表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/40

光の境界線

「コーマワーク?」


ミンデルの原文まで読み込んでいる咲坂は、その言葉の意味をすぐに理解した。


昏睡状態の患者の微細な動きを模倣し、その内側の世界へ寄り添う心理療法。


「よ、義人を救えるんですか?」


しかし田尻は表情を動かさず、ただ沈黙したままだった。


医学では救えないところに手を伸ばせるのは、田尻しかいない――。


そう思い込んだ自分が確かにいた。


だが咲坂は、その“希望”がどれほど儚いかをよく知っている。


「咲坂君……君は少女時代にカウンセリングを受けているな?」


田尻は、話題を“咲坂そのもの”へと向けた。


「そのカウンセラーを、今呼べるか?」


唐突すぎる話に、咲坂はついて行けない。


「コーマワークは“君に”やってもらう。だから、君の心を一番理解しているカウンセラーのサポートが必要ということだ」


「わ、私が?!……なんで!?」


「君しかできないからだ」


田尻は、有無を言わせない声音で、咲坂の混乱を遮断した。


「分かりました」


即答だった。


私しかできない。


それは裏を返せば、私なら救えるかもしれない。


「え?……た、田尻先生なの?」


咲坂が呼んだカウンセラー、坂田が救急入口に姿を見せた。


咲坂の少女時代を救ってきた坂田は、児童カウンセリングの権威だ。


だからこそ、咲坂に取りついた闇を自分が見逃したことに、坂田は激しい自責の念を抱いていた。


「田尻先生がついていて……なんでこんなことになってるのよ?!」


坂田は怒気を孕んで田尻に迫った。


「私が、私があの闇を取り逃がしたばっかりにこんなことに……」


田尻は坂田の怒りにも意を介さず、まるで坂田を諭すかのようにその名を呼んだ。


「これから咲坂君にコーマワークをしてもらう。坂田君には、そのサポートを頼みたい」


「学生の雪菜ちゃんにそんな危険なこと……本気で言ってるの?」


「危険なのは分かっている。しかし櫻井は……今もずっと咲坂君の名前を呼び続けている」


その言葉を聞いた瞬間、咲坂の瞳から大粒の涙があふれて止まらなかった。


「やらせてください」


咲坂は強い意志を示し、三人は櫻井が横たわるベッドサイドへと向かった。


咲坂は櫻井のわずかな動きを取りこぼすまいと、全身の神経を彼へ向けた。


呼吸の深さ、胸の上下、痛みによる微細な反応──。


それらを自分の身体に写し取るように、咲坂は櫻井の“今”を追い続けた。


sakisaka……sakisaka……


咲坂は震えるその唇にそっと指を添え、その想いを受け止めた。


──その瞬間。


あきらかに咲坂の様子に変化があった。


瞳孔が開き、何かに取りつかれたように叫びだした。


「義人!!!……見なさいよ!……私を……見なさいよ!! もっと……もっと……私のことを!!」


内側に潜み続けていた“闇”が、最後の暴走を始めたのだ。


しかし──坂田は咲坂の変化を即座に封じた。


「雪菜ちゃん。ほら、見てごらん? 櫻井君はちゃんと雪菜ちゃんのこと見てるよ」


咲坂は嘘のように動きを止めた。


「咲坂君。今、坂田君はなんと言った?」


田尻の声に、咲坂はわずかに焦点を戻した。


「ちゃんと見てるよ、だから見てごらん、って」


自分へ言い聞かせるように呟き、咲坂は櫻井の顔を覗き込んだ。


──その時。


もう何も映さないはずの櫻井の瞳が、確かに、咲坂を“捉えていた”。


戻ろうとしていた。


死の縁から、細い糸を必死に手繰り寄せようとしていた。


「雪菜ちゃん! 櫻井君、来てるよ! 言ってあげて!!」


坂田は必死に訴えた。


しかしなぜか咲坂の口は開こうとしない。


代わりに、彼女は静かに──笑った。


ただ笑った。


咲坂の視線は、櫻井の“唇”を注視していた。


その唇はこう言っていた──。


waraeyo sakisaka……


“笑えよ……咲坂……笑えよ……”


その言葉に導かれるように、咲坂は満開の笑顔を櫻井へ送り続けた。


櫻井もまた、その笑顔を見つめていた。


動かないはずの表情が、ほんのわずかに──笑ったように見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