深淵からの叫び
田尻明彦は、午前中の講義を終えたばかりだった。
チョークの粉がわずかに舞う教室で、黒板の前に立ったまま、使い込まれた参考書類を古びたバッグに一冊ずつ丁寧にしまっていた。
すると、その静けさを破るように、めったに鳴らないスマートフォンに、唐突な着信音が響いた。
知り合いの少ない田尻に電話がかかってくることなど、ほとんどない。
それでもそれを訝しむこともなく、いつも通りの表情のまま通話ボタンに指を滑らせた。
「先生助けて!!」
スマートフォンからは突然、女性のそんな半狂乱の声が響いた。
声の主は咲坂雪菜だった。
通話口の相手が咲坂だと知って、いつもはほとんど表情を変えることがない田尻は、少しだけ眉間に皺を寄せた。
「そこはどこだ?」
田尻が問うたのは、その一点だけだった。
余計な言葉は一切なかった。
「え?……えっと、渋谷総合病……」
咲坂が、涙で濡れた声のまま病院名を言いかけた、その途中で通話は切れた。
返事を聞き切る必要はないと言わんばかりに、田尻はスマートフォンを静かに耳から離し、迷いのない動作で通話を終えた。
そして、彼はカバンを素早く肩に担ぎ、すでに能面のような無表情に戻った顔を動かすことなく、教室を後にしていた。
田尻は自身の授業で、何度となく同じ言葉を口にしてきた。
「闇の恐さを侮ることがないように」
その一言に、どれほどの底知れなさが含まれているのか。
黒板越しに聞いていた生徒たちのどれほどが、その意味を本当のところまで受け止めていただろうか。
それでも櫻井は、田尻の忠告を真面目すぎるほど真面目に守ろうとしていた。
咲坂を「闇の怖さ」から遠ざけるために、自分なりの最善の行動を選んだつもりだった。
だが――それでも、間違えてしまった。
自分がまさか、その「闇の存在」そのものから刃を向けられるなどとは、夢にも思っていなかったのだ。
櫻井は今、都内にある渋谷総合病院の高度救命センターに搬送されていた。
「助けて」――そのたった一言を聞いただけで、田尻は全てを理解した。
だから迷わず彼は救急患者専用の入り口から病院の中へと入っていった。
白い照明に照らされた長い廊下。
その一角の長椅子に、咲坂雪菜は座っていた。
「咲坂君」
田尻は、彼女の名を呼ぶだけの、短い言葉を投げた。
しかし電話の後、何を見たのか、咲坂雪菜は、すでにその声を失っていた。
焦点の合わない瞳を宙にさまよわせ、ただただ止まることのない涙を流していた。
咲坂の隣には、見栄えのいい男性、東郷が寄り添っていた。
「東郷といいます。田尻先生ですか?」
「ああ」
田尻は東郷に目も合わせずに短く返す。
「君と間違えたのか」
「は?」
田尻の問いかけに東郷は困惑する。
状況を説明しようとした東郷を、田尻は手で制した。
そして不愛想に長椅子の前を離れていった。
田尻は、まるで櫻井の居場所をすでに知っているかのように集中治療室へ向かった。
そして彼はスタッフが扉を開けたすきに、まるでこの病院のドクターであるかのようにその流れへ溶け込み、当然のように集中治療室へ入っていった。
広いオープンフロアーの角――一番目立たない場所のベッドに、櫻井が横たわっていた。
櫻井の目は生気を失い、無機質に見開かれていた。
その姿は、まるで人形そのものだった。
身体には数えきれないほどのチューブが繋がれている。
それらは彼を「救う」ためのものではなく、ただ延命のために施された処置だった。
田尻は、この櫻井の様子を見ても表情を変えない。
ただ櫻井の身体を凝視していた。
“あ、い、あ、あ……あ、い、あ、あ……
その時、田尻が急に意味のない言葉を発した。
「あの、どうかされましたか?」
隣のベッドサイドから怪訝そうに見ていた看護師が、たまらず近づいてきた。
「黙っていなさい」
田尻は看護師の方へ顔を向けることもなく、小さな声でそう応えた。
あ、い、あ、あ──A・I・A・A。
呪文のような言葉は「母音」の羅列だった。
そう唱え続けていたその発声がわずかに変化した。
「SA・KI・SA・KA」
櫻井の口元がわずかに動いている。
声は聞こえていない。
田尻はその卓越した能力で、その微細な唇の動きから櫻井の言葉を正確に再現してみせたのだ。
田尻は、櫻井の口元から咲坂を呼ぶその想いを確かに拾い上げていた。
彼は踵を返し、待合室の咲坂のもとへ戻った。
「咲坂君。これから櫻井に、コーマワークを仕掛ける」
その一言で、光を失っていた咲坂の瞳の奥がかすかに動いた。




