表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
枝先の彼女【一年かけて季節を一周する短編集】  作者: 笠原たすき
椿

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

38/38

椿( せ )

「みっちゃん、みっちゃん!」


 木曜日の放課後、おみまいに行くと、お母さんはいきなり言った。


「お母さん、もうすぐ退院できるかも!」


 私は、突然すぎて一瞬ぽかんと黙る。それから目を、大きく開く。


「……ほんと?」


 お母さんは、思い切り笑顔になって言う。


「うん! このまま調子が落ち着いてたら、週明けにも退院していいって! 今朝、先生が!」


 私は、お母さんの手を、両手でぎゅっとにぎる。そうしないと、そのままくずれ落ちてしまいそうだった。


「よ……よかったあ……」


 お母さんは、私の手をにぎりかえす。今日の手は、あったかい。


「本当に……長いことさみしい思いさせちゃってごめんね。みっちゃんにはたくさん、大変な思いをさせちゃって……」


 お母さんは、私の手を優しくなでながら言う。お母さんの目は、少し赤かった。


「もう、大丈夫だって。お母さんこそ、いちいち大げさだなあ」


 私は笑う。お母さんはせきばらいをすると、恥ずかしそうに笑った。


「あ、そうそう」


 それから思い出したようにお母さんは、ベッド横のたなの引き出しをあさる。


「これ、みっちゃんに」


 そして、小さな袋を差し出す。ひなあられだ。


「おとといのお昼に出たのよ。ひなまつりだったでしょう? みっちゃんにと思って」


「えーなに、わざわざ取っといてたのー? 食べればいいのに」


 私が言うと、お母さんは言う。


「だって、今年はお祝いしてあげられなかったんだもの」


「……別に、いいのに」


 言いながら、私はセーラー服のタイをぎゅっとつかむ。それからゆっくりと手を伸ばして、袋を受け取る。おひなさまとおだいりさまの、かわいい絵。


「ほら、見つかると怒られるから、さっさとカバンにしまっちゃいなさい」


 お母さんが言うと、私は、はあいと言って、足元に置いたリュックに袋をしまう。すると、ふと、向かいのベッドが目に入る。きれいに片づいていて、だれもいない。


「向かいのおばあさん、退院したの?」


 私は聞く。


「え? ああ……そうみたい」


 お母さんは答える。そしてまた、せきばらいをした。


「へえ、そうなんだ。同じ部屋で一気に2人も退院できるなんて、この部屋、なんだかラッキーだね」


「……そうね」


 お母さんは言って、またせきをする。


「ねえお母さん、さっきからせきしてるけど、大丈夫? やっぱりカゼ、ひいてるんじゃないの?」


「大丈夫。そんなんじゃないわよ」


「でも……」


「カゼなんて引いてるわけないじゃない。先生だって、退院していいって言ってくれたんだから」


「うん……」


「そうそう。退院するなら、荷物、ちょっとずつ持って帰らないと。当日一気に運ぶんじゃ、大変だものね」


 お母さんは、明るい声で言う。


「パジャマとか日用品は、ギリギリまで必要だけど……このセーターとかは、もう持って帰ってもらおうかな」


 そして、たなの横に引っかけたビニール袋を手に取る。私はそれを受け取る。


「いいの? お母さん、寒くない? 私、退院するとき、荷物全部持つよ?」


 私が聞くと、お母さんは答える。


「大丈夫よ。一日中寝てるだけだもの、寒くなんかないわ。それに」


 それから、遠くの方を見て、続けた。


「入院したときより、ずいぶんあったかくなったもの」


 私もつられて、顔を上げる。


「もう、春が近づいてるんだわ」


 お母さんは言った。その目は、なんだかぼんやりしていた。


 ◇


 残高の数字は、思ったほど減っていない。月末の支払いは、大丈夫だったみたい。


 私は久しぶりに、ATMの「お引出し」ボタンを押す。そして、出てきたきれいなお札を、ていねいにサイフにしまう。


 病院を出ると、外は意外と明るかった。


 坂の雪も小さくなって、歩道もだいぶ通りやすい。


 本当に、春が近づいてるんだ。


 私はなんだか、自然と笑顔になる。


 そういえば。私は思い出す。


