枯渇と冷えだ。気の流れも悪い」
アルヴィスの指が、器の縁で止まった。
「分かるの」
「見れば分かる」
シリルはそこで、ほんのわずかに目を細めた。
「お前の中に、妙なものがある」
「妙なもの」
「今はいい。死にはしない」
今は、という言い方が少し引っかかった。
けれど、アルヴィスはそれ以上聞けなかった。
代わりに、シリルをもういちど見た。
白いまつ毛。赤紫色の瞳。
その奥に、ちいさな果実のような赤色の瞳孔が見える。首と両腕には包帯が巻かれていた。白衣の内側から覗く手首は、驚くほど細い。
綺麗だと感じたアルヴィスの、その感想は、不意に出てきた。
「綺麗だなって思う」
シリルの動きが止まった。
「何が」
「君が。その、変とかじゃなくて」
言葉を選ぶほど、うまく言えない。
「雪みたいで」
「余計だ」
シリルは顔を逸らした。
声は冷たい。
けれど、耳の先がわずかに薄紅色に見えた。
アルヴィスはそれ以上言わなかった。
炉の薪が小さく鳴る。
その時、部屋の隅で硬い音がした。
骨が触れ合うような音。
アルヴィスが反射的に目を向けると、骸骨がいた。
眼窩の奥に、薄い赤い光が灯っていた。立ち上がるとまるで使用人のように静かにこちらへ近づいてくる。
アルヴィスは寝台の上で硬直した。
「あ、あれは」
「しかばねだ」
「しかばね」
「交代で使役している」
シリルは当然のように言った。
骨の足音だけが、乾いた小さな音を立てている。
「一体、何の魔法?」
「死霊術」
「はじめて聞くよ」
「そうか」
そこで会話が終わった。
終わってしまった。
アルヴィスは骸骨とシリルを交互に見る。
白い影。森の奥の小屋。死霊術。
どう考えても、まともな状況ではなかった。
それなのに、不思議と逃げ出す気にはならなかった。
王都にいた時より、息がしやすい。そのことが、何より不思議だった。
「僕も、名乗る」
「言え」
「名前はアルヴィス。黒髪のハイエルフと呼ばれている」
「黒髪か。珍しいな」
「うん。よく言われる」
少しだけ沈黙が落ちた。
自分の名を告げたのに、シリルの反応は薄かった。
王都なら、その名だけで空気が変わる。
黒髪のハイエルフ。王族の血を引く者。
国に必要なもの。あるいは、国が隠しておきたいもの。
けれどシリルは、ただ珍しいと言っただけだった。
アルヴィスは、少しだけ肩の力を抜いた。
「あの、色々と迷惑をかけてしまいました」
「また謝罪している」
「あ」
「もう謝るな」
「気をつける」
「ならいい」
シリルは器を片づけながら、ふと続けた。
「ところでお前、色々と変わっているな」
「特別だと言われている」
「何にとっての特別だ」
その問いは、まっすぐだった。
アルヴィスは少し黙る。
「エルフの国にとって、必要らしい」
「らしい?」
「戦いのためだろうけど、僕自身よく分からない」
「自分のことなのにか」
「うん。くわしく教えられていない。聞いても、ちゃんと答えてくれない」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
「もう、意味はないけど」
その言葉に、シリルの表情が初めて動いた。
目だけが、わずかにこちらへ向いた。
視線は合わない。けれど、聞き流されてはいない。
アルヴィスはあとに続く言葉を言えなかった。死にに来た。そう言えばよかったのかもしれない。言葉にしようとすると喉が詰まった。
「もう、分からないんだ」
結局、そう答えた。
シリルはしばらく何も言わなかった。
そして、アルヴィスの胸元をみて、短く言う。
「なら、今は寝ろ」
その声はまるで混乱を沈めるかのようにひびいた。残った不安がアルヴィスの口からぽつりと漏れる。確認をするように。
「……まだ、ここにいていいのか」
「外に出たいなら止めない」
シリルは部屋の奥へ目を向けたまま答える。いい、という返答ではなかった。淡々と続ける。
「だが、その状態で出るのは危険だ」
アルヴィスは毛布を握った。
外へ出る理由はない。
帰る場所も、思いつかない。
けれど、ここにいていい理由も分からなかった。
「その、悪いから」
「悪いと思うなら、寝て回復しろ」
「え、いいの」
「それでいい」
シリルは、何でもないことのように答えた。
その言葉が、妙に胸に残った。
悪いなら、謝るのではなく回復する。
それは王都で教わったものとも、ラートネクで聞いた言葉とも違っていた。
アルヴィスは、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
「そうか。なら早く寝るんだな」
シリルは骸骨に短く命じた。
「見張れ」
骸骨の目に赤い光が戻る。
「――見張りを開始します」
無機質な声が、小屋の中に落ちた。
アルヴィスは少しだけ驚いたが、もう騒がなかった。
シリルが毛布を整える。触れ方は雑ではなかった。
慰めでも管理でもない。
ただ、寒がる者に行う動作だった。
アルヴィスは目を閉じかけた。
その時、部屋の奥にある薄暗い通路が視界に入った。
小屋の奥へ続いている。地下へ降りていくような、黒い入り口。
「あの先は?」
シリルは振り返らずに答えた。
「地下だ」
「この小屋に、地下があるんだ」
「ああ」
「何があるの」
シリルは少しだけ間を置いた。
「今のお前が行く場所ではない」
それ以上は言わなかった。
アルヴィスは、通路の暗がりを見つめる。
なぜか胸の奥が疼いた。
けれど、考えようとしてもうまく繋がらない。
眠気が重く降りてくる。
シリルの背が、炉の火の向こうに見えた。
白い影。死を連れてくると語られたもの。
けれどその影は、アルヴィスに薬湯を飲ませ、毛布をかけ、謝罪を止めた。
理由は分からない。
ただ、ここにいると少し息がしやすい。
『――無駄ね』
ふいに、女の声が蘇った。花壇の前で笑っていた声。
アルヴィスは目を閉じたまま、指先に力を込める。
あの時は、何も返せなかった。
けれど今、シリルの小屋の匂いがした。
木と薬草と、薪の火の匂い。
まだここにいてもいいのかもしれない。
そう思った瞬間、意識はゆっくり沈んでいった。




