光の境界線
「コーマワーク?」
ミンデルの原文まで読み込んでいる咲坂は、その言葉の意味をすぐに理解した。
昏睡状態の患者の微細な動きを模倣し、その内側の世界へ寄り添う心理療法。
「よ、義人を救えるんですか?」
しかし田尻は表情を動かさず、ただ沈黙したままだった。
医学では救えないところに手を伸ばせるのは、田尻しかいない――。
そう思い込んだ自分が確かにいた。
だが咲坂は、その“希望”がどれほど儚いかをよく知っている。
「咲坂君……君は少女時代にカウンセリングを受けているな?」
田尻は、話題を“咲坂そのもの”へと向けた。
「そのカウンセラーを、今呼べるか?」
唐突すぎる話に、咲坂はついて行けない。
「コーマワークは“君に”やってもらう。だから、君の心を一番理解しているカウンセラーのサポートが必要ということだ」
「わ、私が?!……なんで!?」
「君しかできないからだ」
田尻は、有無を言わせない声音で、咲坂の混乱を遮断した。
「分かりました」
即答だった。
私しかできない。
それは裏を返せば、私なら救えるかもしれない。
「え?……た、田尻先生なの?」
咲坂が呼んだカウンセラー、坂田が救急入口に姿を見せた。
咲坂の少女時代を救ってきた坂田は、児童カウンセリングの権威だ。
だからこそ、咲坂に取りついた闇を自分が見逃したことに、坂田は激しい自責の念を抱いていた。
「田尻先生がついていて……なんでこんなことになってるのよ?!」
坂田は怒気を孕んで田尻に迫った。
「私が、私があの闇を取り逃がしたばっかりにこんなことに……」
田尻は坂田の怒りにも意を介さず、まるで坂田を諭すかのようにその名を呼んだ。
「これから咲坂君にコーマワークをしてもらう。坂田君には、そのサポートを頼みたい」
「学生の雪菜ちゃんにそんな危険なこと……本気で言ってるの?」
「危険なのは分かっている。しかし櫻井は……今もずっと咲坂君の名前を呼び続けている」
その言葉を聞いた瞬間、咲坂の瞳から大粒の涙があふれて止まらなかった。
「やらせてください」
咲坂は強い意志を示し、三人は櫻井が横たわるベッドサイドへと向かった。
咲坂は櫻井のわずかな動きを取りこぼすまいと、全身の神経を彼へ向けた。
呼吸の深さ、胸の上下、痛みによる微細な反応──。
それらを自分の身体に写し取るように、咲坂は櫻井の“今”を追い続けた。
sakisaka……sakisaka……
咲坂は震えるその唇にそっと指を添え、その想いを受け止めた。
──その瞬間。
あきらかに咲坂の様子に変化があった。
瞳孔が開き、何かに取りつかれたように叫びだした。
「義人!!!……見なさいよ!……私を……見なさいよ!! もっと……もっと……私のことを!!」
内側に潜み続けていた“闇”が、最後の暴走を始めたのだ。
しかし──坂田は咲坂の変化を即座に封じた。
「雪菜ちゃん。ほら、見てごらん? 櫻井君はちゃんと雪菜ちゃんのこと見てるよ」
咲坂は嘘のように動きを止めた。
「咲坂君。今、坂田君はなんと言った?」
田尻の声に、咲坂はわずかに焦点を戻した。
「ちゃんと見てるよ、だから見てごらん、って」
自分へ言い聞かせるように呟き、咲坂は櫻井の顔を覗き込んだ。
──その時。
もう何も映さないはずの櫻井の瞳が、確かに、咲坂を“捉えていた”。
戻ろうとしていた。
死の縁から、細い糸を必死に手繰り寄せようとしていた。
「雪菜ちゃん! 櫻井君、来てるよ! 言ってあげて!!」
坂田は必死に訴えた。
しかしなぜか咲坂の口は開こうとしない。
代わりに、彼女は静かに──笑った。
ただ笑った。
咲坂の視線は、櫻井の“唇”を注視していた。
その唇はこう言っていた──。
waraeyo sakisaka……
“笑えよ……咲坂……笑えよ……”
その言葉に導かれるように、咲坂は満開の笑顔を櫻井へ送り続けた。
櫻井もまた、その笑顔を見つめていた。
動かないはずの表情が、ほんのわずかに──笑ったように見えた。




