夢恋路 ~明治編~4
【桂小五郎】
「おかえりなさい、お疲れ様でした。」
はぁぁ、何とか命からがら帰って来ましたよ。
姉さんと正次郎の顔を見て、帰って来たんだって思えた。
でも・・・なんでだろう・・・
なんで東京に帰って来ると、大久保さんと話が合わなくなるんだろう・・・?
相変わらず僕の周りわ騒がしくって、毎日毎日ひっきりなしに人が来て・・・ねぇ、少し休ませてくんない?
せっかく姉さんと時間を作ろうと思っているんだからさぁ。
半年ぶりだよ?
話する時間ぐらいちょうだいよ・・・そんな事を思いながら今日も使者の人と話をしていた。
「しかし、木戸さん不在中の奥様は随分と出歩かれていたみたいですね。」
使者の一人が、ふとそんな事を言った。
「誰か友人の所にでも行っていたのかな。」
・・・でも、東京には友人なんて人、いないか?
「毎日のように江戸川屋に行かれていたみたいですね。」
「あぁ、江戸川屋さんね。」
女将とまた何か企んでたのかな、相変わらずだなぁ。
「毎夜毎夜男連れだって、世間の目もありますから、少し控えさせた方が良いと思いますよ?」
・・・なんだって?
今、なんて?
毎夜、男連れて・・・?
冗談でしょ・・・?
使者の男は僕の混乱なんか気にならないとばかりに話をしている。
「政府に対する反感が未だ根強い中、人目に付く様な事は止めさせるべきだと思います。比較的堂々と歩かれているので結構見ている人も多いと思いますよ?夜とは言え玄関先で抱き合っているなんて、どうやって打ち消したらよいやら。」
頭が、真っ白になっていて、この男が何を言っているのかさえよくわからない。
姉さんが男と抱き合ってる・・・?
玄関先で・・・?
僕がいない間に・・・?
どういう事・・・・・
とりあえず、使者の男は帰った様で、僕はぽかんと部屋の真ん中にいて、整理しきれない頭と胸の内をどうしていいのかわからず・・・
幸いにも、その後僕の元に訪れる者はいなくって・・・どんどんと憤りが込み上げてきた。
僕は、姉さんを呼んだ。
「どうかしたの?」
なんで・・・
何で姉さんは、普通なの?
「松さん、座ってもらえますか?」
僕の言葉に姉さんは小首を傾げて、僕の前に座った。
どうしよう・・・
気持ちの整理が付かない・・・
感情のまま言葉を口にするのは、よくないってわかってるのに・・・・・
「松さん、僕が不在の間、江戸川屋に行っていたんですか・・・?」
「えぇ、行っていたわ。」
「何をしに・・・?」
「何をしにって、女将とお茶をして話して、ちょっと昔みたいなお手伝いをしていただけよ?」
「頻繁に、ですか?」
「えぇ、まぁ、頻繁だったかもしれないけど・・・?」
姉さんの言っている事は、いったい何なの・・・?
「夜、遅くまで・・・?」
僕のその言葉に、姉さんが一瞬ハッとした顔をした。
やっぱり、そうなんだ・・・
「ごめんなさい・・・実はね、頼まれてお座敷に上がったことが何度かあるのよ・・・でももう上がってないわ。ちゃんと断って来たから。」
どうしてそんな嘘を付くの・・・
「若い、男と・・・?」
「・・・えっ?」
姉さんが数度、瞬きをした。
「あなたが、若い男性と親しくしているところを見ている者がいます。あなたは一体何をしているんですか?」
「ちょっとまって、どういう事!?」
どうして嘘を付くの!!
「僕が!国の為に必死になって走り回って!命を狙われて!それでも姉さんの為にって必死になって国策に身を投じている中!あなたは一体何をしていたのですか!?若い男と夜中まで、しかも江戸川屋さんでなんて!」
「ちょっと待って誤解だわ!辰之助君とはそんなんじゃない!」
誰・・・辰之助って・・・
「辰之助と、言うのですか・・・?」
「えぇそうよ!辰之助君は江戸川屋さんの番頭だわ!確かに帰りが遅くなることもあったけど、彼は私を家まで送ってくれただけでそれ以外は何もないわ!」
どうしてそんな嘘を言うの?