 お母さんに会ったら、名前のことを聞こうと思っていたのに。すっかり忘れていた。


 でもいいや。私は思い直す。


 どうせ退院したら、毎日いっしょなんだ。聞くタイミングなんて、いくらでもある。


 ◇


 電車を降りて、スーパーに寄る。じっくり考えながら、商品をカゴに入れる。もやし、お麩、ツナ缶……それから、お米売り場の前で、立ち止まる。


 値段は、変わらない。でも、お母さんが、帰ってくる。


 しばらく考えて、カゴを持ち直す。ゆっくりと、たなに手を伸ばす。5キロは勇気が出ないけど、2キロだけ。


 そわそわしながら、レジに向かう。途中で、日用品売り場の、シャンプーの横のリンスが、目に入る。立ち止まって、つめかえ用の袋を、カゴに入れる。


 レジに並びながら、金額を計算する。大丈夫。すると、ふと前の人のカゴの中身が目に入る。


 少しだけ考えて、売り場にもどる。そして、納豆のパックを手に取って、またレジに並ぶ。


 店員さんがバーコードを読み取るのを、少しどきどきしながら待つ。金額を聞いて、ほっとして、下ろしたばかりのお金を出す。


 おつりをもらってカゴを持ち上げると、カゴはとっても重かった。


 カゴの中身をエコバッグに詰めて、リュックをしょった肩にかける。着替えの入ったカバンも反対の肩にかける。一瞬体が、ふらっとなる。


 今日でなくてもよかったのに、と、少し後悔する。


 だけど、エコバッグがこんなに重いのは、はじめてかもしれない。


 ◇


 アパートの階段を上ったところで、結季さんが部屋から出てきた。手には、ゴミ袋を持っている。


「あら水流ちゃん、おかえりなさい。今日はなんだか、大荷物ね」


 私は答える。


「お母さんが、帰ってくるんです」


 普通に答えようと思ったのに、口が変ににやけて、変な声になる。


「本当!?」


 すると今度は、結季さんが目を大きく見開く。私は慌ててつけ足す。


「まだ、決まったわけじゃないんです。でも、このままだったら週明けにも退院できるって」


 すると結季さんは、ものすごく笑顔になって、言ってくれた。


「そっかあ! よかったねえ、水流ちゃん!」


「……ありがとうございます」


 私はなんだか、恥ずかしくなって、少しうつむいて答える。


「じゃあ、退院の日にちは、これから決まるのかな?」


「はい。そうだと思います」


「そっかそっかあ。それにしてもよかったねえ」


 結季さんは言って、私は顔を上げる。すると、結季さんはハッとしたように言う。


「ごめんね、荷物多いのに、引き止めちゃって。お部屋もどって、ゆっくり休んでね」


 そして、結季さんは、階段を下りていく。私はその後ろ姿を、なんとなく見る。いつもと同じ、赤いストール。


 私はカギを取り出すと、部屋に入った。電気をつけて、荷物を置く。


 エコバッグの中身を、順番に出していく。もやしと納豆は冷蔵庫。お麩はたなに。ツナ缶は、フィルムを開けて1つだけ出しておいて、残りは流しの下に。リンスはいったん、冷蔵庫の上に。そして最後に、お米を出す。


 エコバッグを畳んで、キッチンばさみと、お米のカップを出す。炊飯器を開けて、中のお釜を取り出す。


 お米の袋を立てて、はさみで慎重に開ける。カップできっちり1.5合はかって、お釜に入れる。袋は輪ゴムでしばって、野菜室に。それからお釜を流しに置いて、ていねいにとぐ。


 とぎおわったら、流し台の上にお釜を置いて、のぞきこみながら水を調整する。捨て過ぎて、足す。足し過ぎて、また捨てる。最後にちょっとだけまた足して、炊飯器に。炊飯ボタンを押すと、ボタンが赤く光る。


 私は大きく、伸びをする。肩が少しつかれた。やっぱり荷物が、重かった。


 私は冷蔵庫の上のリンスを持って、お風呂場に向かう。そして、給湯器の電源を入れる。それから少しだけ、空のお風呂を見つめる。


 少しだけ、考える。そして思い切って――


 お風呂のせんを閉めて、じゃぐちを回す。


 ◇


 つやつやの頭から湯気を出しながら、お風呂を出る。ご飯は、もう炊けていた。


 炊飯器を開けると、炊飯器からも湯気が出る。私はごはんをていねいに混ぜると、きれいに4つにわける。そのうち3つを、それぞれラップに包む。残りをお茶わんによそう。お茶わんからも、湯気が上がる。私は急いで、お茶わんをテーブルに運ぶ。


