椿( す )
「それじゃあ、よろしくお願いします」
看護師さんに着替えを渡す。かわりに洗たく物の入った袋を受け取って、ナースステーションを出る。
おみまいができなくなってから、4日。お母さんのおみまいは、まだ再開できていない。
コンビニに寄って、ATMを見る。残高は、この間お金を下ろしてから、変わっていない。
病院を出ると、今日は薄暗い。空がくもっているからだ。
バス停に向かう道も、暗くて寒い。せっかく小さくなった雪かきの雪も、この間の雪で、また増えている。
またはじめから、やり直しだ。
◇
アパートの階段を上ったところで、結季さんが部屋から出てきた。いつもの赤いストールを背中にはおって、手にはゴミ袋を持っている。明日は水曜日だから、もえないゴミの日。
「あら水流ちゃん。今日はこの時間なのね」
結季さんは、こっちを見ると言う。そして続ける。
「もしかして、おみまいに行ってきたの?」
私は半分、首を振る。
「まだ、おみまいはできなくて……なので、着替えだけ、持って行ってました」
「そうだったの……。遅くまで、おつかれさま」
私は小さくうなずく。
「それじゃあ、お部屋入って、あったかくしてね」
結季さんは言って、私はうなずく。結季さんは階段を下りて、私は部屋のカギを開ける。
部屋に入って、スマホを見ると、LINEの通知が来ていた。お母さんからだ。
スマホを開いて、返事を送る。すぐに既読がついて、少ししてお母さんから電話が来る。
「もしもし、みっちゃん? 着替え、受け取ったわ。ありがとうね」
電話だから、いつもより声がガサガサしている。それでも、お母さんの声が聞けて、私はホッとする。
「メモも、ありがとうね」
お母さんは、続けて言う。
「……別に、大したのじゃないけど」
私は答える。
「それでも、うれしかったわ」
お母さんは、優しく言う。
「……具合は、どう?」
「ええ、大丈夫よ」
私が聞くと、お母さんは、それだけ答える。
「面会、まだ無理そう?」
「そうねえ。そろそろいいと思うんだけどなあ。明日、先生に聞いてみようかな」
「大丈夫になったら、教えてね。すぐ行くから」
「ええ」
「……大丈夫じゃなくても、教えてね」
「ええ、もちろんよ」
少しだけ、沈黙が流れる。すると、お母さんは言う。
「それじゃあ、今日はもう遅いから、明日また電話するわね。お風呂入って、ゆっくり休んで」
「……うん」
私は答える。
「ご飯は今日は、何にするの?」
「……昨日の残り」
「そう」
また少し、沈黙。私は何か言おうとしたけど、すぐ出てこない。
「それじゃあ、また明日ね」
そして、お母さんは言った。
「うん、また明日」
だから、私も言う。
私は、電話を切る。
少しだけ画面を見つめて、お風呂はもう少し後でいい。
◇
明日、つまり今日。お母さんは、電話の向こうでいきなりせきこんだ。
「ごめんねえ、電話するなり」
お母さんはそう言うと、またせきをする。
「おかしいわねえ……もうおさまったと思ったのに……」
そう言って、またせきをする。
「……つらい?」
私は聞く。それくらいしか、聞けない。
「大丈夫よ。せき止めだって、ちゃんと飲んでるもの。ただ、こんな調子だから、面会のことも聞けなくって……」
「いいよ、そんなこと。今はまだ、ゆっくり休んで」
私は言う。そして、少し黙る。それから言う。
「電話も今日は、もう無理しないで。また明日、ゆっくり話そう」
「大丈夫よ。せっかく……」
お母さんは、そこまで言うと、またせきこむ。だから私は、また言う。
「本当に、無理しないで」
それから言う。
「明日ね、いつもより帰り、早いんだ。あさってが、卒業式だから。明日は午後は準備だけで、準備終わったらすぐ帰れるの」
「そう、卒業式……。もうそんな時期なのね」
「うん。だから、帰ったらすぐ、電話するよ。明日またゆっくり……」
「ああそうだ、待ってみっちゃん」
すると、お母さんは言う。
「お母さん、明日の午後、検査が入っちゃったの」
「検査?」
私は、聞き返す。
「そうなの。お母さん、カゼ中々よくならないでしょう。だから先生が一度……」
そこまで言って、お母さんはまたせきこむ。そして、せきをおさえるようにしながら言う。
「――の検査を、した方がいいって言うの。だから……」