全部、知ってるんだよ・・・?
「もういいですよ、松子さん。」
「何がいいの!?誤解でしょ!」
「もういいよ!!!」
僕の怒鳴り声に、屋敷自体が静まり返った気がした。
「ただ送ってくれた番頭と玄関前で抱き合ったりするの!?姉さんはただの番頭相手にでもそんな事をするの!?遅くに二人で帰って来て玄関先で抱き合って、一体何をしてたの!?」
「だから誤解だって!そんなんじゃない!」
「じゃぁなんで抱き合ったりするの!」
姉さんは口を閉じた。
どうして、何も言わないんだよ・・・
理由を述べたらいいじゃないか、嘘でもなんでも言えばいい!
「なんで、黙ってるの?」
唇を噛んで、黙っている姉さん・・・
男を、庇っているの・・・?
その健気な姿が僕にとどめを刺した。
僕の中の何か大きな紐の様な物が、千切れた気がした。
「使用人もこんなにいて、何不自由なく暮らせてるでしょ!何が不満なの!?あなたは位のある芸妓だったはず!若い男をたぶらかして連れ帰るなんてそんな事は女郎がやる事だ!あなたはいつからそんな安い女郎になったんです!!恥を知りなさい!!!」
ぱしーん・・・・
僕は、思いっきり頬を叩かれていた。
「・・・最っ低・・・」
姉さんは、涙を流しながらそう言って、部屋を飛び出した。
僕は悪くない・・・
なんで、僕が叩かれているの・・・?
子供を置いて、男と夜遊びしている妻に、何で叩かれなきゃなんないの・・・?
意味、わかんない・・・
必死で、平和な世を創るって、刀のない世を創るって、走り回って来たのに・・・
大久保さんや西郷さんと、あんなに話し合って、命まで狙われて、それでも世を変えなきゃって頑張って来たのに・・・その間に姉さんは男作って遊んでた。
とんでもない裏切りだよ・・・
【おリョウ】
見られてたんだ・・・
辰之助君に、抱きしめられてしまった事・・・
あの時間に、人がいたなんて。
「なんで、黙ってるの?」
言えない・・・
言えば、辰之助君がとがめられる・・・
辰之助君を惑わしてしまったのは私、あの子は悪くない・・・
・・・言えないよ・・・
私が黙っている事が余計に小五郎を煽った、火に油を注いだんだろう。
発狂した小五郎の口から出た言葉はもはや、暴言だった。
「使用人もこんなにいて、何不自由なく暮らせてるでしょ!何が不満なの!?あなたは位のある芸妓だったはず!若い男をたぶらかして連れ帰るなんてそんな事は女郎がやる事だ!あなたはいつからそんな安い女郎になったんです!!恥を知りなさい!!!」
思わず立ち上がって、顔をひっぱたいていた。
そこまで、さげすまれるの?
信じられない・・・
「・・・最っ低・・・」
やっと出てきた言葉はこれだけだった。
私は咄嗟に部屋を飛び出て、玄関を走り抜けて・・・江戸川屋を目指して走っていた。
この東京で、私が行く場所なんて、そこしかなかった。
どうしていいのかわからなくって、ショックが大きくって、誰かに、助けてもらいたかった。涙が止まらなくって、途中何度も立ち止まって、泣き崩れそうになりながらボロボロの状態で江戸川屋にたどり着いた。
「・・・松さん!?」
玄関前で掃き掃除をしていたのは辰之助君で、辰之助君は私を見つけるなり駆け寄って来てくれた。
「どうなさったんですか!?」
私はただ、号泣していた。
辰之助君はすぐに私を中に連れてくれて、女将が慌てて駆け込んで来た。
「おリョウちゃん!どうしたの!!」
「女将ぃ・・・」
私は女将の胸で大泣きした。
驚いた女将はすぐに人払いをして私にずっとついていてくれた。
どうしたらいいのかさっぱりわからなくって、ただただ、泣くしかなかった。
【女将】
辰之助が連れ込んできたおリョウちゃんを見て、在りし日の光景が思い起こされた。
忘れかけていた、遠い日の惨事。
おリョウちゃんは私に縋って何刻も泣き続けた。
かわいそうに・・・一体どうしたと言うの?
