夢恋路 ~明治編~13
【おリョウ】
小五郎と二人、時折香る甘いバラの香りに包まれながら外国と日本について話していた。
彦太郎の事は本当はもっと気にかけてあげたいんだけど、もはやどこをほっつき歩いているのか把握できず、小五郎はしょっちゅうハルちゃんから手紙で怒られている。
一度は長州に帰って説明もしていたけれど・・・まぁ、仕方ないよね、アメリカだもん。
自由の国だもん。
たぶん彦は裏のダークなアメリカの姿をきっと見ていない・・・だから、余計にアメリカでの生活が楽しかったんだろう。きっとまたすぐアメリカに帰れるって思っていたんでしょうね。
あの子は来原さんに近い子だから、そりゃもう楽しかったでしょう。
晋作が生きていたらきっと同じ事になっていたでしょうね。
そんな話をして笑っていたら遠くから可愛らしい足音が聞こえてきた。
「母さま見てください!できました!」
半紙を持って走ってくる忠太郎の後ろから正二郎が苦笑しながら歩いてくる。
忠太郎はそのまま私に飛び込んで紙を見せてきた。
ばっと手を伸ばして私と小五郎の前につき出された紙に・・・私と小五郎は思わず固まる。
えーっと・・・
これは・・・
何か、文字、だよね・・・?
「なんて書いてあるの・・・かな?」
出来るだけ笑わない様に、優しく声をかけているつもりだけど・・・正二郎が笑っちゃってる。
「ちゅうたろうです!」
あぁ、自分の名前ね。
「お兄ちゃんに教わったの?」
「はい!書きました!」
「すごいわね。」
実際問題半紙はほぼ真っ黒で、何が何やらわからない状態ではあるんだけど・・・
「まぁ、芸術と言われたら、芸術ね・・・」
私のこの言葉に小五郎と正二郎が大笑いした。
忠太郎はもちろん意味がわかっておらず、書き切って私に見せたことで満足している様だった。
もうさぁ、君、6歳だよ・・・?
もうちょっと頑張ろうよ・・・
「これは、正二郎より大変だわ。」
「えっ!?僕ここまでじゃないですよ!」
「お前も結構酷かったぞ?ねぇ松さん。」
「えぇ、苦労したわね。」
「えぇ!?そうでしたか!?」
「子供の成長とは早いものねぇ、ねぇお父さん。」
「そうだね。」
幸せだと思ってた。
ごく普通の家族の日常がここにはあって、私が一番望んでいた家族の形だった。
誰一人とも血はつながっていないけれど、それでも私にとってこの家族は掛け替えのない大切な家族だった。
愛する人と愛する子供たちがいる、それ以外、何もいらなかった。
【桂小五郎】
年の瀬にみんなでお酒を飲んでいた。
場所はいつも通り我が家で・・・なんでみんなうちが好きなんだろう?何かとすぐに木戸さんの家でって言うんだよね。で、今回は比較的若い人たちが多くって、で、その中には薩摩の黒田さんもいた。
黒田さんは、昔々僕を呼びに長州に送られてきた人で、軍事に長けていてどちらかというと僕と考えは近い人なんだけど・・・なんせ、素行および酒癖が悪くて有名で、酒癖に関してはもはや酒乱で・・・
本当なら一緒に飲みたいような人じゃない。
しかも、よりによってうちでなんて・・・
その場にいるみんなが黒田さんの酒癖を知っているから探り探りの酒の席になったわけで・・・それでも楽しく笑いながら飲んでいたら、はじまりました・・・黒田さんが大声を上げ始めたよ。
「そもそも木戸殿は積極性に欠けるのだ!」
えぇぇ!?
いきなり僕に当たるの!?
「まぁまぁ、黒田さん、年の瀬なんだしそういう話は議会の席で・・・」
「落ち着いて下さい、」
周囲が声をかける中、どんどんお酒に飲まれて行く黒田さん
「我が薩摩の大久保は」
いやいやいや・・・そういう話は、ね、ここじゃなくっても・・・
僕、辞職してるし・・・
黒田さん、武勇伝がいっぱい過ぎて怖いし・・・
周囲が宥める中、黒田さんはどんどん上り調子で・・・
これは、このままではちょっと事件が起きる予感がした。
子供たちも起きちゃうよ。
「黒田さん、少し飲みすぎですよ?駕籠を呼びましょうか。」
僕がそう声をかけた時、とうとう事件は起こってしまった。
黒田さんがいきなり立ち上がって、僕に殴りかかって来た!!
