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笑えよ、咲坂

ナイフを持っている野本を見た瞬間、アドレナリンが全身に回るような緊張が全身に走った。


浅はかすぎる。人として終わっている。


そのどうしようもない低俗さに、胸の底から嫌悪が込みあげた。


同時に俺は、ナイフという凶器の前に恐怖と緊張で震えが止まらなくなっていた。


田尻の読みは間違っていなかった。


間違ったのは俺の方だ。警戒すべき相手を見誤った。


突然のことに頭がついていけない。


落ち着け。思考を取り戻せ……俺は恐怖と緊張に抗いながらそう自分に言い聞かせていた。


今日、野本にとって俺が来ることは想定外なはずだ。


だとすれば――


野本がナイフを持ってここにいた理由。


それは咲坂を待ち伏せていた、ということだ。


こ、こいつ……咲坂を刺そうとしてたのか?


この野郎、ふざけるなよ?


俺は禍々しい憎悪の感情に支配され、全身が身震いした。


おそらく野本は、俺と咲坂が付き合うという話を“咲坂本人から”聞いたはずだ。


それでもなお、しつこく迫り続け、遂には完全に咲坂から拒絶された。


だから野本は、本能の箍が外れ、狂ったように凶行へ走った。


そして今、最悪のタイミングで憎き相手である俺を見つけてしまった。


野本にとっては渡りに船。


標的が咲坂から“俺へ”切り替わった瞬間だった。


すると、信じがたいことが起きた。


廊下の奥から、鋭いハイヒールの音が連続して響いた。


まさか……咲坂!?


そして階段の上に、息を切らした咲坂が姿を見せてしまった。


〝バカかお前は……なんで来るんだよ!〟


胸の奥で血が凍りついた。


野本はもともと咲坂が標的だ。


咲坂が野本の視界に入った瞬間、間違いなく標的が“咲坂”へ戻る。


それだけは絶対に避けなければならない。


案の定、野本は咲坂に気づき、踵を返して一直線に向かった。


「咲坂!戻れ!……早く!」


俺は必死に腕を振り、戻れと叫んだ。


「YUKINA!!やっぱり俺のこと、気になって来てくれたんだな?」


……最悪だ。完全に妄想の世界に入り込んでいる。


このままじゃ間に合わない。


走っても追いつけない。


なら、言葉だ。


舌戦で意識をこちらに向けるしかない。


「野本!俺の彼女に手を出すな!」


野本がビクリと振り向く。


よし、反応した。


おまえが単純なヤツで助かったよ。


「悪いが……YUKINAは俺のことが好きらしい」


野本の顔が憎悪で歪んだ。


その後ろでは、咲坂が真っ赤になって固まっている。


おい……今その反応いるか?


〝こっちに来い……咲坂から離れろ〟


俺は野本の表情を読み取りながら、慎重に階段を上がる。


「YUKINA……?」


野本が俺から目をそらさず、しかし低く咲坂に問いかけた。


最悪の展開だ。まだ距離が遠い。


咲坂は怯えたように体を縮めている。


「君は……この男が好きなのか?」


咲坂は逡巡し、答えに迷っている。


その瞬間、俺は歩幅を広げ、一気に距離を詰めた。


咲坂が言うであろう答えは分かっている。


だが“今だけは”正しい答えではない。


言わせてはいけない。


「私は……」


やめろ咲坂!


首を左右に振り、必死に伝えようとした。


しかし――咲坂は言ってしまった。


「私は……櫻井義人を愛している」


その言葉が引き金になった。


野本は狂気じみた叫びを上げて咲坂へ突進。


俺も全力で駆け寄り、野本に組みついた。


ナイフの軌道が大きく逸れ、咲坂の身体をかすめるだけで済んだ。


俺は野本の腕を掴もうとしたが――その刹那、脇腹に焼けるような痛みが走った。


「バカヤロウ……右脇腹はレバーだ……そこは刺すなよ……」


「よ、義人!!……義人!!」


咲坂が縋りつくように駆け寄ってきた。


「咲坂! く、来るな!!」


野本は、俺を刺したショックで硬直したままだ。


「バ、バカ……はやく逃げろ……」


「ああ……よ、義人!! 義人!」


咲坂は完全に取り乱している。


クソ、意識が遠のく……


「に、逃げろ……は、はやく……」


「やだよ……義人……やだよ……血が……すごいよ……」


野本はまだ動かない。


ナイフは脇腹に刺さったままだ。


抜かせるわけにはいかない。


抜いたら終わる。


野本の動きだけは見失うまいと目を凝らすが、視界がにじんでいく……


咲坂の声も遠い……


まずい。このまま落ちたら本当に終わる……


そのときだった。


廊下の奥から、東郷が全力で飛び込んでくる姿が視界の端に映った。


よ、よし……東郷さん……


これで咲坂は助かる……


東郷は一瞬で野本の腕をねじり上げ、完全に制した。


さすがだ。本当に頼りになる……


俺なんて、モブに刺されて倒れるだけなのに……


でもよかった。咲坂はもう大丈夫だ……


安堵した瞬間、急に力が抜けた。


あれ?


そういえば……俺、なんで階段で寝てるんだ?


ん? 咲坂がいる……? なんで泣いてるんだ……?


ああ、おまえすぐ泣くもんな。


でも顔がぼやけてよく見えない……


咲坂? どうした?


声もよく聞こえないぞ……


さっきから、なんでそんなに泣くんだよ……


そうか……俺は野本に刺されたんだったな。


もしかして……俺、死ぬのか……?


ここで――


ここで俺が死んだら……


咲坂はまた“闇”に取り込まれてしまう。


それはダメだろう。


絶対にダメだ……


咲坂には、俺の視線が要る。


だから……ダメだ。


俺はここで終わるわけにはいかない。


咲坂……どうして泣いてる?


顔が見えない。ぼやけてる。


頼む、こっちを向けよ。


その顔を、ちゃんと……見せてくれ。


俺が何より好きな、その顔を。


世界で一番綺麗だと、本気で思ってる……あの笑顔を。


そうだよ……その笑顔。


咲坂は、そうでなきゃいけない。


ずっと、そうやって笑っててほしいんだ。


咲坂……笑えよ。


なあ……笑ってくれよ。


頼むよ……笑えよ。


そうだ……それでいい……。


笑えよ、咲坂……


笑えよ……咲坂……。


咲坂……


咲坂……


咲坂……


咲坂……


さき……さ……


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