 それから、納豆とツナ缶と、お水とおはしをテーブルに運ぶ。リュックから、スマホとひなあられを取り出す。


 そしてテーブルの前に正座して、両手を合わせる。


「いただきます」


 ほかほかのお茶わんを、持ち上げる。まずは白いご飯のまま、一口。ゆっくりかんで、かみしめる。じゅわっとなって、ほっぺたがじーんとなる。


 それから納豆のパックを開けて、タレを入れてかき混ぜる。それをご飯の上に盛る。お茶わんに口をつけて、かきこむ。納豆の香りで、口がいっぱいになる。正座してたのがいつの間にか、ひざ立ちになる。


 途中でツナ缶を開ける。パカっという、いい音がする。ツナ缶をほおばると、ご飯とは違うじゅわっが、舌の上に広がる。


 また納豆ご飯を食べようとして、私はふと思い出す。立ち上がって、キッチンの引き出しを開ける。そして、取っておいたのりの袋を出す。これもお母さんが、病院でくれたやつ。


 席に座って、のりの袋を開ける。2枚入りだ。


 私はのりを、納豆ご飯の上に乗せる。そして、おはしで納豆巻きを作る。


 ほおばると、のりは思ったほどパリパリじゃなかったけど、それでもいろんな味が、口の中に広がった。かみしめながら、ゆっくり飲み込む。


 食べ終わると、もう1枚ののりで、同じようにまた納豆巻きを作る。ご飯がもう残り少ないから、さっきよりも、少し小さい。それをもしゃもしゃと食べると、あっという間にお茶わんが空っぽになってしまう。ツナ缶だけが残る。


 私は少し考えて、また立ち上がる。そして、ラップに包んでおいたご飯を、ひとつ持ってくる。


 そして座って、やっぱりまた立ち上がる。冷蔵庫のポケットから、マヨネーズとしょうゆを取ってくる。


 今後こそ座ると、ラップのご飯を慎重にお茶わんに移し変えて、ツナ缶をご飯の上に乗せる。そこにマヨネーズと、しょうゆをちょっとだけかける。


「ん!」


 口に入れると、思った通りだった。最高の組み合わせ。私はお茶わんをかき混ぜて、ぐちゃぐちゃにしながら夢中で食べる。ときどきお茶わんについた納豆のにおいが混ざって、しまったと思ったけど、でも気にしない。最後の一粒まで、残さず食べる。デザートにひなあられも食べて、お腹いっぱい。


 私はふう、と息をつく。そしてスマホを手に取って、ショート動画を見始める。まだ月初だから、ギガも全然よゆう。壁にだらんと寄りかかって、流れてくる動画をどんどん見ていく。


 ◇

 

 気がつくと、体半分が冷たい。いつの間にか、床に転がっていた。私はのっそり、起き上がる。やってしまった。電気も、エアコンもつけっぱなし。


 体が痛かった。せっかく、お風呂に入ったのに。


 時間を確かめようと、スマホに手を伸ばす。すると、LINEの通知が来ていた。おばさんからだ。


「退院のこと、千里から聞いたわ。よかったわねえ」


 そんな文章で、メッセージは始まっていた。私は目をこすって、LINEの画面を開く。


「退院のこと、千里から聞いたわ。よかったわねえ。きっと神様がみっちゃんの日頃の行いを見て、願いを聞いてくれたんだわ。だってみっちゃん、あんなに、一生懸命がんばってたものね。あんなにしっかり、やっていたものね。あとちょっとよ。あとちょっとがんばれば、お母さん、元気で帰ってくるからね」


 私は、しばらく黙って、LINEの文章を見つめる。それから、テーブルの上を見上げる。


 納豆の糸とツナ缶の油が乾いてこびりついたお茶わんを見る。べたべたになったおはしと、おはしで汚れたテーブルを見る。テーブルの上にぽろぽろ散らかった、のりとひなあられのカスを見る。