「え? 何て?」
かんじんなところが聞こえなくって、私は聞き返す。だけど、聞き返した声が、またせきでかき消される。
「……まあ、そんなこと、ないと思うんだけど」
「そ、そう……」
「だから明日はちょっと、電話をもらっても出られないかもしれなくて……」
「ううん、ならいいよ。そしたらあさって、あさって話そ」
私は言う。そしてつけ足す。
「それこそさ、卒業式の日なんて、もっと帰るの早いもん」
お母さんは何か言おうとして、またせきをしそうになる。私は言う。
「ほら、だからもう、今日は無理しないで。ゆっくり休んで」
そして続ける。
「ゆっくり休んで、早くよくなって」
「……そうね」
お母さんは、静かに言う。
「……それじゃあ、またね」
「ええ。またね」
「またね」
私は言って、電話を切る。そしてまた、画面を見つめる。
窓の外では、カラスが鳴いていた。
何羽も集まって、ギャアギャア鳴いていた。
◇
そしてあさって。卒業式の日。
紅白の布が、体育館を囲む。
クラシックの音楽が、ゆったりと流れる。
その中で、卒業生の先輩たちが、一人一人名前を呼ばれていく。
私はひざに手を乗せて、いろんな名前を聞いていく。
普通の名前、珍しい名前、いろんな名前の先輩たちがいる。
その一つ一つに、ちゃんと理由があるんだろうか。
私の名前の理由の話は、まだお母さんに聞けていない。
直接会って、聞きたいから。
電話じゃなくて、顔を見て聞きたいから。
私はちらりと、保護者席を見る。
お母さん、私のときは来てくれるかな。
そして、卒業式の後、先生に声をかけられる。
「石井さん、ちょっと……」
◇
ビーっという音が響く。バスのドアが、ゆっくり開く。
私は急いでバスを降りて、いつもの坂道をかけ上がる。気持ちだけが、意味もなく焦った。
首元のマフラーが暑い。だけどほどいている時間ももったいなくて、私はそのまま坂道を上る。
走りながら、ふと気づく。別に今日くらい、病院前まで乗っていてもよかったのに。いつも通り習慣で、一つ前で降りてしまった。
気づいたけれど、もう遅い。バスはとっくに、行ってしまった。仕方がない。私は、とにかく走る。
「きゃっ!」
すると足が、急にすべった。バランスをくずして、転びそうになる。
私はあわてて、体に力を入れる。なんとか持ちこたえて、立ち止まる。
「もう、なんでこんなところで……」
つぶやきながら、足元を見る。そして気づく。
地面がぬれていた。
雨が降ったわけでもないのに、どうして。不思議に思いながら、私は顔を上げる。そして大きく、目を開く。
雪が、とけていた。
冬の間じゅう、ずっととけなかった坂道の雪が、とけてもとけてもまた積もっていた雪が、日差しを浴びてとけていた。
そして、とけた雪が水になって、坂をずっと流れ下りていた。
私はだれかに名前を呼ばれた気がして、ハッと後ろを振り返る。
でも、だれもいなかった。
行かなくちゃ。私はまた、走り出す。
◇
どうしよう。
結季さんの部屋の、ドアの前。
私はチャイムを、じっと見つめる。
いきなり来て、迷惑だったろうか。
電話の方が、よかったのだろうか。
番号だって、教えてもらってたのに。
私は、少し考える。
でも、やっぱり、直接話した方がいい。
こういうときは、特に。
私はゆっくり手を伸ばして、チャイムのボタンをそうっと押す。
ことん、と物音がする。それからカチャリと、チェーンが外れる音。ドアが開いて、結季さんが顔を見せる。
「えと……すみません、突然……」
うつむきながらあいさつをする。結季さんは優しい声で言う。
「こんにちは、水流ちゃん。どうしたの?」
「ええと……」
だけど私は、何も言い出せない。すると結季さんは言う。
「どうぞ上がって。お茶でも入れるわ」
私は、首を振る。
「いえ、そういうんじゃなくて……」
結季さんは、私の顔をのぞきこむ。何か言わなくちゃ。
「ええと、その……」
でも、何から言えばいいんだろう。頭の中がまとまらない。まとまらないまま、口を開く。
「ええと、実は、お母さんが……」
結季さんの顔が、少し固くなるのを感じた。
どうしよう。言う順番を、間違えたかもしれない。
結季さんを、困らせてしまうかもしれない。
