椿( も )
ユキさんの車は、おばさんの車とは違うにおいがした。
ウィンカーがゆっくりで、浮くみたいにすうっと進んだ。
「なんだか、ごめんね」
ユキさんは言って、私は運転席のユキさんを見る。
「無理言っておみまいについてきちゃって。よく考えたら、私、おじゃまだったかなって思って」
私は首を振る。
「とんでもないです。母もよろしくと言っていました」
お母さんは、ユキさんにおみまいに来てもらうのも、車を出してもらうのも、ダメだと言わなかった。
ただ、よくお礼を言うのよと言った。
「こっちこそ、すみません。本当に、車まで出してもらって……」
私が言うと、ユキさんは優しく笑う。
「気にしないで、ミルちゃん。私が言い出したことなんだもの」
でも、と言おうとして、私はやめた。
信号が赤になって、車は止まる。
「大丈夫? 寒くない?」
ユキさんは聞いて、私はうなずく。
「大丈夫です。それに、今日はちょっとあったかい」
「そうね」
ユキさんは、遠くの空を見上げて言う。
「今日から、3月だものね」
私も、空を見上げる。
空はなんだかぼうっとしていた。私まで、ぼうっとしてくる。少し眠い。
ユキさんは、ブラックコーヒーを一口飲む。そして言う。
「この間の雪も、早くとけちゃうといいね」
「そうですね」
私は答える。
信号は青になって、車は進む。
◇
病院の受付で、面会票をもらう。おみまいに来たときに書く、小さな紙。
入院患者のらんにお母さんの名前を書いて、面会者のらんに私の名前を書く。それから、ユキさんの名前を書こうとして、手が止まる。
「自分で書くよ」
ユキさんは言って、私はペンを渡す。そして、ユキさんがきれいな字で、ていねいに名前を書いていくのを見る。
「結季さん」
病室に向かいながら、話しかける。
「結季さんの字って、そういう風に書くんですね」
◇
「すみません、お忙しいところわざわざ来ていただいて」
病室に入ると、お母さんは結季さんに言う。電話のときみたいな、ていねいな声。
「とんでもないです」
結季さんも、大人っぽい声で返す。
「こちらは春休み中で、時間もあるものですから」
結季さんがそう続けて、お母さんがまた言う。
「本当にすみません。なんだか娘がずいぶんお世話になっているようで……。お食事まで、ごちそうになったとか」
「こちらこそ、大事なお嬢さんをつきあわせてすみません。こちらはずっと一人なものですから、お嬢さんのおかげで楽しくおなべが囲めました」
私は、どっちに合わせればいいのかわからなくて、お母さんが出してくれたジュースを、とりあえず飲む。
「春休み中、ご実家には帰られないんですか?」
お母さんは聞いて、結季さんは返す。
「こちらの方が、アルバイト先へ通いやすいものですから」
「そう。アルバイトは何をしてらっしゃるの?」
「じゅくの講師です」
結季さんは答えて、私は結季さんを見る。結季さんがじゅくの先生なのは、知らなかった。
「まあ、ご優秀なのね」
私は、結季さんに勉強がキライと言ってしまったことを思い出す。少し、恥ずかしくなる。
「とんでもないです。教えているのも小学生なので、内容も簡単なんです。相手が中学生以上でしたら、とてもじゃありませんがついていけませんでした」
だけど、結季さんはお母さんに、そう返した。
「今時は中学生も、ずいぶん難しいことを勉強していますから」
そして、そんな風に言ってくれた。
「そうなの? みっちゃん」
お母さんは、私に聞く。
「……まあ、そうかもね」
私は答える。結季さんの前でみっちゃんと呼ばれたのが、少しだけ恥ずかしかった。
ナースコールの音楽が、廊下から響く。ガラガラ、と点滴を引いて歩く音も聞こえてくる。
結季さんは、ポケットのスマホをのぞきこんで言う。
「うわさをすれば」
