第1話 伝承の森/迷子の光(プロローグ入)
これから随時更新していきます。まだ手探りではありますが、書きながら少しずつ慣れていこうと思っています。温かく見守っていただけたら嬉しいです。
水と木々に恵まれたエルフの国。季節が暖かくなり始め、澄んだ空を太陽が照らしていた。その国の王都の奥には昼でも薄暗い部屋がある。出入り口は全て厳重な鍵がかけてあり、見張りの者が立っている。
高い天井。重いカーテン。磨かれた床に冷たい光が細く落ちている。
そこに幼いエルフ、アルヴィスが座っていた。
年の頃は五つほど。長い黒髪はまだ背に届かず、黄緑色の瞳だけが、薄暗い部屋の中で妙に明るく見えた。
膝の上には、大きな絵本が広げられている。
古い革張りの表紙には、空から降りてくる大きな舟が描かれていた。
「この星には、かつて魔法を操る者たちが平穏に暮らしていた」
読み聞かせる声は低く、静かに響く。
アルヴィスは絵本を覗き込む。
頁の中では、緑の大地に小さな人々が立っていた。花が咲き、水が流れ、空には鳥が飛んでいる。
「しかし、その時代は、ある日突然終わった」
次の頁で、空は黒く塗りつぶされていた。
雲の間から、大きな舟が降りてくる。舟の腹は暗く、星そのものを押し潰すように描かれていた。
「空から来た舟は、この星の環境を変えた。魔法の力だけでは抗えなかった者たちは、日の当たらぬ地下へ潜った」
「地下は、こわいところだよね」
アルヴィスが訊く。
読み手は少しだけ間を置いた。
「怖い場所でもあり、生き延びるための場所でもあった」
「ほかに行くところがなかったんだね」
「ああ」
頁がめくられる。
暗い地下の絵。そこには光る石と眠るように身を寄せ合う者たちが描かれていた。
「これは、最初の災厄と呼ばれている」
アルヴィスはその言葉を、小さく繰り返した。
「さいしょの、さいやく」
「そうだ」
次の頁には、鋭い耳を持つ者たちが描かれていた。彼らは地下から地上へ上がり、森のそばに国を築いている。
「長い時を経て、地下で生まれた新たな種族は鋭い耳先を持ち、地上に根を張った。人々は彼らを――俗に、エルフと呼ぶ」
「ぼくたち」
「そうだ。私たちの祖だ」
アルヴィスは絵の中の森を見つめた。
そこには白い花が咲いていた。小さな挿絵にすぎないのに、アルヴィスはその花から目を離さなかった。
「この花、きれい」
読み手の声が、ほんのわずかに和らいだ。
「お前は、いつもそういうところを見るな」
「だって、きれいだから」
アルヴィスは当然のように答えた。
頁が、まためくられる。
今度は、乾いた大地と、四角く並んだ建物が描かれていた。森の国とは違う。花も水も少ない。人々は同じ向きに立ち、同じ旗を見上げている。
「やがて、エルフは魔法を持たぬ者たちの国と対立することになった」
「まほうを持たないの」
「ああ。だが、彼らは弱くはない」
絵本には砂の土地と、中央にそびえたつ石でできた高い城壁が描かれている。
読み手は、そこだけ少し硬い声で言った。
「その国の名を、ラートネクという」
アルヴィスは、その名を覚えるように黙った。
次の頁には、森が描かれていた。
それまでの絵とは違って、そこだけ色が沈んでいる。木々は絡み合い、空は見えない。奥には、白い影のようなものが立っていた。
「エルフの国には、古くから近づいてはならないとされる森がある」
アルヴィスは息を止めた。
「一度入れば、二度と戻れない。そこには白い影が棲むと、誰もが囁いていた」
「しろい、かげ」
「死を引き連れ、見た者を呪うものだ」
アルヴィスは、絵本の白い影をじっと見つめた。
怖いはずだった。けれど、その影は泣いているようにも見えた。
「しろいかげは、わるいもの?」
読み手はすぐには答えなかった。
高い窓の外で、風が鳴る。
「近づいてはならないものだ」
返ってきた答えは、それだけだった。
アルヴィスはもう一度、絵を見た。