 ジーッという音が、どこかから聞こえてくる。そういえばさっきから、ずっと鳴っている。


 私はハッとして、顔を上げる。炊飯器。


 かけよると、炊飯器は保温ランプがついたままだった。開けっぱなしのまま。洗ってないお釜が、入ったまま。触ろうとすると、お釜はあり得ないほど熱かった。


 私は保温ボタンを消す。そして、へなへなとその場にくずれ落ちる。


 ◇


「ごめんね、みっちゃん」


 金曜日、放課後。


 電話機から聞こえるお母さんの声は、静かで、暗かった。


「先生が、退院はもう少し待った方がいいって」


「そう」


 私は答える。


「本当にごめんね。昨日あんなこと言って、期待させたばっかりなのに」


「ううん。私はいいよ」


 私は言う。それから聞く。


「具合、よくないの?」


「うーん、よくないっていうか……やっぱりちょっと、カゼをひいちゃったみたいで……」


「……! だから言ったのに!」


 私はつい、声を上げる。それから、また聞く。


「……大丈夫なの? 肺炎とかになったら……」


 すると、お母さんは笑う。


「そんな、大げさなのじゃないわよ。熱も微熱だし」


「でも……気をつけて。無理しないで、あったかくして」


 そう言って、私は思い出す。


「そうだ……でもセーターとか、持って帰っちゃったんだ……。そしたら私、また持ってく」


「ああ、それがねえ」


 すると、お母さんは言う。


「面会も、カゼが治るまではやめなさいって」


「そんな……」


 私はショックで、それ以上言えなくなる。


「みっちゃんにだって、移すと大変だもの。みっちゃん今、一人なんだから」


「そんな。私はいいよ。じゃあ、服だけでも持ってく。会えなくても、看護師さんに渡すから」


「いいわよ。そんなことしなくったって」


「でも……」


「本当にいいの。実はね、セーター、あんまり着てなかったのよ。点滴のときとか、不便だから……」


 私は黙る。そして、お母さんが入院したばかりのころ、わけもわからずタンスから服を引っ張り出してきたことを思い出す。


「……下着とか、足りる?」


「大丈夫よ。どうせちょっとの間だもの。面会だって、すぐよくなって再開できるわよ」


 お母さんは、優しい声で言う。


「退院だって、カゼが治れば、すぐできるわよ……」


 そして、ゲホゲホと、せきをする。私はぎゅっと、パーカーのえりをつかむ。


「……面会が大丈夫になったら、すぐ知らせるから」


 お母さんはせきをおさえるようにしながら言う。私は答える。


「わかった。待ってるね」


 お母さんは少し黙ると、震える声で言う。


「……本当に、待たせてばっかりでごめんね。さみしい思いさせてごめんね」


「ううん」


 私は言った。


「私こそ、ごめんなさい」


 静かに、電話を切る。それからしばらく、その画面を見つめる。そして画面を消すと、私は机にうつ伏せになる。


 そのまま起き上がることもできずに、私はただ、机の上にうずくまった。


 どれくらい、したのか。


 雷みたいな音がして、ハッとする。また、眠っていたみたいだった。


 私は、顔を上げる。そして窓の外を見て固まる。


 雪が、降っていた。


 もうたくさん、積もっている。


 私はしばらく、ぼうぜんと、どんどん積もっていく雪を見た。


 また、雷みたいな音がした。


 雷じゃなくて、向かいの屋根の雪が、くずれる音だった。


 ドドドド、と音を立てて、雪は地面に落ちた。


 その上にまた、雪が積もっていく。


 私はカーテンも閉めずに、その様子を、ただ見る。


 春は、まだ。


 ◇


「水流ちゃん!? こんな早くから……」


 次の日、朝。


 結季さんが、びっくりして部屋から出てくる。私は、雪かきしていた手を止める。


「今日は、私がと思って」


 私はそれだけ言う。そして、また、雪かきにもどる。


「そんな……いいのよ、水流ちゃんは休んでて。私が……」


 結季さんの言葉を、私はさえぎる。


「いえ、私がやりますから。大丈夫です」


「でも……」


「いいんです」


 私は、首を振る。


「私、もっとちゃんとしないと」


「水流ちゃん……?」


 結季さんは、何か言おうとして、でも、口を閉じる。それから明るい声で言う。


「じゃあ、私、下の方やってるから、こっちは水流ちゃんにお任せしようかな」