散々泣いて突然呆然と座って・・・まさか、桂様の身に何か・・・?
「落ち着いた・・・?」
私が声をかけても、おリョウちゃんは呆然としているだけで、答えようとはしない。
やだ・・・
本当に、あの時の様・・・
「どうしたの、桂様の身になにかあったの?それとも正二郎君?」
私のこの問いかけに顔を横に振るおリョウちゃん。
よかった・・・
二人はご無事なのね・・・
じゃぁ、なんで?
何でこの子はこんなに泣いているの・・・?
「とりあえず落ち着きなさい、今部屋を用意するから。」
私はおリョウちゃんを座らせていったん廊下に出る、そして辰之助を呼んだ。
一目散に駆けてくる辰之助。
「お部屋を一つ用意してもらえるかしら、お布団も敷いてあげて。」
「松さんは、どうされたんですか・・・?」
心配そうな辰之助。
「わからないのよまだ、とりあえず旦那様と正二郎君の身に何かが起きたわけでは無さそう。」
ふと気が付いた、辰之助の様子が妙だわ。
心優しい男だから心配しているのは心配しているんでしょうけれど、何かちょっと違う。
なんか、奥歯に物がかかったような顔だ。
これは、女の直感・・・
こいつ、何か知ってるんじゃないか。
「とりあえず早くお部屋を用意して、明日にでも落ち着いたら私が話をするから。」
「ご自宅に使いの物を走らせなくてもいいでしょうか・・・?」
「今日の所は様子を見ましょう、明日必要とあらば誰かを行かせるわ。」
翌朝、おリョウちゃんの部屋を訪ねたら、おリョウちゃんはきちんと布団をたたみ膝を付いて私に頭を下げた。
「申し訳ございません・・・」
そう言って。
「いいのよ、ここはあなたの実家ですもの。でも、何があったの・・・?」
私の問いに、おリョウちゃんは口を閉ざした。
「しばらく、ここに置いてもらえないですか・・・」
「それは構わないけど・・・」
「何でもします、お願いします。」
一向に顔をあげないおリョウちゃん。
もう、あまりに不憫だからそういうことしないでよ・・・
「大丈夫よ、落ち着いて?でも、ちゃんと理由を話してくれなきゃわからないわ。今じゃなくていいから、ちゃんと話して・・・ね?」
「・・・はい・・・」
私は思わずおリョウちゃんの頭を抱える。
「心配いらないわ。落ち着いたらでいいから、話してね。」
部屋を出てすぐに辰之助を呼んだ。
あの子は何か知っている。
絶対に。
私に呼ばれた辰之助は私の前に座らされる。
その顔はまるで罪人のごとくで、やっぱり何か心当たりがあるようだ。
「あなたこの間、半年ほど松さんと一緒に時間を過ごしていたわよね、何か聞いてない?」
「・・・いいえ・・・」
知っているのね。
「本当に、何も心当たりはないの?」
何となく、何となくだけど、私は思い当たるんだけど・・・?
