第二十話 試される居場所
面談室のドアが、静かに閉まる。
中は無音だった。
空調の音も、足音もない。耳鳴りのような静寂だけが、空間を支配していた。
機械の駆動音すら吸い込まれたように静まり返り、天井の照明が、神崎の影を淡く机の上に落とす。
初江課長は、おなじみの柔らかい笑みを浮かべながら、ゆっくりと端末を開いた。
「まずは、研修お疲れさま」
「……ありがとうございます」
神崎の声はかすかだったが、返事は確かに届いた。
初江は眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、目線を画面へ戻す。
「さて。君の評価についてだけど……“保留”という判定になった理由を、改めて伝えておこうと思ってね」
神崎は静かに頷いた。
答えを聞く覚悟は、もうとっくにできていた。
「初日の失敗に関して言えば、君だけが例外だったわけじゃない。春日くんだって規律違反はしているし、筆記も特別良かったわけじゃない。つまり、単純な点数で評価が分かれたわけじゃないんだ」
初江はそこで言葉を切り、神崎の表情を静かに見つめる。
「——あくまでこれは、“君が実務に耐えられるかどうか”を見たうえでの判断だ。正直に言えば……現場向きには見えなかった」
静かな声が、空気を切り取るように響いた。
神崎はわずかに目を伏せる。驚きはなかったが、言葉はやはり、重かった。
「演習での記録を見る限り、霊圧の影響に対する反応がかなり強かった。精神的にも、身体的にも」
初江の目が細くなる。
「この研修は、基本的に“霊体であること”を前提に設計されている。……生きている君にとっては、最初から不利な条件だったわけだ」
「……はい」
神崎の返答は短いが、確かだった。
それがどうしようもない現実であることも、理解していた。
「他の部署なら、もっと穏やかな環境もある。そっちの道を希望することもできるが……どうする?」
しばし沈黙が落ちる。
神崎は唇を引き結び、それからゆっくりと言った。
「俺は……調査課にいたいです」
はっきりとした意志だった。
その響きに、初江の表情がわずかに変わる。
「理由を聞いてもいいかい?」
「……あの場所と、まだ繋がっていたいんです。記憶じゃなく、ただの感情でもなく……何か、ちゃんとした形で」
初江は小さく息をつき、頷く。
「……寮監から聞いたよ。君、この研修中、一度も食事をしていないそうだね」
神崎は少しだけ目を見開く。
「……はい」
「現世の食事を摂ると、帰れなくなる。いわゆる“黄泉戸喫”を避けていたんだろう?」
核心を突かれ、神崎は一瞬言葉を失った。
「その心配は間違いじゃないよ。覚悟のないまま境界を越えれば、足元をすくわれることもある。ただ……」
初江の声音が、すこしだけ低くなる。
「その執着が強すぎると、調査課では命取りになる」
「……どういう意味ですか?」
「調査課は、未練に取り憑かれた死者と向き合う場だ。君自身がその想いを強く抱えすぎれば、彼らと“引き合って”しまう。──気づかぬうちに、飲まれるかもしれない」
その言葉に、神崎ははっと目を上げる。
(……そんなことが)
「けど、君は——昨日、最後まで立っていた。どんなに危うくても、誰より早く異変を察知し、動いた。佐倉も、黒野も、君の力を評価しているよ」
神崎の目が揺れる。
あのふたりが——。
「……やっぱり、俺は調査課で働きたいです」
その言葉は、先ほどよりもずっとまっすぐだった。
初江はふっと目を細め、頷く。
「……そう強く思えるのなら、いいよ。
ところで。無理に勧めるつもりはないけど……一度、現世をのぞきに行ってみる気はあるかい?」
「——え?」
「この三日間で変わった自分が、あの場所をどう見るのか。確かめてみるのも悪くないと思うよ。君自身の“今の輪郭”を、もう一度見ておくのもいいだろう」
神崎はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと息を吸い、頷く。
「……はい。ちゃんと、見てみたいです」
その言葉に、初江はほんの一瞬だけ、表情をやわらげた。
◇
寮の共有ラウンジには、ひとつだけ灯りが残っていた。
部屋に戻ろうとしたそのとき、視界の端でソファに座る人影が見えた。
「……押人?」
名前を呼ぶと、紙パックのジュースをくわえていた押人が、ゆるく手を振った。
「おう、おかえり。……っていうか、さっきぶりか」
「うん。……まだ起きてたんだ」
「なんか寝れなくてさ。……お前は、平気?」
その“平気”には、いろんな意味が込められていた。
神崎は少しだけ目を伏せて、短く頷いた。
「うん。まあ……今はね」
押人はそれ以上何も言わず、ジュースのストローを外して指先でくるくると回す。
「美弥がさ、お前のこと、ずっと気にしてたぞ。廊下で呼んだけど返事なかったって。あいつ、しょんぼりしてた」
神崎は目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
「……そっか。悪いことしたな。明日、ちゃんと話すよ」
「それならよし」
押人は肩をすくめて、残ったジュースを飲み干した。
「……俺さ、お前の試験内容って詳しく知らないけどさ、演習の日の顔、ちょっと違ってた」
「え?」
「……なんか、吹っ切れてたっていうか。何かをやり遂げた顔だった。
だから、“保留”って出たとき、マジで意味わかんなくてさ。絶対俺より頑張ってたはずなのにって」
神崎は小さく苦笑する。
「……たぶん、覚悟はしてたんだと思う。でも、本当に納得できるようになったのは、さっき初江課長と話してからかもしれない」
「そっか」
押人はそれ以上は何も聞かず、ジュースの空パックをゴミ箱へ放り投げた。
「ま、案外平気そうで安心したわ。……寝るか。鍵、持ってる?」
「うん、ある」
「じゃ、戻んぞ。今日くらい、もう何も考えずに寝とけ」
神崎が立ち上がるのを待って、押人は廊下の方へと歩き出す。
肩を並べて歩く足音が、夜の静寂にゆっくりと溶けていった。
しばらくして、押人がぽつりと口を開いた。
「……なあ、イサナ」
「ん?」
「お前さ、ああいうときまで無理して笑うなよ。さっきの、おめでとうって言ったとき──」
神崎は言葉を失い、ふと立ち止まる。
押人は歩を止めず、ゆるく肩越しに言葉を続けた。
「俺らにまで気ぃ使ってんの、丸わかり。でもな、あんなときくらい、悔しいとか悲しいって言ったり、凹んでんなら黙ってたりしててもいいんだって」
その言葉に、神崎は思わず目を丸くし、それからふっと笑った。
あのとき、口にした「おめでとう」は本心だった。無理にでも笑おうとした自分が、間違いだったとは思わない。
けれど今、その笑顔がいかに不自然で、誰より自分を苦しめていたのかに気づいた。
「……気づかれてたんだ」
「当たり前だろ、ばーか。そんな簡単に騙されてなんかやらねえっつーの」
押人はぶっきらぼうに言ってから、先に部屋のドアを開ける。
その背中に、神崎は小さく「ありがとう」と呟く。返事はなかったが、扉の奥からふわりと返ってきた空気は、どこかやわらかかった。
神崎はそっと息を吐いた。
胸の奥で張り詰めていた何かが、ほんの少しだけ、緩んでいく気がした。