でも、話しはじめた言葉は、もう消せない。私は顔を上げて、結季さんを見つめる。そして息を吸うと、言葉を続けた。
「お母さんが明日、退院するんです」
結季さんが、目を見開くのがわかった。
「今日急に決まって、お母さんから学校に電話が来て、それで病院行って、退院ってことになって。今度こそ本当です。退院の計画の書類とかも、先生からちゃんともらったし」
話しはじめると、今度は止まらなかった。私はべらべらと、いらないことまで多分しゃべる。
「それで、明日うちへ帰れることになったんですけど、その、荷物とかが思ったよりたくさんあって。とりあえず今日、持てるだけ持ってきたんですけど、それでもまだ、いろいろあって……お母さんも退院していきなり、重いものとか持ってほしくないし……しかも明日土曜日で、バスも電車も少なくて、待ったりとかも大変だし……」
言いながら、結季さんの目が見返せなくなってくる。私はだんだんと、うつむきながら話す。
「本当は、タクシーを呼べばいいんですけど、その、距離もあるから、その……呼んでも来てくれるかわからないし……」
顔が熱くなるのがわかる。言うのをやめたくなってくる。
だけど私は、言葉を続ける。やめるわけには、いかないから。
「だから、もし、もし明日、結季さんが予定とかなかったらでいいんですけど、もし予定がなかったら――」
顔を上げて、言葉を続ける。
「また結季さんちの、車を出してもらえませんか?」
結季さんがまた、目を開くのがわかった。急に怖くなって、私はまた、目をそらす。ごまかすみたいに、私はつけ足す。
「その……おばさんは、明日忙しいみたいで……なんか、いとこの子の、習い事の送り迎えがあるみたいで……」
言いながら、じわりと手に汗をかく。そんなことを言ったら、結季さんだって明日、用事があったかもしれないのに。
やっぱりまず、いちばん最初に、結季さんの予定を聞くんだった。言う順番を、やっぱり間違えた。どうしよう。
結季さんは、何も言わない。やっぱり予定が、だめだったんだろうか。それともやっぱり、迷惑だったんだろうか。
私はおそるおそる、結季さんの方に目をもどす。
「あの、結季さん……」
すると、結季さんは思い切り笑顔になる。今まで見たことがないくらい、大きく口を開く。
「よかったねえ、水流ちゃん!」
「えっ?」
私は思わず、聞き返す。
「退院、今度こそ決まったんだね! おめでとう! よかった! ほんとによかった!」
言われて私は、そうだった、となる。
もうさっき、病院でお母さんと2人で、思い切り喜んで、思い切りはしゃいで、それから一気に、現実的なことを考えなきゃいけなくなって、だから、喜んでいたときの気持ちを、すっかり忘れていた。
私は、頭をかくと、言う。
「ありがとうございます。その、よかったです」
「うん!」
結季さんは、力強くうなずく。
「それで、その……」
「ああ、明日だよね! もちろん大丈夫よ! 私ヒマだし、車くらいいくらでも出すわ!」
結季さんは言って、私は聞く。
「その、本当に、大丈夫ですか? 迷惑だったり……」
すると、結季さんは、首を振る。
「迷惑なんて、全然ないよ」
そして、優しい目をして、こう言った。
「自分から頼ってくれて、ありがとう」
私は目をぱちぱちさせながら、結季さんのことを見返した。
こっちが頼んだことなのに。
お礼を言われるなんて、思ってもいなかった。
結季さんは、にっこり笑う。
私も、つられて笑った。
手の汗は、いつの間にか乾いていた。
「――それじゃあ、明日は何時くらいに行けばいいのかな?」
結季さんは言って、私はハッと、また現実的なモードになる。
私はポケットに手をつっこむと、病院で書いたメモを出す。
「ええと、手続きとかがいろいろあるので、11時くらいに来てほしいって言ってました」
「わかったわ。じゃあここを10時に出れば、じゅうぶんかな」
「はい」
私はうなずく。
「じゃあ、私も忘れないように、メモしておくね」
そう言って結季さんは、くつ箱の上にあるペンを手に取った。それから顔を、きょろきょろさせる。
「ええと、メモ帳、メモ帳は……そっか、今、切らしてるんだっけ」
「そうしたら……」