黙っている辰之助。
私は雇い主として、問わなければならない。
「辰之助、思い当たる事を言いなさい。その結果、あなたの職務を奪ったりはしないわ。おリョウちゃんは何も言いはしないけれど、私にはおおよその見当はついている、あなたはそれを私に言わせる気?」
辰之助は勢いよく頭を下げた。
「申し訳ありません!!!」
はぁ・・・
やっぱりか・・・
あんなに楽しげに上がっていたお座敷を文一つで突然降りるなんて、おかしいと思ったのよ・・・
「奥様に、松子さんに個人的な感情を抱いてしまい、どうしてもお伝えしたく、木戸のお屋敷の前で・・・お伝え致しました。」
そうだったわよ・・・
おリョウちゃんにはまった男なんて散々いたじゃないよ・・・
どうして辰之助を近づけちゃったかしら・・・大失態だわ。
「旦那様がご帰宅なされたのならもう座敷に上がる事はしないと告げられ、どうにも気持ちの抑えが利かなくなり・・・奥様を抱き留めました。」
あぁぁぁぁぁ・・・・
おリョウちゃんは、桂様から辰之助をかばったんだわ・・・
「奥様には、一時の惑いだと正されました。そしてこれ以上時間を共にするのは避けようと・・・」
「わかった、これは私の失態だわ。」
桂様の嫉妬は異常なのよ・・・それこそ病気、きっとお耳に入ったんだわ。
これは、素直に事が片付くかしら・・・
この子は、どれくらい責任を負えるかしら・・・
「・・・辰之助、あなたは男として、好いた女の為に身を捨てる度胸はある?」
辰之助はまっすぐに私を見つめた。
「おリョウちゃんの話をちゃんと聞いてないからまだ何とも言えないけれど、場合に寄っちゃあなたは木戸様の元へ出向いて頭を下げなければならないわ。相手はかなり位の高い武士よ?あなたに、自分の身を差し出す覚悟はあるかしら?」
「はい!あります!」
即答できる姿は男らしいと誉めてあげたいけれど・・・もし本当に私達が思っている通りだったとしたら、まずすぎるわ。いくら桂様が不殺さずを貫いているとは言え、おリョウちゃん相手ならば話は全く別・・・
間違いなく、抜くわよ。
これは私の責任も相当重い。
「私は昔からあの二人を見て来ているわ、特におリョウちゃん・・・松さんの事はよくわかっている。あなたがおリョウちゃんに引かれてしまう事を想定しておくべきだった・・・おリョウちゃんと関わって、引かれない男なんて絶対にいないもの、長年離れていたせいですっかり忘れてたわ。特に年下男ははまるのよね、おリョウちゃんに・・・」
ってか、年下男しか私は知らないわよ。
桂様でさえ本当は歳下なのだから。
【桂小五郎】
飛び出して行ったその夜、姉さんは帰って来なかった。
大方江戸川屋だろう、そこしか行く場所はないんだからね。
「父さま、母さまはどこにいるんですか?」
「あぁ、正二郎、お母さんはちょっと出ていてね。数日は帰って来ないかもしれない。」
もしかしたら二度と帰って来ないかもなんて、さすがに言えない。
「そうですか・・・」
寂しそうな正二郎、かわいそうだ。
「眠くなるまではお部屋で字の練習をしなさい、文の一つもまともにかけなくては立派な大人にはなれないよ?」
「・・・はい、」
正二郎は部屋に戻って行った。
僕は結局参議に戻る事にした。
これはもはやあてつけの気晴らしだ。
で、外交に着手することになり、朝鮮問題に頭を抱える事になり、問題の解決は一向に見えず・・・公私混同いろいろ積もってどうしていいのかわからなくなり、もはややけっぱちで、日本から出たいと大久保さんに言ってみた。
「却下。」
だよね。
わかってますよ・・・
「私が行きたいぐらいだ。」
ですよね・・・
相変わらず国政の内部は話一つまとまらないほどぐちゃぐちゃだ。
僕はまたとぼとぼと、家に帰って来た。
こんな時、姉さんに愚痴るんだけど、姉さんはいない。
「父さま・・・」
正二郎が枕を抱えて目をこすりながら玄関まで僕を迎えに来た。
「こんな遅くにどうしたんだ?早く寝なさい。」
「母さまは・・・?」
・・・・・・。
姉さん、今日も帰って来てないんだ。
あれから何日たったかな・・・
僕は正二郎の頭に手を置いた。
「大丈夫、もうちょっとだから。」
何が、もうちょっとなんだろう・・・
「大丈夫だから寝なさい。」
「・・・はい・・・」
後姿が寂しそうで、胸が痛んだ。
家の中は相変わらず綺麗だった。
あれだけ多くの使用人がいるんだ、姉さんがいなくったって家の中はいつも通り。
正二郎の面倒だってみんなが見てくれる。
・・・姉さんは僕がいない間ずっと、何をしてたんだろう。
家の事は使用人がやってくれる、正二郎には教師が付いている。買い物も料理も全部使用人がやってくれて、僕は家にはいない・・・姉さんは息子に読み書きを教えられるほど、この時代の文字にも慣れてはいない。
一人で、何してたんだろう。
週に一回来るか来ないかの僕の文だけを待って、ずっと家にいたんだろうか。
金魚の世話だけをして?