そして、お母さんの方を向いて、続ける。
「アルバイト先から、電話が来ていたみたいです。すみませんが、少し、失礼します」
「ええ、ごゆっくり」
お母さんはそう言って、結季さんは病室を出る。
「……結季さん、忙しかったのかな」
足音が聞こえなくなるのを待って、私は言う。
「気を遣ってくれたのよ。みっちゃんがお母さんと、2人きりで話せるように」
「……別に、いいのに」
私は言って、またジュースを飲む。
「本当に、いい子だわ」
お母さんは言って、私はうなずく。
「退院したら、きちんとお礼をしないとね。うちにも呼んで、何かごちそうしましょうか」
「そうしたら、今度は3人で、おなべしよう。お母さんのおなべも、おいしいもん」
「そう? ありがとね」
お母さんは、そう言って笑う。でも、少し悲しそう。
「あっ……そっか。もう3月だし、おなべじゃ変か」
私が言うと、お母さんは優しく言う。
「そんなことないわよ。まだ、寒い日もあるでしょうし。おなべなら、きっとまだまだおいしいわ」
「そっか、そうだよね」
私はホッとして言う。そして続ける。
「そしたらさ、何なべにしようか。豆乳なべも、カレーなべもおいしいし、ギョーザのおなべも、私好きだよ」
「そうねえ。でも、おごちそうするならちゃんと……へっくしょん!」
お母さんは突然、大きなくしゃみをする。私はあわてて立ち上がる。
へっくしょん、へっくしょん、とお母さんは続けてくしゃみをする。私はお母さんの背中に手を当てる。
「大丈夫!? お母さん!」
私が声を上げると、お母さんは言う。
「大丈夫よ。くしゃみくらいで、さわがないの」
「でも……カゼとかひいたら、大変なんでしょう?」
「どうせだれかがうわさしてるのよ。みっちゃんも、心配性なんだから」
そして、逆に私の手に、手を当てる。少し冷たい。
「カゼなんて、ひいてられないわ。早くよくなって、おうちに帰らなきゃいけないもの」
お母さんは、つぶやくみたいに言う。それから私を見て、にっこり笑う。
「だからそれまでに、何のおなべにするか、考えておいてね」
「……うん」
私も、つられるみたいに笑った。
◇
結季さんは、お母さんが渡そうとした「お車代」を受け取らなかった。
「本当に、お気遣いなさらないでください。お顔が見られて、私も安心しましたので」
結季さんが言うと、お母さんはふうとうを引っこめる。
「本当に、何から何まで、お世話になりまして……」
「いいんです。何かありましたら、いつでもお声がけください」
結季さんが言うと、お母さんは少し、考えるように黙る。それからていねいに、頭を下げる。
「何かあったら、よろしくお願いします」
それからお母さんは、私の方を向く。
「水流」
私はどきりとして、お母さんを見返す。
「……結季さんに、よくお礼を言うのよ」
私は、うなずく。
◇
「……そっか」
運転しながら、結季さんは口を開く。
「あのとき私、カタカナで名前を書いたんだね」
言われて私は、お母さんが入院した日のことを思い出す。結季さんがくれた、メモのことも。
「あの日は、本当に大変だったものね」
結季さんは言って、私は静かにうなずく。
「……お隣だけど、名前の字を見る機会って、全然なかったものね。お母さんの下の名前も、実は今日はじめて知ったんだ」
結季さんは、明るい声で続けた。そして言う。
「水流ちゃんの、名前の字も」
私は、コートの胸の辺りを、ぎゅっとつかむ。
「変な字でしょ。読みも変だし」
「そんなことないわ。私は好き」
「でも、私はキライ」
私は即答する。
「小さいころからずっと、からかわれたり、読み間違えられたりして……もっと普通の名前がよかったです。なんでこんな名前にしたんだろ」
私が言うと、結季さんは黙る。それから言う。
