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お手柔らかに 2

 ネイサンよりも先に、自分の立場に気づいたのは、キャサリンだった。

 瞬間、どっと冷や汗が、体を伝い落ちていく。

 空気が急に薄くなったみたいに、息が苦しい。

 実際に、キャサリンの周囲の空気は薄くなっていたのだが、それはともかく。

 

(彼女が、ローエルハイドと関わりがあるなんて聞いてないわよ!)

 

 心の中では、金切り声を上げている。

 声が出せるのなら、大声でネイサンに怒鳴り散らしていたかもしれない。

 が、喉がぺったりと張り付いたように、声が出せなかった。

 息をするのも苦しいくらいなのだ。

 声が出せるのなら、その前に大きく息を吸い込んでいただろう。

 

 キャサリンは、内心で、恐慌に陥っている。

 それでも、愚かなネイサンを睨みつけていた。

 ネイサンは己のことに精一杯なのか、彼女の視線には気づいていない。

 国王、ローエルハイド、オリヴァージュ殿下、それに宰相といった面々に囲まれ、ひたすらオロオロしている。

 

 怯えが、すっかり表情に表れていた。

 冷や汗を拭うのも忘れているようだ。

 前髪が汗で額に張り付いている。

 

 いつもの、洒落て気取った姿は、どこにもない。

 (へつら)うような笑みすら浮かべていて、侮蔑をいだかずにはいられなかった。

 いっときであれ、あんな男に身を任せていたことを恥じる。

 しかも、ネイサンとの仲は、周囲に知られてもいるのだ。

 羞恥と屈辱に、キャサリンは、激昂している。

 

 ネイサンを絞め殺してやりたいほどに。

 

 きっとネイサンは「当主」にはなれない。

 こんな醜態を(さら)したのだ。

 アドルーリット公爵家は、大いに面目を失っている。

 あの見栄っ張りなスチュアート・アドルーリットが、大失態をおかした息子を、当主に据えるなどありえなかった。

 アドルーリット公爵家には、ほかに跡継ぎとなれる子息がいるのだし。

 

 ネイサンは屋敷から追い出されるかもしれない。

 今までネイサンに好意を持っていた女性たちも、手のひらを返すだろう。

 が、そんなことは、キャサリンにとっても同じだ。

 今後、ネイサンとつきあう気なんて微塵もない。

 つきあいがあった過去も、なかったことにするつもりでいる。

 

 こんな状況では、誰しもがネイサンの名を口にすることすら(はばか)るはずだ。

 噂好きの貴族令嬢たちも、言い振れ回ったりはしない。

 話すだけで、呪われそうな、そんな恐怖がある。

 原因は、明白だった。

 

 黒髪、黒眼の男性。

 ジョザイア・ローエルハイド。

 

 現ローエルハイド公爵家の当主だ。

 交際範囲の広いラウズワース公爵令嬢のキャサリンでさえ、初めて見る。

 王都に屋敷はあるのだが、気軽に訪ねられる相手ではなかった。

 貴族として、一応、当主が変わったとか、子が産まれたとかという情報は、耳にしている。

 とはいえ、実在しているのを忘れそうになるほど、微々たるものに過ぎない。

 

 名は知られているが、存在感は希薄。

 

 常日頃、ローエルハイドとは、そんなふうだった。

 キャサリン自身、こうして目にするまでは、ローエルハイドのことなど気にしたこともなかったのだ。

 貴族として「数」にいれていなかった、といってもいい。

 

 黒い髪と瞳以外、見た目は、整っている。

 今年で48歳になった国王の幼馴染みならば、ジョザイアも同じ歳なのだろう。

 が、国王もジョザイアも、歳より若々しく見える。

 その外見に見惚(みと)れている貴族令嬢もいた。

 声をかけてみたいのか、そわそわと落ち着かなげにしている。

 

(馬鹿ね。彼はローエルハイドなのよ?)

 

 相手にされるはずがない。

 ジョザイアは穏やかそうに見えるし、陽気に振る舞ってもいる。

 オリヴァージュの皮肉ばかりな()(よう)とは違い、笑いを誘う話ぶりだった。

 人好きのする印象があるのは、否定できない。

 

 だとしても、ローエルハイドは危険だと、キャサリンは感じている。

 息苦しさの原因は、彼しかいないからだ。

 ひとつの失敗が命取りになる。

 キャサリンは、無邪気な令嬢ではない。

 魅力的なのは間違いないとしても、近づく気はなかった。

 じっと身を潜め、うっかりジョザイアの視界に入らないよう注意している。

 

 同じように、貴族たちは、誰も動かない。

 上位の者から挨拶をしに行くのが慣習ではある。

 けれど、礼に則っているようには見えなかった。

 ネイサンを囲んでいる彼らの元に、王族の者たちだけが集まっていた。

 軽く挨拶を交わし、いくぶんか会話をしたあと、戻っていく。

 

 王族は、貴族とは違うのだ。

 

 キャサリンは、それを痛感している。

 王族の中の誰も、恐怖に顔を歪ませている者はいなかった。

 国王やジョザイアと笑い合ったりしている。

 

 間に挟まれているネイサンは、滑稽な道化師。

 

 泣き笑いのような顔をして、ただ相槌を打っていた。

 ネイサンにとっては、悲劇だろう。

 晴れた日にピクニックに出かけたら、思いもよらぬ大嵐に見舞われたのだから。

 

(びしょ濡れのネズミより、みっともないわね)

 

 キャサリンは、心の中で、冷たくネイサンを突き放す。

 そして、自分が同じ立場に引きずり込まれないための手立てを考えていた。

 正妻候補など、もう無意味だ。

 ほかの候補2人も、降りる算段をしているに違いない。

 

 キャサリンは、どれほどネイサンに懇願されようと(ひざまず)かれようと、もう妻になる気はなかった。

 むしろ、近寄られたくもないと、思っている。

 だいたいアドルーリット公爵家が、この先、落ちぶれていくのは目に見えているのだ。

 ネイサン以外に跡を継がせたとしても、この失態は、到底、挽回できない。

 

 そんな家に嫁ぐ利が、どこにあるだろうか。

 

 ネイサンとの関係は、あくまでも利にあった。

 貴族令嬢にとって、婚姻は、政略的な意味合いが強い。

 だからこそ、利益なしに身を投じたりはしないのだ。

 己を、より「高値」で売り込むことを重視している。

 

(こんなことになるなんて、いい迷惑だわ。本当に愚かな男)

 

 ネイサンには、つきまとわれないようにしなければならない。

 体の関係があったことで、ネイサンが(すが)りついてくる可能性があった。

 ベッドをともにしていた女性が大勢いたのは知っている。

 それを口実に、追いはらってしまおうと思った。

 

 キャサリンは、とても虚栄心が強い。

 自分のことしか考えてもいなかった。

 そのせいで、すっかり忘れている。

 

 彼女が出した指示も。

 それを実行しようとしているナンシーのことも。


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