嫉妬
人の姿が見えない場所に移動すると、英之助は立ち止まって小三郎の肩をつかんだ。
「籐七はなにを言った」
小三郎は乱れた息を落ち着かせるため大きく息を吐いた。
「お前が…十六の頃には経験を済ませたと……」
英之助が息をのんだ。
「籐七の言ったことはほんとうなのか?」
英之助の顔に苦悩の色が滲んだ。
「それは、ほんとうだ……。確かに、お前の知らない悪所をうろついていた時期があった。だが、それは理由があってのことだ」
「理由とはなんだ…」
「お前だ、小三郎」
「え――?」
「お前に気持ちを打ち明けられず悶々とする日々を過ごしていた。ああするしかなかった」
小三郎は真っ青になって英之助を見上げた。握りしめたこぶしがぶるぶると震えた。
自分がいったいなにに対して腹を立てているのか分からなくなった。
「元服してすぐのことだ。籐七にはうるさく言われたが、幼かった俺にはどうすることもできなかった。だが、前に言った通り俺はお前しか愛せないし、一生独身でいると――」
「どうして打ち明けてくれなかったのだ」
「え?」
英之助が怪訝な顔で小三郎を見た。
「俺は、お前の友だちではないのか? 友だちが苦しんでいることを知っていたら、俺だって――」
「お前はただの友だちじゃないっ」
英之助が見たこともないほどこわい顔で叫んだ。
「お前が欲しくて我慢できなかったから、ああするしかなかったんだ」
「俺のせいだと言うのか」
「違うっ」
英之助がかぶりを振って、小三郎の肩をつかんだ。
「そうじゃない。どう言えば分かってもらえるんだ。単純な話じゃないか」
「単純じゃないっ」
十六の頃、自分はなにをしていた? 学問所に通い、道場へ通い、剣の道も学問も必死でやったが、特別に抜きんでたうつわではなかった。その反面、ぐんぐんと大きくなっていく英之助にあこがれていた。
その彼が、自分ではない他の誰かと体の関係にあったというのか。知らない誰かを組み敷いて、慾望のはけ口にしていたというのか。
混乱でなにもかもが信じられなくなる。口づけひとつで喜びに満ち溢れ、籐七に追いつめられながらも、英之助ひとすじに悩んでいた自分は一体なんなのか。
誰でもいいのだろうか――。
冷たい汗が背中を流れた。
英之助は早急にひとつになりたがっている。
十六の頃、悪所通いをしていた彼は、自分ではない相手と関係を結んでいた。もしかしたら、自分ではなくてもいいのではないのか。
籐七の、今だけだという言葉を思い出していた。
苦しい。英之助のことを考えると、苦しくてたまらなくなる。
「小三郎、なにを考えている」
頭を抱えた小三郎に、英之助が不安そうに言った。
「なかったことに――」
「え?」
「お前との関係はなかったことにしてくれ」
心臓の音がうるさい。だが、開いた口は容易には閉じなかった。
「お前についていくと誓ったが、あれはなかったことにしてくれ」
「なんだと」
瞬間、英之助の目はぎらぎらと光り、その強さに小三郎は身震いをした。
「ほんきで言ったのか」
「俺はほんきだ」
英之助の目がかっと見開いたかと思うと、すさまじい力で衿をつかまれた。
「俺は言ったはずだぞ、お前以外の人間を愛することはできないと」
「前みたいに友だちに戻ろう」
「友だちに戻るだと? なにを言っている。戻れるわけがない」
「聞いてくれなければ、袂を分かつつもりだ」
英之助は目を見開いた。
「籐七がなにを言ったか知らないが、俺を信じてくれないのか」
小三郎は唇を真横に結んだまま、首を振った。
「籐七は関係ない、俺が自分で考えたんだ」
「小三郎っ」
英之助がふたたび力を込めて、衿元を締め上げる。
「いいか、よく聞け、俺は何度だって言ってやる。お前の代わりなんかいない、生涯、お前ひとりを愛する。俺は一生独身でいる」
「それが迷惑だと言っているんだっ」
「小三郎っ」
ぐいっと衿をつかまれ、地面にたたきつけられた。
「離せ、英之助」
「撤回するまで離さない。俺は認めない」
「離してくれ」
「分からないのかっ」
仰向きに倒れた小三郎の腹の上に、英之助はまたがってきた。
「なにをするっ」
「絶対に俺はお前を手放すつもりはないっ」
あっと思った時、急所を握られた。
小三郎は、下半身に痛みを感じて強く目を閉じた。
「なにを……」
初めて触れられた部分に小三郎はびくりと体を震わせた。
英之助が合意もなく貫こうとしている。
このままではいけない。小三郎は飛びそうになる意識を支えながら、脇差を探した。倒れた拍子にどこかへ飛んだらしい、手を伸ばして夢中で探すと、頭上に落ちている短刀に気づいた。取ろうとすると、英之助が翻弄してくる。
「やめっ…英之助…っ」
脇差から手が離れる。懇願したが、英之助は苦しそうな顔で見つめ返した。
涙で濡れた顔がひりひりした。
「小三郎……」
英之助は小さく呟いた。
「ま、待て…」
小三郎は、なんとか拒もうと再び手を上げた。脇差に手が当たる。
英之助が容赦なく貫こうとしようとした時、必死で腕を伸ばし手に取った。すらりと刀身を抜き、自分の首筋に当てた。
「そ、それ以上のことを…やると、俺は……のどを突く」
英之助は茫然とした顔をしていた。
「腕をどけてくれ…」
英之助は上体を起こし、小三郎から離れた。
目が合うと、
「小三郎……」
と呟いて、手を震わせながら小三郎の乱れた着物を搔きあわせた。
「……お前の気持ちは……よく、分かった…」
しぼり出すような声がした。
その言葉を聞いたとたん、自分が取り返しのつかないことをしたのだと悟った。
英之助は立ち上がろうとした時、揺らめいて地面に手を突いた。
小三郎は声を上げそうになったが、英之助は幽霊のように立ち上がり、肩を落として歩き出した。
小三郎はたまらなくなり、その背中にすがろうとした。が、英之助の哀切の言葉を思い出すと、足がすくんだ。
これでよかったのだ。自分は間違っていない。
小三郎は、英之助の後ろ姿を見つめたまま、自分に言い聞かせた。