周囲は騒然、僕もすんでの所でかわしたけれど、それでも黒田さんは僕を追ってくる!
ちょ!ちょっと待ってって!!!
襲いかかってくる黒田さんを一度蹴り払って体勢を立て直して、飛ばされた黒田さんがいろんな物をひっくり返して宴の間はぐちゃぐちゃで
「どないしはりました?」
外から姉さんの声がした。
「松さん!入って来ないでください!」
ここに姉さんが入ってきたら姉さんが危ない!
背後に気を向けた瞬間、黒田さんが僕の肩を掴んで・・・
ガリッ!!!
!!!!!!いったぁぁぁぁぁい!!!!!!
耳咬まれたぁ!!!
いったい何事ですかぁ!!!!
僕は反射的に黒田さんを抱えてめいっぱい投げ飛ばした。
黒田さんは僕に投げ飛ばされて壁に思いっきり背をぶつける。
もう許さない!
何だこいつ!!!
ここまでひどいの!?
僕はふすまを開けて布団を出して
「松さん!縄を持ってきてください!!!」
そう叫んでから黒田さんを捕まえて布団で巻いた。
「失礼します、旦那さま、縄どす。」
姉さんは何ともないと言わんばかりの表情で僕に縄を手渡した。
「駕籠を呼んでください!家に帰します!!」
そんな姉さんに僕は叫ぶ。
「かしこまりました。」
姉さんはやっぱり何事もないかのようにすたすた去っていく。
僕は黒田さんを布団ごと縄で縛って担いだ。
黒田さんはもともと泥酔状態だったもんだから僕に投げ飛ばされて意識朦朧としている、もう抵抗は一切しない。
ってか、耳がすごく痛いんだけど!
こんなお酒の飲み方してたら姉さんに怒られるよ!?
玄関に着くとちょうど駕籠が来ていて、僕は黒田さんを籠の中に放り込んだ。
男たちには金を渡し黒田さんの家を説明しそのまま運んでもらった。
何なの一体!?
「いや~派手な人ねぇ。」
姉さんが呆れている。
「耳、ちぎれてない・・・?」
「何とか形はとどめてるわよ、血は滲んでるけど。」
「すっごい痛いんだけど・・・」
「軟骨の部分は痛いわよね・・・」
姉さんは手ぬぐいを絞って渡してくれた。
「とんだ年の瀬ねぇ。」
そう言って姉さんは笑う、本当だよ・・・
「さぁ、早く部屋に戻って。他の方々が驚いているはずだから。もうお酒はいらないでしょ?お茶を持って行くわ。」
「ありがとう、お願いします。」
こんな時、身体が大きいってのは本当に得だ、柔術も習っていてよかったよ・・・黒田さんもそこそこ大きい方だけど、僕の方が体は大きいからね。
そもそも柔剣技で僕が人に負けるわけはないんだけどさ・・・
部屋に戻るとみんな完全に酔いがさめた顔をしていた・・・まぁ、そうだよね。
「お酒の入った黒田さんには困ったものですね。」
僕は苦笑してしまう。
そして、その後しばらく過去の黒田さんの武勇伝を話をしていたら誰かが笑いながらこう言った。
「しかし、木戸さんの奥方はずいぶんと肝がいいですな・・・あの状況で当然のように縄を持ってくるなんてなぁ。」
「あぁ、自分も驚いた。うちのだったら大騒ぎだ。」
まぁ、ね。
いろんな意味で経験豊富ですから・・・
「失礼いたします。」
言ってるそばから姉さんはお茶ときれいに盛りつけられた漬物と茶菓子を持ってきた 。
「なんやずいぶんと楽しそうな年の瀬です事、うちも混ぜてほしかったわぁ。」
この姉さんの言葉に一同苦笑。
姉さんの冗談は慣れてないと刺激が強いんだよね・・・
それからすぐにその場はお開きとなった。
今日のこの話はあっという間に議会の中に広がったらしく、何かの拍子に素行の悪い黒田さんが表に出始めると誰とも言わず「ほれ、木戸さんがいるぞ!」と言うようになったらしい。言われると黒田さんは急におとなしくなるんだそうで、おかげで黒田さんの素行が良くなったとみんなに言われるんだけど・・・
僕が受けた代償は結構大きかったんですけど。
傷跡、残っちゃったんだから・・・
【おリョウ】
年が明けてから小五郎の元には重鎮と呼ばれるこの明治の世の中心人物たちがひっきりなしにやって来るようになった。大久保利通、伊藤君、井上君、そして黒田さん。