私はそう言って、自分のメモを渡そうとする。だけど、時間以外のこともいろいろ書いていたことを思い出して、しまったとなる。すると結季さんは、すっとその場にしゃがんだ。
「じゃ、これでいっか」
そして、足元にあった、縛った雑誌の束の端っこを小さくちぎると、そこにさらさらと10時出発とメモをした。そして立ち上がると、その紙をくつ箱の上に置く。
「ごめんね、横着者で。こんなところにメモするなんて」
結季さんは、足元の雑誌を見ながら言う。
「これ、明日のゴミに出そうと思って、縛っておいたのよ。せっかく縛ったのなら、すぐに出しちゃえばよかったんだけど……。私ったらつい、後回しにしちゃって。だらしないところを見られちゃったわね」
別にだらしなくなんかないのに。そう思いながら私は、結季さんの方を見上げる。結季さんの後ろの壁には、いつもの赤いストールがかけてあった。
私は、自分のメモをポケットにもどしながら言う。
「でも、ゴミも、もう夜とかに出しちゃいけなくなりますし」
すると、結季さんは驚いたように聞き返す。
「えっ? そうなの?」
「えっ? はい……」
今度は私が、聞き返す。
「ええと、大家さんから、お手紙入ってませんでしたか? 4月から、ゴミは当日の朝に出さないといけなくなるって……」
「そう、4月から…………」
結季さんは、考えこむ。そして言う。
「もしかしたら、チラシか何かと間違えて、捨てちゃったのかもしれないわ。教えてくれて、ありがとうね」
それから、不思議そうに続ける。
「でも、便利だったのに、どうして急にだめになっちゃったのかしら」
「ああ、それなんですけど」
私は答える。
「カラスが出るようになっちゃったからって、書いてありました」
「カラス?」
結季さんは聞き返す。
「はい。カラスが来るようになって、近所の人から苦情が来て、とかなんとか、書いてあって……」
私が答えると、結季さんは、ああ、という顔をする。
「そっか。確かにこのところ、カラスが増えていたものね」
「最近ほんとに、うるさいですもんね」
「そうね。そうしたら、私も今日からでも、夜にゴミを出すのはやめようかしら」
結季さんはそう言って、私はあわてて返す。
「でも、結季さんのせいじゃ、絶対ないですよ。下の階の人たちですよ。出し方とか、汚いですし」
「どうかしらね」
結季さんは、少し考えるように言う。それから続ける。
「でもどちらにしても、今はちょうど、カラスがにぎやかになるころだから」
「そうなんですか?」
私は聞く。
「そうよ。カラスだけじゃないわ。春は鳥たちがみんな、にぎやかになってくる季節だもの」
すると結季さんは、さらりと当たり前のようにそう言った。
「春……」
私はその言葉を、くり返す。
春一番は、今日も吹かなかった。だけどいつの間にか、春は来ていた。
◇
「ご退院、おめでとうございます!」
看護師さんたちに見送られて、病棟を出る。いつもの病院の廊下が、今日はなんだかまぶしく見えた。
「本当に、よかったですね」
結季さんが、お母さんに言う。
「ありがとうございます。結季さんには本当に、何から何までお世話になりまして……」
お母さんは、何度も頭を下げる。
「いえ、いいんです」
結季さんは言う。
「お元気になられてよかったです。本当に、本当によかった」
そして、かみしめるようにくり返した。
3人でエレベーターに乗って、1階に下りる。土曜日だから、1階は暗くて静か。支払いの機械も、今は休止中の札がかかっている。
入院費の支払いは、後日振り込みで。看護師さんがそう説明したとき、お母さんは少し、ホッとした顔をしていた。金額がいくらなのか、私は知らない。
「出口、こっち」
正面玄関の方に行きそうになるお母さんに、私は声をかける。
「土曜日は、玄関閉まってるから」
「ああ、そっか」
お母さんは、振り返って言う。
「みっちゃんの方が、詳しいのね。土日もたくさん、おみまいに来てくれたものね」
「別に……」
恥ずかしくなって、私は黙った。
「入院中は、お外に出られたりしていたんですか?」
結季さんが聞く。
「いえ、実は入院以来、全然外に出ていなくって」
お母さんは答えて、結季さんは明るい声になる。
「じゃあ、久しぶりのお外なんですね」
「そうなんです。久しぶりすぎて、季節もすっかり変わってしまって」
