居酒屋
英之助と別れてから、いちども姿を見ていない。
幾日が過ぎたのか、数えるのもやめてしまった。しかし、夜になると思い出さずにはいられない。
小三郎は、夜着にくるまって天井を仰いだ。暗闇の中に、最後に会った英之助の顔を思い浮かべる。彼の哀切のことばが頭にこびりついて離れない。
お前の気持ちは、よく分かった――。
自分の気持ち。
小三郎は、今になって自分の気持ちとは一体なんだったのか、と思った。なぜ、彼にそのひとことを言わせたのか。
あの日、英之助は自分を貫こうとした。
あの時、小三郎の頭をよぎったのは、自分ではない者にも同じことをしたという事実であった。身悶えするほど、怒りが湧いてくる。自分がこれほど嫉妬深い男であったことを知らなかった。
巧みな技法とあまい睦言。
小三郎の恥じらいをうまくあしらい、十六の頃に出会った男たちと比べていたのであろうか。
小三郎は頭を抱えた。嗚咽が漏れる。
もう、会えないのだ。自分から手を離した。手を伸ばしてももう届かない。
小三郎は、肩を震わせいつまでも涙を流していた。
明くる日の夜、小三郎は、英之助がよく飲みに行くという居酒屋へ行ってみた。
小三郎と袂を分けてから、安川と英之助の噂がにわかに沸き起こったからだ。
家老の息子と小姓組の男という組み合わせは話題になりやすく、しんじつがまったく見えないほど、入り乱れて聞こえてきた。
二人の様子を少しでも窺えば、なにか分かるかもしれない、というのが小三郎の言いわけであった。
河岸にある居酒屋には軒行燈が出ていた。
夜の七ツ半(午後五時)を過ぎると、ぽつりぽつりと行燈の光が黄色く灯り出す。
目当ての店に近づくと人のざわめく声がした。
縄暖簾をくぐり、中を見渡すと、広い土間の四隅に椅子と飯台が置いてある。奥には小座敷があり、襷掛けした女が数人、立ち動いているのがみえた。
繁盛しているらしく客層は主に町人であった。
武士の姿はちらほらで、和気あいあいとした雰囲気だった。
英之助と安川はいないらしい。すばやく目でたしかめてから安堵した。
店の女が寄って来て、席へ案内してくれるという。小三郎は小座敷でもいいかと聞くと、女は首を傾げた。
「ひとりだからむつかしいか」
「いえ、そうじゃないんですけど、この時分に二人連れのお武家さまがいらして小座敷をお使いになるんです」
「毎日か」
「毎日じゃありませんよ、三日にいちどくらいです。一昨日いらっしゃらなかったから、今夜あたり来ると思いまして」
「そうか」
小三郎は迷った。すると、店の隅から声をかけられた。
「こちらへいらっしゃい。俺もひとりだからさみしくってね、貴方がおいやじゃなければどうぞ」
見かけない浪人の男が手招きをする。女はちょっと眉をしかめたが、小三郎は相席を承知した。
「きれいな顔ですな、まれに見るお顔です」
「は?」
席に着くなり、浪人はまじまじと小三郎の顔を眺めた。
「ここの女たちより貴方の方がべっぴんだ」
小三郎は苦笑して相手にしなかったが、注文を聞きに来た女が、
「失礼な方だわ」
と、軽口を叩いた。
「でも、ほんとうのことだからしかたないわね」
「話が分かるね、お前」
浪人がうれしそうに盃を傾ける。
「けれど、お前もいい目をしてるね、澄んだ瞳だ。まれに見る瞳だ」
先ほどと同じ口調なので、小三郎は吹き出した。
「笑った方がいいですな、笑っていないとしあわせになれないですし」
「久しぶりに笑ったかもしれません」
「久しぶりですか。私も久しぶりに和んだ気持ちになれました」
浪人は年季の入った姿形をしていた。月代は伸びて総髪そのものだし、もう何年も剃刀を当てていないのだろう、顎の鬚もびっしりと顔を覆っている。袴も継ぎはぎだらけであった。
「おいくつですか?」
浪人が訊ねた。
「私ですか? 二十二です」
「お若いですね、ひとまわり違うのだな」
「そうですか」
相手のことを根堀り葉掘り訊ねる小三郎ではないので、受け答えだけして出された酒を少し口につけただけで肴をつまんだ。
浪人はしたたかに酔っていて、いろいろ質問してきたが、小三郎はかるく相槌を打ちながら、外から入って来る客に注意していた。
そのとき、縄暖簾の向こうに二人連れの武士が現れた。小三郎はさっと顔を伏せた。英之助と安川だった。浪人が気づいて、
「どうされました?」
と、不思議そうに聞いた。
「いえ、なんでもありません」
小三郎はそわそわして壁の方に顔を向けた。
二人が一緒にいるところを見て、たちまち後悔していた。
なぜ、ここへ来てみようなどと思ったりしたのだろう。
胸が張り裂けそうなほど痛く、心臓の音が耳元で大きく鳴り響いている。
「顔色が悪いですな、酔いましたな」
浪人が言って女を呼んだ。小三郎は言われるままに懐から紙入れを出し、浪人の分まで勘定を済ませると、出ましょうと言う浪人に従って外へ出た。
二人が小座敷へ入って行くのが見えると、ますます気が滅入った。
「ご自宅まで送りましょうか?」
「結構です。帰れますから」
「そうですか、ご馳走になりました」
「いえ、それでは失礼致します」
くるりと踵を返し、逃げるようにその場を離れた。