暗い森。絡み合う枝。白い影。その足元には、小さな花のようなものが描かれている。
「この森にも、花は咲くのかな」
読み手の指が、頁の端で止まった。
「……咲くかもしれないな」
「じゃあ、こわいだけじゃないね」
幼いアルヴィスは、そう言って笑った。
その笑顔は、あまりにも幼かった。
あまりにも、兵器には似合わなかった。
絵本が閉じられる。
「アルヴィス」
「はい」
「お前は、この国を守る者になる」
幼いアルヴィスは、意味をよく知らないまま頷いた。
「ぼく、守る」
その声は素直だった。
疑いも、恐れも、まだ知らなかった。
王都の奥では、すでに多くの者が知っていた。
この子が母の胎ではなく、宝石の花から生まれたこと。
王族の血と、古い魔法と、異質な技術によって形を得たこと。
そして、いつか国を守るために使われるものとして、名を与えられたこと。
名を、アルヴィスという。
人に似た兵器。
彼は死ぬことすら、許されていない。
――――
それから約三十年が過ぎた。
エルフの国の首都、スペクトラガルド。
その王都の奥殿は夜明け前から騒然としていた。
白い石で造られた回廊を、神官たちの足音が行き交う。普段なら祈りと記録の声しか響かない奥殿に、低く押し殺した怒号が飛んでいた。
「儀式室を確認しろ」
「座にはいません」
「外門の記録は」
「反応なし。正規の通行ではありません」
誰かが息を呑んだ。
奥殿のさらに奥。王族と一部の神官しか入れない場所には、白い座がある。
祈りのためのものではない。兵器を眠らせ、測り、鎮めるためのものだった。
「鎮静陣は」
「沈黙しています」
「では、自分の意思で出たのか」
その言葉のあと、回廊の空気が凍った。
攫われたのなら、まだいい。
敵の手に落ちたのなら、追えばいい。
だが、もし彼が自ら王都を離れたのなら。
それは、国の内側で何かが壊れたということだった。
「魔力反応は」
「例の森の方角です」
若い神官が声を震わせた。
「まさか。ひとりであの場所へ向かったというのか」
「はい。反応はひとつ。白い影の森へ向かっています」
沈黙が落ちた。
その森の名を、この国で知らぬ者はいない。
一度入れば、二度と戻れない。白い影が棲み、死を連れてくる森。
そしていま、国を守るために造られたものが、そこへ向かっていた。
*
霧が深かった。
冬の終わりの森は、湿った息を吐いていた。枝は幾重にも絡み合い、空を塞いでいる。夜明けは近いはずなのに、木々の下には光が届かない。
アルヴィスは、一人で歩いていた。
長い黒髪は乱れ、衣の裾には泥がついている。背は高く、普通のエルフよりも大きい。その輪郭だけ見れば、まだ倒れるようには見えなかった。
けれど、その足取りは重かった。
「空が見えない」
呟きは霧に吸われた。
もう何日、まともに食べていないのか分からない。喉は渇き、腹の奥は空っぽだった。普通の者なら、とっくに膝をついている。
それでも、この体は壊れない。壊れてくれない。
アルヴィスは、片手を胸に当てた。そこには、目に見えない結び目がある。
いつからあるのかわからない。黒く、固く、何かをせき止めるような感覚。息を吸っても、魔力が巡らない。
自分の内側だけが、どこかで縛られている。
何が原因なのか考えようとしても、うまく繋がらない。思考にモヤがかかっているのを言葉にすることもできず、それよりも今はただ消えたいという感情に飲み込まれていた。
「……まだ、動けるんだ」
自嘲に近い声だった。丈夫に造られた体。強い魔力。国を守るための力。
かつては、それを誇るべきものだと教えられていた。
けれど今のアルヴィスには、すべてが重かった。
歩くたびに、乾いた大地の景色が脳裏に浮かぶ。
ラートネク。花の少ない国。
硬い風が吹き、土は乾き、水は遠い場所にあった。
その土地に、アルヴィスは花を植えていた。