「でも、きっと理由があって、その名前をつけたんでしょう?」
「どうなんでしょう。適当につけただけじゃないかな」
結季さんは、意外そうに聞く。
「名前の理由、聞いたことないの?」
「ないです。昔、一度だけ聞いてみたんですけど、答えてくれなくて……」
「そう……」
「だからきっと、理由なんてないんですよ」
私は言う。自分でもびっくりするくらい、情けない声。
しばらく無言で、車は進む。私は、結季さんの方を見る。
「結季さんの名前は、何か理由があるんですか?」
「……ええ。あるわ」
結季さんは、答える。
「どんな、意味なんですか?」
信号が赤になって、車は止まる。結季さんは、ゆっくりと話しはじめた。
「私、2月4日の――立春の日に生まれたんだけどね」
私はおどろいて、目を開く。
「その日は、夜明け前からずっと雪が降っていたんだって。病室の窓から見える雪が、不思議なくらいにきれいだったんだって」
私は、その様子を想像する。少し寒くて、ちょっと神秘的。
「だけどね、お昼過ぎに私が生まれて、お母さんが私を抱いてから――」
結季さんは続ける。少し声が震えてる。
「うそみたいに雪が止んで、空が晴れて――あたたかい日差しに包まれたんだって。まるで世界が、一気に春になったみたいに」
私は、その様子を、想像した。あたたかくて、やっぱり、神秘的だった。
「まるで私が、冬から春へと、季節を結びあわせたみたいに」
結季さんは、息をすうっと吸い込むと、言った。
「だから、結季」
私は少し、ぞわりとする。
「読みは、降る雪から。字は、『季節を結ぶ』の意味から」
私はしばらく、しゃべれなかった。結季さんも、何も言わなかった。
信号が青になって、車は進む。
「……すごいです」
私は、口を開く。
「ちゃんと、すごく意味があって……。やっぱり私にはないです。そんな、ちゃんとした意味……」
「そんなことないよ」
結季さんは言う。
「水流ちゃんの名前にも、きっと意味があるはずよ。読みにも、それから、字にも」
私はまた、コートをつかむ。
「理由を知ったら、自分の名前、好きになれますか?」
結季さんは、優しく言う。
「きっと、なれるよ」
私は聞く。
「結季さんは、自分の名前、好きですか」
すると、結季さんは突然、考えこむように黙ってしまった。
交差点の信号が、黄色になる。結季さんは、ゆっくりと車を止めた。
「……ごめん」
結季さんは言った。
「私も、自分の名前、キライだった」
私はコートを、ぎゅっとつかむ。
「どうして……。だってそんなに、すごい意味があるのに……」
私が聞くと、結季さんは答える。
「理由があるのは、すごくうれしかった。でも、だからこそ、自分だけの名前であってほしかったの。この名前はね」
そして、悲しそうに笑って言う。
「妹と、おそろいの名前なの」
私は、少し黙る。それから聞く。
「妹って……美容師さん、の見習いの?」
「ええ」
結季さんは、うなずく。
「二人姉妹なの。その妹と、同じ字が入っていて……」
「同じ字が入っているの、イヤだったんですか?」
私は、思わず聞いた。
「そうね。字がイヤっていうより――私はもともと、妹とそんなに仲がよくなかったから」
「そんな、どうして……」
私が聞くと、結季さんは迷うみたいに黙る。交差点を横切っていく車を、じっと見る。
そして結季さんは、口を開く。
「妹とは、正反対だから」
私は、結季さんを見る。結季さんは、続けた。
「私は、昔から大人しいタイプだったんだけど、妹は真逆なの。明るくて、積極的で、でもいい加減で、ちゃらちゃらして……」
「そんな……」
私はつぶやく。結季さんと正反対な妹というのが、想像ができなかった。
「本当にそうなの。妹は自由で、好き勝手なことをしてばかりで、親にも甘やかされて……私はそんな妹のことを、けいべつしたり、でもどこか、うらやましくも思ってた」