大久保利通と伊藤君に関しては、お前らはここに住んでいるのかと聞きたくなるぐらい毎日のように我がやの中を歩いている。
伊藤君はいつも通りフレンドリーで、子供達にも挨拶をしてくれて言葉をかけてくれる。
で、何故か女中の子によく声をかけているんだけど・・・そんな感じなの?伊藤君って。
海外生活のせいだと、思っておこうかね・・・
大久保利通はいつも通り、私を見てももはや素通り。
何でしょう、この、大久保利通に対するイライラは・・・いるだけでイライラする。
また小五郎を持って行かれるんじゃないかと思うと本当にイライラする。
でも、小五郎はもう議会には戻らないと、私や子供たちに誓った。
この屋敷から出る事もなく、政治には参加しないと。
私は、再びこの男を信じるって決めたのだから。
しかし、そんな小五郎から言い出された言葉は、私を大きく裏切る形となった。
「議会に、戻ろうと思います。」
私は黙って立ち上がり、小五郎に背を向けた。
もう何も話す言葉なんてなくて、部屋を出ようと、思って。
すると小五郎は、大きな声で意を訴え始めた。
「今地方議会を開かねばこの国は乱れ潰れます!各地で起こる士族の反乱を鎮圧しなければ再び戦の世が起こります!西郷さんの理解が得られない今、薩摩で士族の反乱が起きてしまえばきっと犠牲者も想像の範囲を逸脱します!この先の世では必ずや廃刀令が施行されます!そうなれば士族の不満はさらに膨らみ間違いなく西郷さんが挙兵します!今自分が行かなければならないんです!」
私の背に、頭を下げている事はわかった。
でも、私は振り返らなかった。
「お願いします!行かせてください!!」
わかっていたはずだ・・・
こうなる事は、想像できたはずだ・・・
一年間、よく耐えた方だったと誉めてやるべきなのかもしれない・・・
でも、裏切られた事には、変わりない。
この男は私より、大久保利通を選んだ。
家族より、国を選んだんだ。
「・・・国政でもなんでも行ったらよろし、うちは構いやしまへん。どうぞ、お好きになさいまし。」
わかっていた・・・
わかっていたはずなのに、捨てられたことが、認められなかった。
「うちが愛しとったんは桂小五郎言う男や、木戸孝允言う男やおまへん。桂様はもうきっとこの世にはおらへんねや・・・うちは、木戸孝允言う男の事は、嫌いや。」
私は、部屋を出た。
廊下を歩いて部屋に向かう際中、トドメを刺すかのように大久保利通が正面から歩いてきた。私は思わず立ち止まって、大久保利通の行く手を塞いだ。
「急いでいる、どいてもらいたい。」
私はめいっぱい、この男の顔を睨んだ。
「聞こえなかったのか。どいてもらいたい。」
「あんたの事が、この世で一番嫌い。」
私が放った言葉に、大久保利通は表情一つ変える事はなかった。
「結構、どいてもらおう。」
大久保利通は私を押しのけてそのまま小五郎の部屋へと入って行った。
私は部屋で一人、泣いた。
なぜこんな男の為に泣いているのかさえ分からず、でも、殊の外裏切られたショックが大きかったと見えて、悔しかったんだと思う。そんな私の様子に気が付いたのは、やっぱり子供達で、何かを感じたのか正二郎が忠太郎の手を引いて私の部屋に入って来た、
「母様、どうかなさったのですか・・・」
背後からした正二郎の声に驚いて、私は袖で涙をぬぐって振り向く。
「あら、何でもないわ。」
幼い忠太郎はすぐに私の所へと走って来た。
「父様、大久保様と出ていかれましたが・・・また、お仕事ですか?」
そう、もう出て行ったのか・・・
「えぇ、そうね。お忙しい方だから。」
「母さまぁ、ちゅうたろーはおなかがすきました。」
「あら、じゃぁ何か食べようか!これから先、当分お家は静かでしょうから縁側にでも行きましょう?」
「はい!」
ニコニコとする忠太郎の頭を撫でて、私は立ち上がった。
「母様、父様は帰っては来ないのですか・・・?」
「えぇ、たぶん。しばらくは帰って来ないでしょう。正二郎、お家の事、お願いね。」
「わかりました・・・」