「そうですね。外はもう、ずいぶんあたたかくなりましたよ」
結季さんとお母さんは、楽しそうに話す。
「でも、大丈夫なの?」
私は、口をとがらせながら聞く。
「え? 何が?」
お母さんは、きょとんとした顔で振り返る。
「いや、だってさ……」
そう言っているうちに、通用口の前まで来る。自動ドアが開いて、お母さんは普通に外に出る。
あわてて私も外に出る。結季さんも、いつものストールをはおりながら続く。
外は明るくてあたたかい。そして少し、風が吹いていた。結季さんのストールが、ふわりと揺れた。
その瞬間、お母さんはなるほどという顔をした。そしてこっちに背中を向けると、思い切り体を折り曲げる。
「……へっくしょん!」
だから言ったのに。私は思いながら、お母さんの方を見る。
「へっくしょん、へっくしょん!」
お母さんは大きな声で、くしゃみを連発する。
「大丈夫ですか?」
結季さんが、心配そうにお母さんを見る。
「おカゼをひかれていたと聞きましたが、もしかしてまだ……」
それを聞いて、お母さんと私は顔を見合わせる。
「実は、それが……」
お母さんは言って、結季さんは驚いたように聞き返す。
「花粉症?」
「ええ。そうなんです」
お母さんは、少し恥ずかしそうに言う。
「おととい、アレルギーの検査をしてもらったら、ばっちり反応があって。これまでカゼだと思っていたのは、どうやら全部、花粉症の症状だったみたいで……」
「そうだったんですね……」
「本当に、ご心配をおかけしてすみません。でも先生に言われるまで、自分じゃまさか、花粉のせいだなんて思ってもいませんでした。先生に言われても信じられなかったくらい。だって、去年まではなんともなかったんですもの。それが入院中にデビューするなんて」
お母さんは、言いわけするみたいにべらべらとしゃべる。
「それに症状も、目や鼻の症状だけでなくて、せきや微熱も出ていたものですから……。でもきちんと検査をしていただいて、アレルギーの薬を飲みはじめたら、すぐにそれもおさまって、おかげで無事退院できることになったわけですけど……」
お母さんはそこまで言うと、また大きなくしゃみをした。
「でも、さすがに外に出るとすごいですね。もう一気に鼻ものども……」
すると、結季さんは言う。
「ああ、おつらいですよね。そうしたら、水流ちゃんといっしょに、いったん中にもどっていてください。出口の前まで、車を寄せます」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
お母さんは言いかけて、げほげほとせきこむ。
「いえいえ、ご無理なさらないでください。駐車場まで、少しありますから」
「そしたら、入ったところにいすあるから、そこに座ってよう」
私は言って、お母さんは頭を下げる。
「すみません。いろいろお気を遣わせて……」
「とんでもないです。少しだけ、お待ちください」
結季さんはそう言って、駐車場に向かう。私とお母さんは、また病院にもどる。
病院の中は、また暗くて、しいんといていた。お母さんと私で、ドアの近くの小さな2人がけにつめて座る。お母さんが近い。
「……本当に、結季さんはよく気がつく人だわ」
「うん」
お母さんは言って、私はうなずく。
「落ち着いたら、きちんとお礼をしないとね」
「うん」
私はまた、うなずく。そして思い出す。会ったら言おうと思っていたこと。
「あのさ、お母さん」
「なあに?」
「結季さんにごちそうするおなべ、私、自分で作ろうと思うんだ」
私は、カバンからスマホを出す。そして、開きかけのレシピサイトを、お母さんに見せる。
「これとか、どうかな。ごうかでおいしそうなのに、具材、豚バラと白菜だけなんだって」
「へえ……」
「……だから、私でもできるかなって思って」
だけど、言ってから私は気づく。
「でも、さすがにもう、おなべは暑いかな。調べてたときは、もっと寒かったんだけど……」
すると、お母さんは言う。
「そうしたら、白菜の代わりに、春キャベツで作ってみたらどうかしら。そうしたら、一気に春らしくなるんじゃない?」
「へえ、春キャベツ……おいしそう」
「結季さんも、みっちゃんが作ってくれたら、きっと喜んでくれるわ」
「そうかな」
「もちろんよ」