結季さんはまた、悲しそうに笑った。
「……だからかな」
私は、何も返せなかった。はじめて聞く、結季さんのそういう話。
結季さんは続ける。
「だからごめんね。さっきは、適当なことを言っちゃったけど、理由を知っても、好きになれるかはわからない。ううん、それどころか、理由を知って、かえってイヤだって思うかもしれない。知りたくなかったって、思うかもしれない」
私は、うつむく。
「だから水流ちゃん、今はまだ、無理に知ろうとしなくても――」
「でもっ」
だけどやっぱり、顔を上げる。
「でも、結季さんは、今はもう、イヤじゃないんですか」
結季さんは、私を見る。そして優しく言う。
「そうね。今はもう、イヤではないかな」
「どうして、ですか?」
私は聞く。
「そうね。どうしてかな」
結季さんは、考えるように言う。なんだかちょっと、楽しそうな声。
「理由はいろいろあるけど、やっぱりいちばんは――」
結季さんは、遠くの空を見て言った。
「正反対の妹がいてよかったって、思えるようになったからかな」
私は、目を大きく開く。
「……私はずっと大人しくて、何をするにも慎重になりがちだった。だけど、自由で積極的な妹を見ていたらだんだん、私ももっと、好きに生きていいのかもって思えるようになったんだ。新しい場所へも、怖がらずに一歩踏み出してみようって。もちろんね」
結季さんはそこまで言うと、こっちを向く。
「妹の全部を、受け入れられたわけじゃない。価値観が違うなって思うこともある」
私はどきりとする。
「だけど、価値観が違うってことは、自分にないものを持ってるってことなの。そんな正反対の妹がいてくれて、よかったと思ってるの。だからこの先、遠く離れても――」
結季さんはそこまで言うと、ふと黙る。そしてまた、続ける。
「……例えば今より、もっと離れて暮らすようになって、今みたいに簡単には会えなくなったとしても、この名前を見れば思い出せるかなって。新しい一歩を踏み出す勇気が、もらえるかなって思ったんだ」
「わ、私……っ」
私は思わず、身を乗り出す。
「私、やっぱり、聞いてみようと思います。名前の理由……。もしかしたら、結季さんの言うように、知りたくなかったって思うこともあるかもしれないけど……それでもやっぱり、聞いてみたいって思ったから」
結季さんは、少しびっくりしたみたいに私を見る。それからにっこり、優しく笑った。
私も、つられて笑う。
今度来たら、お母さんに聞いてみよう。遠くの空を見ながら、私は思った。
今ならきっと、答えてくれると思うから。
信号が青になる。
車は、交差点を抜けた。
◇
アパートが近づく。
「やっぱり、夕方は冷えるね」
結季さんは言う。
「私はこのまま、車を実家に返しに行くけれど、水流ちゃん、あったかくして、カゼに気をつけてね」
私は、はいと答える。確かに、いつの間にか寒い。
「インフルエンザも、まだはやってるみたいだから」
「そうなんですね」
結季さんは言って、私は返す。
「ええ。水流ちゃんのところは、学級閉鎖とかはない?」
私は、首を振る。
「特に、ないです」
「そっか。ならよかった」
結季さんは言った。
アパートの前で、車は止まる。私はお母さんの言う通り、よくお礼を言って車を降りた。車はゆっくりと、走って行く。
空は少し、暗くなっていた。外はもっと寒い。顔が一気に、冷たくなる。
でも、この感じだと、おなべはまだまだおいしそう。結季さんを呼んだら何なべにするか、考えておかないと。
そんなことを思いながら、私はアパートの階段を上がった。
更新が遅くなり、大変失礼いたしました。
次回更新日は、決まりしだいXおよび活動報告にてお知らせいたします。