僕は何をしていた?
確かに、毎日嫌な事がたくさんで、命を狙われたり、いろんな人に朝から追いかけられて・・・
でも、夜は仲間と酒を飲んだり、豪勢な食事を食べたり・・・
美しい女の人を呼んだりしてた・・・
姉さんは・・・寂しかったのかな・・・・・
帰って来ない旦那をずっと待つより、近くにいてくれる若い子の方が、いいよね・・・
正二郎の世話さえできなくって、何もさせてもらえなくって、友達もいなくって・・・毎日危険と隣り合わせで必死で生きてきた時間を思えば、何て退屈な毎日だろう。旅行の一つにも、連れて行ってないや・・・
僕の中で、急に不安が膨れて襲ってきた。
姉さんはどこにいるんだろう?
本当に、江戸川屋にいるの?
どっか余所にいるんじゃないか、誰かに連れさらわれてないか、身の危険は感じてないか・・・
今もずっとどこかを彷徨い歩いてはいないか・・・
・・・でも、
僕はやっぱり小さな男で、
江戸川屋に行く事だけは、どうしてもできなかった・・・
もし、辰之助と言う男と姉さんが共に暮らしていたらと思うと、怖くて、行けなかった。
翌夕刻、僕の元に細身の男がやって来た。
優しそうでしなやかそうな若い男、一目でわかった、この青年がきっと辰之助だ・・・
「お目通し、恐れ入ります。」
辰之助は両膝両手を床につけて深々と土下座をした。
僕は座ったままで、ただ黙って座っていた。
「自分は江戸屋で番頭をしております、辰之助と申します。」
あぁ、やっぱりね・・・
「奥様の松子さまは今、江戸川屋にてお預かりさせていただいております。」
あぁ、やっぱりね・・・
「わざわざ何用で?松子の身請けをしたいとでも言いに来たのか?」
「いいえ!その様な事はございません。」
「じゃぁ、何しに?」
僕は無感情に淡々と言葉を紡いだ。
「旦那様にお詫びと、奥様に対する旦那様のお許しを乞いたくやって参りました。」
「松の許しをなぜ君が乞うのです。」
いったい二人で何をしたと、僕に言うの?
「奥様には当宿の新年の宴に花を添えるべく、女将より舞をお願いされておりました。初めは御身分の都合をお考えになって、お断りになっておられたのですが、当方共の願いによりお引き受けくださいました。その際、三味線をさせていただいたのが自分でございます。」
「君が三味線を?まさか、舞踊の演奏なんてできるはずないだろ。」
「自分の実家は代々置屋を営んでおりました、三味線は幼き頃より姉たちと共に教えを受けておりましたので弾く事が可能でした。故に女将から頼まれて、差し出がましくも自分が奥様の踊りの伴奏をさせていただいておりました。」
・・・ふ~ん・・・
「奥様はご自宅では芸をなさっていた事をお子様にもお伝えしておらず、稽古する場がなく、お困りと言う事で宿の一室を使って当日まで共に稽古をさせていただいておりました。」
僕は一言も発せずに、辰之助の言葉をただ聞いていた。
宿の一室で二人きりで稽古?
それがどう言う事を意味しているか、わかってるのかな・・・
「新年の宴の後も、女将のご贔屓にしていらっしゃるお客様がお見えになった時だけ一曲だけと言うお約束で月に数度踊りをお願いしておりました。遅くなるとご子息の事が気にかかると言う事でしたのでできるだけ早い時間に場をもうけさせていただいておりましたが、どうしてもお帰りが遅くなってしまいますので、自分がお供をさせていただいて、お見送りさせていただいておりました。」
「なら、駕籠で帰せばよかっただろう?なぜわざわざ君が共に歩く必要がある。」
「御最もでございます・・・」
辰之助は絞るような声でそう答えた。
「君と松は一体どういう関係なの?二人きりで稽古だなんて何を言ってるかわかってるのか?君たち二人は共に朝陽を拝むような関係だったの?」
・・・寝たの・・・?