 そしてこうつけ足す。


「何かあったら、声をかけてね」


 私はうなずく。


 それから私たちは、しばらく無言で、それぞれの場所を雪かきした。


 だんだん空が暗くなって、風が強くなってくる。


「水流ちゃん、こっちはもう終わったから、あとは私が……」


 結季さんが、私に言う。


「大丈夫です。あとちょっとなんで」


 私は、手を動かしながら答える。


「でも……」


「本当に、大丈夫です。私……」


 私が言うと、結季さんは私の肩に手を置く。


「わかったわ。じゃあ私、お部屋にもどって、あったかいお茶を入れてるから、終わったら飲みに……」


 でも、私は、また首を振る。


「そういうのも、いいんです。私、私……」


「水流ちゃん……」


 結季さんは、私の顔をのぞきこむ。何か、言いたそうな目。


 だから私は、言いたくなかったけど、口を開く。


「お母さんが、カゼをひいちゃったんです……。退院、できるはずだったのに……」


「水流ちゃん……」


「だから私、もっとちゃんとしないと。私がしっかりしないと。だってお母さんは、何も悪いことしてないのに……」


「水流ちゃん……」


 冷たい風が吹く。ボサボサの髪が、顔にささる。部屋のドアが、ガタガタ鳴る。


「……これも北風?」


 私は聞く。


 結季さんは言う。


「そうね。これも、北風ね」


 私は黙る。春一番が吹いたと言うニュースは、まだ聞かない。


「結季さん」


 私は聞く。


「もしこのまま、春分の日まで春一番が吹かなかったら、どうなるんですか」


 結季さんは、静かに答える。


「そうね。そうしたら、今年は、春一番は吹かなかったってことになるわね」


「そんな……」


 私は、言葉を失う。春分の日までは、あと2週間もない。今年はいつもより、1日早い。


「春一番にはいろいろ条件があるから、吹かない年もあるのよ。この地域じゃ、珍しいことじゃないわ」


 結季さんは言う。でも私は、黙ってうつむく。


 すると、結季さんは言った。


「……ねえ水流ちゃん、知ってる?」


 私は、顔を上げる。


「春一番って元々はね、漁師さんたちが、春は風が強くて危ないから、船を出すときは気をつけましょうっていう意味で言い出したものなのよ」


「……そうなんですか?」


 私は聞く。


「ええ。それが、ヒット曲の影響もあって、あるときから春の風物詩みたいにとらえられるようになったの」


「そうなんですね……」


「それが今では、気象庁が時期や風速の定義を決めて、毎年発表するようになって……」


 結季さんは優しく笑って、言った。


「おもしろいよね。怖がられていたものが、まったく逆の、プラスの意味を持つようになったり」


 そして、静かに続けた。


「漁師さんたちの言葉が、科学的に定義をされるようになったり」


 それから結季さんは、遠くの空を見上げて、こう言った。


「風はいつだって、ただ意味もなく吹いているだけなのにね」


 私はハッとして、目を見開く。


「意味を持たせるのは、いつも人間の方。私たちがただ、勝手に言っているだけなのよ」


 風がまた、ごおっと吹く。ただ吹く。


「……だから、心配しなくても大丈夫。春一番が吹かなくても春は来るし――」


 結季さんはまっすぐに、こっちを見る。


「どんなにだらしなくしていても、春は来るのよ」


 私はどきりとして、結季さんを見返す。優しい目。全部、わかってくれているみたいな。


 結季さんは、にっこり笑うと言う。


「それじゃあ、私、お茶入れてくるね」


 私は、うなずく。


「待ってるね」


 私はまた、うなずいた。


 そして、結季さんは部屋へもどっていった。私は一人で、その場に残る。


 風が、また吹く。私は、結季さんが言ってくれたことの意味を、考える。


 結季さんが言おうとしてくれたことを、考える。


 正直、結季さんの話は難しくて、全部は理解できなかった。


 でも、これだけはわかった。


 春は、必ず来る。


 絶対に、絶対に来る。


 何があっても。

更新が遅くなり、大変失礼いたしました。

次回更新日は、決まりしだいXおよび活動報告にてお知らせいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