敵国と呼ばれる場所。それでも、少しだけでも緑が増えれば、何かが変わると思っていた。
争う理由が、ほんの少しでも減るなら。
飢えや乾きが、人を奪うために外へ向かわせるのなら。
花でも、作物でも、水を保つ土でも、何かを育てればいいと思っていた。
『無駄ね』
声が蘇る。
ラートネク人の女の声だった。
ローザ。そう名乗っていた女。
彼女は花壇を見て笑っていた。初めは嬉しそうにしていた。花の名を訊き、土の配合を訊き、水を保つ魔法の仕組みを訊いた。
アルヴィスは答えた。
彼女を疑わなかった。知ってもらえれば、分かってもらえると思っていた。
アルヴィスは足を止めた。森の中は静かだ。
鳥の声も、獣の足音もない。自分の浅い呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
「僕は」
言葉が続かなかった。
何を言えばいいのか分からない。
騙された。利用された。花壇の技術は奪われた。
それだけなら、まだよかったのかもしれない。
祖国に戻ったあと、待っていたのは安堵ではなかった。
『アルヴィス。皆の者に迷惑をかけるな』
怒鳴られたわけではない。責め立てられたわけでもない。ただ、冷たかった。
『しばらく外部との接触を制限する』
『儀式の回数を増やす』
『安全確認が済むまで、単独行動は認めない』
淡々とした声。記録される反応。向けられる視線。
心配というより、確認だった。
彼らはアルヴィスを案じていた。
それは、たぶん事実だ。
だが同時に、恐れてもいた。
国を守るために造ったものが、敵国に近づき、利用され、戻ってきた。失敗だった。
危険だから調整が必要だった。
アルヴィスは、胸の奥を押さえた。
「誰にも、迷惑をかけないように」
そう思った。
そう思って、王都を出た。
追われない場所へ。
誰も近づかない場所へ。
絵本の中で、死を連れてくると語られた森へ。
ここなら、誰も巻き込まない。
ここなら、自分が消えても、誰にも迷惑をかけない。
「……そのはずだった」
足元が揺れた。
木の根につまずいたのか、自分の体が限界に近いのか、もう分からなかった。
膝をつく。湿った土の匂いが近づく。
土は冷たい。指先が沈む。体を支えようとしても、腕に力が入らない。
それでも心臓は動いていた。
壊れない体が、まだ生きろと言っている。
「消えたいのに」
声は、ひどく小さかった。
そのとき、霧が揺れた。
アルヴィスは顔を上げると、木々の奥に白いものが立っていた。
最初は、霧が形を持ったのかと思った。
だが違う。人影だった。
白い髪。白い服。白い肌。
暗い森の奥で、そこだけが雪のように浮いている。
絵本の頁が、記憶の底でめくられる。
一度入れば、二度と戻れない森。
白い影が棲む森。死を引き連れ、見た者を呪うもの。
「……白い、影」
アルヴィスは笑おうとした。うまく笑えなかった。
ようやく来たのだと思った。
死が。終わりが。
自分に許されなかったものが、ようやく迎えに来たのだと。
白い影が近づく。
足音はほとんどしなかった。
その姿が近づくにつれ、奇妙な香りがした。
薬草。湿った木。澄んだ匂い。
死の匂いとは程遠い、清らかな香り。
アルヴィスの視界が滲む。
白い影が、すぐそばに膝をついた。
赤紫の瞳が、こちらを見ている。が、目は合わない。
それでも、見られていることだけは分かった。
「……まだ死んでいない」
低く、平坦な声だった。
アルヴィスは答えようとした。
けれど声にならなかった。
白い指がアルヴィスの胸元に近づき、そこで一瞬、止まった。
「妙な結び目だな」
淡々とした声。誰に向けたものでもない呟き。
その意味を聞く前に、アルヴィスの意識は沈んだ。
最後に感じたのは、冷たいはずの森の中で、誰かの手が意外なほど柔らかかったことだった。
登場人物
・幼アルヴィス
・語り手
・成長後アルヴィス
・王都のエルフたち




