第二十一話 名前のない記憶
秋彼岸──空は灰青に沈み、雲は低く、時間の輪郭が曖昧になる季節。
神崎イサナが降り立ったのは、大学の最寄駅だった。
毎日のように通った駅のホーム。
自動改札の音、少しこもった構内アナウンス、駅前に並ぶ喫茶店と古書店。
それらは、記憶と寸分違わなかった。
喫茶店で待ってると言う初江と別れ、歩き出す。足取りは静かだったが、なぜか胸騒ぎがしていた。
別れ際、こっちをじっと見た初江の目の奥に、言葉にならない何かを見た気がしたのだ。
駅前の広場のベンチに、見慣れた横顔を見つけた。
スマホをいじる指先の癖、飲み物を持つ左手、何でもない風を顔で受け止めるような目元の動き。
——杉本だ。
神崎は、何度も確かめるようにその姿を見つめ、それから、ゆっくりと歩み寄った。
「……杉本」
声に出した瞬間、心臓が小さく跳ねる。
杉本が顔を上げ、こちらを見た。目が一瞬、驚いたように見開かれる。
「この間は……ごめんな。急にいなくなって……連絡もできなくてさ」
言葉を絞り出すように続けたが、杉本の表情は読み取れなかった。
彼は、しばらく間を置いた後、言った。
「……すみません。あの、俺……どこかで会ってましたっけ?」
その声は穏やかだったが、どこか探るような間があった。やけに他人行儀な質問。
まるで初めて会う人に対するみたいな……。
「8月に、京都行ったろ? 釜蓋朔日って、あの日。すっごく暑くてさ……六道の辻とか、清水のほうとか……」
杉本の目が揺れる。
記憶を探るように、眉間にしわが寄った。
「……京都は……行きました。田嶋と……誰か、もうひとりいたような……でも……」
顔にかすかな迷いが差す。だが、視線はすぐに硬くなった。
「あの、すみません。どうしてそのこと、あなたが知ってるんですか?」
神崎は焦るように口を開いた。
「だから一緒にいたの、俺だろ。神崎イサナだってば。あの日お前、“寺ばっかじゃん”とか文句言っててさ」
「……知らないです。本当に……」
杉本の表情が曇る。目がわずかに細まり、声も低くなる。
「……人違いですよね? ごめんなさい」
その一言は、決定的だった。
杉本は、軽く会釈をして立ち上がり、そのまま背を向けて歩き去ろうとする。
「……待って、冗談だよな。あのとき急にいなくなったの怒ってる? ……忘れたなら思い出して……!」
声を張ろうとしたが、喉が詰まって出てこなかった。呼び止める言葉は、風にさらわれていくように消えた。
(あの旅行のことは覚えてるのに……俺のことだけ忘れてるなんて事、ある……?)
足元がぐらついた。
杉本の背中が人混みに紛れて見えなくなったとき、神崎はようやく、自分がまともに呼吸していないことに気づいた。
神崎イサナは、そのまま大学の近くの住宅街に向かう。駅から歩いて十数分。
見慣れた並木道の先にある、田嶋のアパート。彼にも確かめずには、いられなかった。
かつて、何度も訪れた場所だった。
ピザを頼んで、深夜までゲームして、誰かの誕生日を口実に酒を持ち込んだ日もあった。
ノックの音に少しの間を置いて、ドアの内側からインターホン越しに懐かしい声が聞こえた。
「……はい?」
「田嶋……俺。神崎イサナ。久しぶり。……突然ごめん」
一瞬の沈黙があった。
「……神崎……?」
繰り返された名前の響きが、どこか曖昧に揺れている。
「こないだ、一緒に京都行っただろ? 辻利の抹茶パフェ、奢らされそうになった日だよ。あのとき、急にいなくなってごめんな」
苦笑まじりに言うと、ドアの向こうでかすかな戸惑いが走った気がした。
「……京都には行った。俺ら、三人だったよな? いや、二人だったか……いや、……三人、いたような……」
言いながら、混乱しているのか自分でも言葉に自信がなさそうな調子だった。
「……それ、俺だよ」
ドアの向こうに静寂が落ちる。
そして、少し間を置いて、申し訳なさそうな声が返ってきた。
「……ごめん。たぶん……記憶違いじゃないかな」
「田嶋……」
「いや、なんか……そういう場面があったような気もするんだけど、でも顔が出てこないんだ。名前にもピンと来ない。……ごめん、本当に」
扉は一度も開けられなかった。
インターホン越しの声は穏やかだ。けど、これ以上の会話も関わりも望んでいない、拒絶の響きがあった。
神崎は「わかった」とだけ言い、静かにその場を離れた。
振り返らなかった。階段を降りる自分の足音が、やけに響いて聞こえた。
少し時間を置いて、駅前の喫茶店に戻る。初江課長は新聞を畳み、神崎の顔を見るなり何も言わずに立ち上がった。
「……行こうか。次は大学に行きたいんだったね」
神崎は頷いた。
何かを確認するように、ゆっくりと大学へ向かって歩き出す。