正二郎は、複雑そうにそう答えた。
小五郎は家を避ける様に帰っては来なかった。
それに伴って、あんなに居ついていた大久保利通も伊藤君も来なくなって、我が家は驚くほどに静かになった。
たまに小五郎の使いと言う男の人がやっては来るけれど、小五郎は帰っては来ない。
帰って来たとしても、私はどうしたらいいのかわからない。
泣くかもしれない。
使いの男の子から、小五郎は染井の別邸で暮らしていると言う事を聞かされた。
完全に別居ね、笑っちゃう。
ここまで避けられたことは一度もなかった。
あそこで私が笑顔で送り出していたら、こうはならなかったのかしら・・・いや、なってた。
あの時は笑顔で送り出したとしても、その後必ず、こうなっていた。
だったら、早かろうが遅かろうが、構いはしないわ。
【正二郎】
あんなに仲が良かった父様と母様だったのに、父様は家を出て行った。
僕には何があったのかは全く分からないけれど、たくさんの男の人達に父様は連れて行かれて、それから帰っては来なかった。
母様は、僕達を気遣って、いつも笑っていて、いつも通りではあるけれど、お一人の時に泣いているのを何度も見た。
僕が、頑張んなきゃって、しっかりしなきゃって、そう思った。
帰って来ない父様は近くの別邸にいるそうで、それでも家には帰って来なくって、使いの人達が時折来ては着替えやら書物やらを取って行った。
そしてその男たちは僕を見ると必ず「父の様に立派になる様に」と言った。
そんな男達が来るたびに父様の痕跡が、この家から少しずつ消えて行った。
母様は幼い忠太郎をいつも連れて、いろいろな事を忠太郎に話している。
幼い頃、僕にしてくれたように、忠太郎をかわいがり、そして僕の事も変わらず愛してくれた。
常に愚痴っぽくってネガティブな父様に対し、常に明るくポジティブな母様。
そんな母様が一人泣く姿は、本当に本当に、見たくなかった・・・
【桂小五郎】
姉さんの背は、冷たかった。
もう、今この場で、僕達の関係は終わったんだと・・・その背中は言っていた。
「・・・国政でもなんでも行ったらよろし、うちは構いやしまへん。どうぞ、お好きになさいまし。うちが愛しとったんは桂小五郎言う男や、木戸孝允言う男やおまへん。桂様はもうきっとこの世にはおらへんねや・・・うちは、木戸孝允言う男の事は、嫌いや。」
この言葉は、重かった。
僕はもう、桂小五郎ではないんだ。
もう、昔には戻れないんだ。
だったら!
だったら、僕は木戸孝允として邁進するしかなかった。
行き着くところまで、行くしかないんだ。
およそ一年ぶりに国政に戻った僕を待ち受けていたのは寝る間もないほどの忙しさと、食欲を失うほどの心労だった。
染井の別邸に使用人を置いて、そこで書生の子や多くの人達と朝から晩まで過ごしていた。
「木戸さん、また頭痛ですか・・・?」
「あぁ、ここの所ちょっと酷くて・・・」
家を出て国政に戻ってからの僕は以前とは比べ物にならない様な痛みを伴う頭痛に悩まされていた。
姉さんや子供たちといた時はそんな事はなかったのに、お酒のせいなのかな・・・
時折、左足がしびれるような感覚も伴うその頭痛は酷い時には夜も眠れないほどだった。
「大丈夫ですか、お医者様に診てもらった方が・・・」
「そうだね、議会が少し落ち着いたら診てもらおうかな。」
家に帰ったら・・・治るのかな・・・
姉さんの作る食事を食べていれば、治るのかな・・・
あれから一度も家に帰らないまま秋が終わろうとしていた。
その後もずっと各地を飛び回り、板垣さんの説得をし国政に復帰させて、地方へ行っては帰ると言う長距離移動を強いられていた年末に、とうとう僕の体は壊れた。
その日も議会で、僕は伊藤君達と廊下を歩いている最中だった。
本当に何の前触れもなく突然、何かに頭を殴られたような痛みとめまいが起きて、僕の体はそのまま前に倒れた。
伊藤君達が大きな声で僕の事を呼んでいるけれど・・・その声はだんだんと小さくなって・・・
意識は、無くなってしまった。
僕は・・・死ぬの・・・・?
