咲坂雪菜の噂は、いつも俺より先に走る
俺はコーヒーをもう一杯おかわりして、一人席に座った。
さっきまでは咲坂の声にばかり意識が向いていたが、今はカップの縁を叩く音や、学生たちの笑い声がやけに鮮明に聞こえる。
この喧噪が、逆に“静けさ”を際立たせる。
不思議なことに、部屋で一人きりでいるよりも、人混みの中でこそ“孤独”が浮かび上がることがある。
だから俺は、誰とも話したくないときほど、こうして賑やかな場所に身を置くのだ。
――こうして一人でいる俺が、本来の俺だ。
意識が日常へ戻ると、さっきまでの出来事が夢のように遠ざかっていく。
さっきまで同じテーブルにあの咲坂雪菜がいたことすら、まるで幻のように思える。
「さっきの俺は、本当に俺だったのか……?」
そんな馬鹿げた独り言が、なぜか妙に現実味を帯びて聞こえる。
カップを両手で包むと、指先に残る温もりだけが“いま”を証明してくれる気がした。
スマホを取り出し、LINEの画面を開く。
そこには、ちゃんと登録されている「咲坂雪菜」の名前。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
その文字の背後に、無限の可能性が広がっているような気がして、息が浅くなる。
……どうやら、熱が上がっているのはコーヒーのせいじゃない。
ふと朝のことを思い出した。
あのとき、俺は“田尻の講義”を心待ちにしていたはずだ。
しかし今の俺の最大の関心ごとは?
──“田尻”ではなく“咲坂”だ。
そのことに苦笑せざるを得ない。
「あの〜」
不意に背後から声をかけられた。
振り返ると、一人の男子学生が立っている。
「あ、はい。なんでしょう?」
慌ててキョドってしまったが、この反応こそ安定の俺だ。
自嘲気味に口の端が緩む。
「サークルとか、もう決めてるの?」
――めずらしい、勧誘か。
にしても、その満面の笑み。
後輩に向けるには少し作り物っぽい。
このタイプは見栄えのいい女子ばかりに声をかけるはずなのに、なぜ俺に?
「そうですね。入ろうと思ってるサークルはありますけど」
田尻のサークルを知る前なら「入る気ないんで」と即答していたかもしれない。
だが今は、少し誇らしげにそう答える。
「ああ、だったら咲坂さんも一緒?」
なるほどね。
そういうことか。
この愛想笑い、俺を“だし”にして咲坂に近づこうって魂胆だ。
”俺を誘ってくれてるのか?”と少しだけ高揚したピュアな俺を返してほしい。
それにしても、咲坂の知名度どうなってんだよ?
まだ入学したての1年だぞ?
──恐ろしいんだけど。
この男も、きっとさっきのカフェで俺たちのやり取りを遠巻きに見ていたのだろう。
俺と咲坂がそんなに“親しげ”に見えたのかと思うと、ちょっとだけ嬉しい。
「どうかな? 俺ら、いわゆるテニサーなんだけど……人数は大学でも多いほうだから」
はいはい、それね。
だがそれ、咲坂には逆効果だぞ?
「でも、咲坂はそういうサークルはむしろ敬遠すると思いますけど?」
彼女が見せた暗い顔を思い出していた。
「え? なんで? 楽しいと思うけど?」
分かってないな。
「咲坂には、ああいうのは煩わしいと感じると思いますよ」
「は? なんで?」
途端に、男の表情が険しくなった。
ああ、地雷踏んだか。
だが引くつもりはない。
「想像できませんか? 大勢の男が咲坂をチヤホヤして、女子たちは面白くない。
彼女は気を使わなきゃならない。
……そんな場、息が詰まりますよ」
俺の言葉に、男は明らかにカチンときた。
顔色が変わり、目に挑むような光が宿る。
「ハハ、それは狭いコミュニティーの話だな。君、コンパとか行ったことないの?」
マウントとってきたか。
でもつきあってやんないね。
「ええ、僕はそういうの苦手なんで」
「モテないくせに何を偉そうに」と言いたいのだろう。
でも、俺には俺のスタンスがある。
咲坂と出会って多少揺らいだとはいえ、“遊びを主軸にした大学生活”に憧れる気持ちは一ミリもない。
彼の「遊ばなきゃ損」的な空気が、妙に鼻についた。
……やっぱりこういうノリ、苦手だ。
「僕から咲坂にも言っておきます。お誘いありがとうございました」
定型文。
ことさらに丁寧な言葉遣い。
日本語で言うと――『二度と話す気はありません』という意味だ。
男の笑顔にわずかな亀裂が走ったのを見逃さなかったが、──所詮今だけの関係、どうでもいい。
けど、ヤツなりの粘り腰を見せてきたのは少しだけ意外だった。
「ああ、頼むよ。チラシあるから、咲坂さんにも“絶対”渡して」
陽キャの強メンタルはとても理解できない。
俺は受け取るしかなかったが、心の中で静かに呟いた。
――“絶対”渡すかよ。