ゼミ室のある棟は、秋の午後の光に静かに包まれていた。開け放たれた窓から風が入り、カーテンが淡く揺れている。
木製のドアも、並んだ椅子も、すべてがそのままだった。神崎は、そっと扉に手をかけ、そして振り返る。
「ゼミ室と学生課で少しだけ……確認してきてもいいですか」
初江はうなずいた。
——数分後。
教務課の窓口で、職員がPC画面を見つめながら首をかしげる。
「神崎イサナ、さんですか?」
「はい。民俗学ゼミに所属していたと思うんですが」
「……申し訳ありません、そのような学生の履歴は見当たりません。……念のため、旧データも確認しますが──」
カチャカチャとキーボードの音が続く。
少しして、再び首を振る職員の姿があった。
「……出席簿、成績、履修登録……どこにも記録がありませんね。もしかすると、お名前が間違っている可能性もありますが……」
「……間違いじゃ、ないです」
かすれた声だった。
喉が焼けるように痛い。神崎は静かに頭を下げ、カウンターを後にした。
廊下の白い壁が、やけにまぶしく目に滲んだ。
(——ここまで、全部……俺のことが、消えてる)
誰の記憶にも、自分の痕跡は残っていなかった。
同じ講義を受けていた学生も、ゼミの教授も、誰ひとり——神崎イサナを知らなかった。
建物の出口を出たところで、膝が崩れそうになる。
壁にもたれ、身体を滑らせるように、階段脇の影に座り込む。
(俺は、本当にここにいたんだよ)
授業に遅刻して、課題に追われて、講義で寝て、友達と笑って——。
その全部があったはずなのに。
この世界は、それを“最初からなかったこと”にしようとしている。
家族と呼べるような人は、とうの昔にこの世を去っている。
でも、近所の人たちや祖父の知り合いなど、誰の記憶からも自分の存在が消えているのかと思うと……これ以上確かめるのは怖かった。
そのときだった。
足音が一つ、そっと近づいてきた。
声をかけられるより先に、その存在に気づく。
「……課長」
「ごめんよ。こうなることは、ある程度、想像していたんだけどね」
初江の声は、どこか自嘲を含んでいた。
「記録も、記憶も……この世から消えてしまうというのは、ごく稀にだけど、前例がないわけじゃない」
神崎は顔を上げ、かすかに笑った。
「……それでも、現世に来させてくれたこと、感謝してます」
初江の目が揺れた。その瞳に、神崎は責めの色を浮かべなかった。
「よかったって、思うんです」
「……よかった?」
思わぬ言葉に、初江の目がかすかに揺れた。神崎は、そこに何の責めも向けなかった。
神崎は、ほんの少し顔を上げたまま、自分自身に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「誰も俺のこと、覚えてなかった。記録もなかった。……つまり、誰も悲しまずにすんだ。
俺が消えたことで、傷ついた人がいないって……それだけで、少し、救われた気がしたんです」
口角を少しだけ無理に上げてみせたその笑顔は、儚くて、でもまっすぐだった。
それを見て、初江は思わずため息をついた。静かに神崎の側へ歩み寄る。
「君は……それでも、まだ笑おうとするんだね」
上着の内ポケットに手を入れ、音もなく飴をひとつ取り出す。
「——強い子……だよ、君は」
初江は、上着の内ポケットに手を差し入れ、ひとつ、飴玉を取り出した。
静かな手つきで、それを神崎の手のひらにそっと乗せる。
神崎は、黙ってそれを見つめた。透き通った銀紙に包まれた、小さな飴玉。
ただの菓子。でも、それは——冥府に迷い込んでから、彼が初めて手にした“食べ物”だった。
指先に感じる重みは軽いはずなのに、どこか神聖なものにすら思えた。
しばらくのあいだ、神崎はそれを開けようとせず、ただじっと見つめ続けた。
——これを食べたら、もう戻れない。
黄泉戸喫。冥界のものを口にすれば、帰還の道は遠のくという古い伝承が頭をよぎる。
でも、いま目の前にあるのは、初めて初江が“差し出してくれた”ものだった。
それが、今はなにより嬉しかった。
やがて、彼はそっと銀紙を剥がし、舌の上に飴をのせた。
冷たい風のなかで、それは静かに甘さを滲ませていった。
初江は、それを確認してから微笑み、やさしく言った。
「……それを食べ終えたら、帰ろうか」
“帰ろう”という言葉に、神崎は少しだけ目を細めた。
この場所に、自分の痕跡はない。
でも——帰る場所は、確かに用意されていたのだ。
「……はい」
飴が溶けきるより先に。ゆっくりと立ち上がる神崎の背に、秋の風が静かに吹いた。
空を見上げた。
灰青ににじんだ空が、涙越しに揺れていた。
その霞んだ雲のあいだから、ひとすじの光が、静かに差していた。