【おリョウ】
血相を変えた伊藤君が私の元へ駆け込んで来たのは冬が目の前に迫るある日の昼過ぎだった。
「御免下さい!松さん!松さんはおられますか!!!」
その大きな声に驚いた女中の子が慌てて私を玄関先まで引っ張った。
「伊藤君、どうしたの・・・?」
その焦り方を見れば何が起きたかなんてすぐにわかる。
「木戸さんが倒れました!一緒にいらして下さい!!」
・・・もう、そんな時なの・・・?
もう、あの男は死ぬの・・・?
「で、旦那様は?」
「今染井のお屋敷にいます。」
そう、ここには帰って来ないのね。
「染井のお屋敷にはすでに医師がいるんでしょ?ならば私が行く必要はないんじゃない?」
「松さん!」
行く必要はないわ。
行ったところで、どうする事も出来ないのだから・・・終わりが来たのなら死ぬし、まだならば生きるのだから。
「木戸さんは意識不明の状態です!ぜひ一緒にお越しください!」
「私が行ったからって、意識が戻るわけじゃないわ。」
「松さんどうなされたのです!お二人はあんなにも仲がよろしかったじゃないですか!何があったのですか!?」
仲が良い、ね・・・
「そうね、仲良くしてたわね・・・あの男が国政に戻るまではね。」
その言葉に伊藤君はハッとして、気まずそうな表情を見せた。
「どうせ朝から晩までずっと働かされた揚句不摂生がたたって倒れたんでしょ?あなた達はあの男が以前より体を悪くしていたのを知っていた、なのにあの男を再び政界に引きずり込んで働かせた。このまま起きない方が彼の為なんじゃない?」
私のこの冷たい言葉に、伊藤君は目を伏せた。
「お願いです松さん!一緒に来て下さい。木戸さんもきっと松さんをお待ちです・・・」
どうだか・・・
もう、待ってないと思うけど・・・
「私一人では行きたくないから、子供達を共に連れて行きます。着替えを置いたらすぐに屋敷を出るわ、いいわね。」
「わかりました・・・お願いします。」
子供たちをすぐに呼んで着替えを済ませさせて、私は忠太郎の手を引いた。
「母様、どちらに向かうんですか・・・?」
玄関で人力車を待機させている伊藤君の姿を見て、正二郎が不安そうに問いかけてきた。
「お父様のお屋敷よ。」
「えっ、父様の、お屋敷・・・?」
「えぇ、お父様はここ以外にもお家を持っている様だから・・・」
私の淡々とした言葉に、正二郎はただ黙った。
父親が他所に家を持って住んでいた、しかも妻子の暮す家には一度も帰って来ないなんて・・・私たち夫婦の関係が終わっているって察したんでしょうね。
手を引かれている忠太郎はそんな事はわからずに、ただ、私に手を引かれている事が嬉しくてニコニコしていた。
染井の別邸はここからさほど遠くない、私は着替えの浴衣を2着手にしたけれど、どうせ向こうの屋敷にもあるはずで、形だけの手土産に等しい。
行って私にどうしろと言うのだろう・・・
染井の別邸に着いて、異様な数の人の出入りに気が引けている正二郎と、にこやかな忠太郎の手を引いて、私は伊藤君の案内で部屋へと入った。
みんな見た事の無い使用人の子達ばかり、そして皆私を知らないのよね。
何となく頭を下げているけれど、誰かしらって顔をしている。
大きな部屋に通されて、その真ん中に小五郎は寝かされていた。
いつも思う、晋作の時もそうだったけれど、病人にこんな大部屋用意して、目が覚めた時に心細くならないかしら。
声をあげても届かないかもしれないじゃない。
私なら、人の出入りが多い場所で寝かせるけれど・・・
医師と思われる男が小五郎の頭上で座っていて、私に頭を下げた。
「父様!?」
正二郎が声をあげて走り寄ろうとしたけれど、私はその手を離さなかった。
そしてそれに気が付いて私を見上げる正二郎。