「そのような事は断じてございません!」
「でも実際に君たちがこの家の前で堂々と抱き合っているのを見ている者がいる、それでも違うと言うの?」
「はい!違います!」
「意味がさっぱりわからないんだが?」
辰之助は、震えている。
「・・・確かに!自分は奥様に好意を抱いておりました。あの晩、奥様は自分に、旦那様が帰って来られるのでもうお座敷に上がる事は出来ないとおっしゃいました。自分は、未熟な故・・・想いを抑える事が出来ず、思わず奥様を抱き留めてしまいました。ですが奥様は、自分に、今の事はなかった事にするから帰る様にとおっしゃってくれました。一時期の陶酔であって気の惑いであるから、目を覚ますようにと・・・それ以降奥様はお座敷に上がられてはおりませんし、宿にもいらしてはおりません。もちろん自分とも会ってはおりません!」
「君の話を信じろと?」
僕に、今更どうしろと・・・?
「お疑いなのは御最もです!ですが奥様は確かに、旦那様ととご子息を愛している、自分と距離を縮める気はないと、確かにはっきりおっしゃいました!自分の言葉を信じる事が出来ないのは御最もです、ですが、奥様のお言葉は真実です!どうか、信じて差し上げて下さい!」
僕に・・・どうしろと・・・?
出て行けとは言わなくとも、追い出したような僕に、どうしろと・・・
「ぜひ、迎えに来て差し上げて下さい。奥様はずっとお一人でお待ちになっておいでです。どうか、奥様を救って差し上げて下さい・・・お願いします!」
「・・・君は立派だね・・・」
ぽそって呟いた僕の言葉に、辰之助君は顔を上げた。
「君は立派だよ、辰之助君。君の方がよっぽど松さんを見てくれている。僕は、ほとんど家には帰って来れない。子も授けてやれない、寂しい想いばかりさせている。君の方がよっぽど松さんを幸せにできるのかもしれない。」
辰之助君となら子を授かれるかもしれない・・・
僕じゃない方が、いいのかもしれない・・・
「そんな事はございません!」
僕は、どうしたらいいんだろう。
「奥様は、旦那様とご子息を心から想っておいでです。ずっとお一人で、ずっと待っておいでです。どうか、迎えに来て差し上げて下さい・・・・・」
「もう下がっていいよ。」
この子は、きっと悪くない。
「少し、考える時間を下さい・・・」
辰之助君を帰して、ひとりでぽつんと部屋の真ん中で座っていた。
この期に及んで、まだどうしたらいいかなんて考えてる。
まだ、行きたくないって、思ってる。
木戸孝允になった僕はだいぶ疑り深くって、素直じゃなくって、頭が固くって、小さな男だ。
若い時のように、ただ好きだって想いだけじゃ動けなくなってる。
世間の目や先の流れを気にするあまり、素直じゃなくなってる。
姉さんを疑って、一度痛い目に合ったじゃないか・・・
晋作にも殴られたじゃないか・・・
お雪が身を持って、教えてくれたじゃないか・・・
「父さま・・・」
障子の奥から細い声がした。
その声の主はそっと障子を開けて、顔半分ぐらいの隙間から今にも泣きそうな顔で、僕を見ていた。
「母さまは、もう帰って来ないのですか・・・?」
正二郎はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「僕が、ちゃんと文を書かなかったから?ちゃんとお勉強しなかったから・・・?だから、母さまはいなくなっちゃったのですか・・・?」
思わず駆け寄って、障子を開けて、僕は正二郎を抱きしめていた。
「ちゃんと勉強します。ちゃんと父さまに文も書きます。そうしたら、母さまは帰って来てくれますか・・・?」
「正二郎は悪くない!正二郎のせいじゃない!お父さんが悪いんだよ・・・お母さんはちゃんと帰って来る。僕がちゃんと連れて帰って来る。だから・・・だから、泣かないで・・・」
ごめん、ごめん、本当にごめん・・・
僕は謝ってばっかだ・・・
今から、江戸川屋に行こう。
姉さんと、話をしよう・・・
その結果、姉さんが離縁を申し出るのなら、仕方がない・・・