お母さんは、力強く言った。私は、へへっと笑った。
「そしたら、がんばって作るね。お母さんも、楽しみにしててね」
「ええ、楽しみにしてるわ。そうしたら、早速結季さんに予定を聞かないとね」
「うん」
私はうなずくと、ドアの外を見る。結季さんは、まだ来なそう。すると、お母さんは言う。
「楽しみと言えば」
私は、首をかたむける。お母さんは、優しい声で続ける。
「もうすぐ、みっちゃんのお誕生日ね」
「あ……」
「今年は祝日だから、ゆっくりできるわね。退院が間に合って、本当によかった。その日はお母さんが、おいしいものたくさん用意するからね」
お母さんは言って、私はぎゅっと、パーカーのえりをつかむ。
「大丈夫よ。お仕事なら、早めにもどれるように、お店の人とも話してるから」
すると、お母さんは聞いてないのにそう言った。そしてそっと、私の頭に手を乗せた。
「だから、心配しないで。楽しみにしててね」
私は、お母さんに寄りかかる。
「わかった。楽しみにしてる」
ドアの向こうに、車が止まった。お母さんと私は、また外に出る。
「お待たせしました。お荷物、トランクに入れますね」
結季さんが、明るい声で言う。そして私から荷物を受け取ると、よいしょと言って、トランクにしまった。それからバン、とトランクを閉める。
「お待たせしてすみません。どうぞお乗りくださ……」
結季さんはお母さんに、呼びかけようとする。だけど、お母さんはこっちに背中を向けて、一人で変な方向を見上げていた。
「ああ、すみません」
お母さんは振り返る。そして、見ていた方を指で差す。
「ちょっと、みとれちゃって」
なんだろう。私は顔を上げる。
そして、思わずつぶやく。
「ほんとだ。きれい……」
お母さんが見ていたのは、大きな木だった。病院の庭に立っている、大きな木。
そこに、白くてきれいな、大きな花が咲いていた。
まだ葉っぱも生えていない、ただの茶色の枝の先に、たくさんたくさん咲いていた。
「本当に、きれいですね」
結季さんも、そう言った。そして3人で、ただその花を見上げた。
空は晴れて、あたたかかった。カラスがにぎやかに、鳴いていた。優しい風が、ふわりと吹いてきて――
「へくしょーん!」
お母さんがまた、くしゃみをした。
私はお母さんを、横目で見る。
お母さんは鼻を押さえながら、カバンからポケットティッシュを出す。そして、じゅるじゅる言いながら鼻をかみ出した。
「きたなーい」
「しょうがないでしょー、生きてるんだから」
お母さんは言って、また鼻をかむ。それからティッシュのはじっこをねじると、そのままぐりぐり鼻につっこむ。そのティッシュを、ぐるんと丸めてカバンにしまう。いや、やっぱりきたないって。
たえきれなくなって、私は言う。
「ほら、もう行こう。いつまで結季さん待たせるのさ」
「あら本当。ごめんなさいね」
お母さんは言って、カバンを閉じる。そして車に向かって歩き出そうとして――
「へーくしょん!」
また盛大にくしゃみをした。
「もう、大丈夫ー?」
私は言って、お母さんは笑う。
「ね。大丈夫かしら、こんなので」
そしてこう、つぶやいた。
「これからは春が憂うつだわ」
大変お待たせいたしました。「椿」の物語は以上となります。
更新が遅くなったにもかかわらず、ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
これで『枝先の彼女』も休載箇所を残すのみとなりました。
更新までまたしばらくお待たせしてしまうかと存じますが、気長にお待ちいただけると幸いです。
今後の更新情報は、X及び活動報告にてお知らせいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
エンドマークはすべての物語が揃ってから打ちに来ます。また会いましょう。
ありがとうございました。
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本章の漢字表記につきましては、下記のサイトを参考にしながら、読みやすさや演出を考慮した表記といたしました。
「何年生の漢字?」
https://cococara.link/tools/kanji