私は黙って、立ち止まって小五郎を見つめた。
「松さん、こちらへ・・・」
伊藤君が私を小五郎の横へ案内し、私は座る。
心配そうな正二郎が何度も私を見上げた。
無言のまま、表情も変えないまま、意識のない小五郎の額の髪を払って、上から下まで見回して、違和感を感じた。
つま先の場所、布団が上がっているはずなのに、その上がり具合が左右違う。
私は二人の手を離して立ち上がり、小五郎の足元に再び座る。そして、足元にかかる布団をめくってみて、やっぱりって思った。
つま先の向きが、左右違った。
医者も含め、みんながそんな私の行動をじっと見ている。
そうだったわね、木戸孝允と言えば半身麻痺か・・・左右の足の指を握る様に掴んですぐに分かった。
「左足、麻痺があるはずよ。」
医者が飛んできて私と同じように足先を握る、そしてすぐに血相を変えて私に顔を上げた。
左足の筋肉が固くなっている事、医者ならわかるでしょ。
私はそのまま左手を取って握る。
「足だけみたいだから、何か方法を考えてあげてちょうだい。冷たくなっているから蒸した手ぬぐいか何かで温めてもんで動かしていかないと筋肉はどんどん固くなって本当に一生使えなくなるわよ。」
医師はすぐに立ち上がりバタバタと部屋を出て行った。
「・・・松さん、あなたは医学の心得でも・・・?」
「ないわよ、ただ、見て不自然だったから。それだけ長い事この男と過ごしたって事よ。」
私は深く息を吐いて、座っている子供たちの間に立った。
「リハビリテーションって、伊藤君わかるかしら。わからなければアメリカ人かイギリス人に聞いて。さっきも言った様にその左足、例え動かなくっても誰かが温めて固まった筋肉や関節を柔らかくして血流を良くして動かす様にしなければ全く使えなくなる。使用人になりなんなりそう言ってちょうだい。」
私はそう言って、忠太郎を抱き上げた。
「さぁ、帰りましょ。」
正二郎が驚いた顔で私を見上げた。
「でも!父様はまだ意識が・・・」
「私達がいたとてどうにかなるものじゃないわ、お医者様が付いておられるのだからやる事は何もない。帰りましょ。」
「松さん、お待ちください!せめて、意識が戻られるまででも・・・」
「そうですよ母様、せめて意識が戻るまででも・・・」
私は目を細めて、意識のない小五郎を見下ろした。
私にできる事は何もない・・・
「あなたは残りたい?正二郎。」
「はい、父様が心配です・・・」
優しい子ね、正二郎は・・・
「伊藤君、正二郎を日が暮れる前には必ず送り帰してちょうだい。」
「わかりました・・・」
「正二郎、あなたは残っても構わないわ、その代り夜には必ず家に帰って来なさい。良いわね。」
「はい・・・」
私は正二郎の頭を撫でて微笑んで、忠太郎を連れて染井を出た。
玄関先まで伊藤君が見送りに出て来てくれる。
私は表情もなく、淡々としているんでしょうね。
「松さん、本当に、よろしいのですか・・・」
「えぇ、後はお願い。」
「かしこまりました・・・」
伊藤君はそう言って頭を下げる。
「この度の事、誠に申し訳ありませんでした。」
伊藤君は申し訳なさそうに、再び頭を下げる。
「ごめんなさいね、さっきは言い方が悪かったわ。あなたのせいじゃない、あの男が自分で撒いた種よ。自分で選んだ道だわ。」
「ですが・・・」
「私には子供たちがいるの、この子達を立派に育て上げる事が私に課せられた唯一の事よ。」
私は車夫に声をかけ、車を走らせてもらった。
帰路の途中、不意に忠太郎が私の顔に手を伸ばしてきた。驚いて忠太郎を見下ろした途端に、涙がこぼれ落ちて着物に落ちた。
首を傾げて意味がわからないと言う顔をして私の顔を触る忠太郎、小さな手が、何かを言っている。
私は忠太郎を抱きしめて、泣いた。




