第一章『梗子』
【東都新聞 12月24日朝刊より抜粋】
特別養護老人ホームで火災発生 10名死亡
2022年12月23日、S市内の特別養護老人ホームにおいて、大規模な火災が発生しました。
出火場所は職員用の休憩室兼更衣室とされており、火災発生当時、この部屋には複数の職員が滞在していたとみられています。
現場検証の結果、部屋は施錠されていなかったことが確認されていますが、逃げ出して助かった者はいませんでした。この火災により、10名が死亡したことが明らかになっています。消防当局の発表によれば、亡くなった10名のうち1名については、身元がまだ判明していない状況です。
さらに、この施設にはスプリンクラーが設置されていたものの、火災時に作動しなかったことが確認されており、その原因について現在詳細な調査が進められています。スプリンクラーの未作動が被害拡大にどの程度影響を及ぼしたのかについても、今後の重要な検証課題となっています。
1
駐輪場にミニベロを停め、ベースボールキャップの下からオーバーサイズのTシャツの袖で吉岡梗子は額の汗を拭った。走っている時は良いが自転車を降りると一気に夏の日差しを浴び汗が吹き出してしまう。早く冷房の効いた事務所に行こうと梗子は小走りで施設の玄関に向かった。
「吉岡さん出勤前にごめんなさい。すぐフロア来てくれる? ちょっとバタバタしてて」
事務所でタイムカードを押した梗子は同僚の介護スタッフである島田里美に声をかけられた。
「え、わかった。着替えてすぐ行くね」
梗子は返事をしながら更衣室へ向かった。
始業の二十分前である。昨日からの申し送りの確認や今日の業務の流れと全体の把握のためにいつも梗子は早めの出社を心掛けている。
リーダーや主任という肩書は付いていないが、他店舗から異動してきた主任や管理者と違い職場での勤務歴が誰よりも長いため、梗子は何かと頼まれたり相談されたりすることが多い。困った時は梗子に聞けばなんでもわかるというような暗黙の体制が職場内で出来上がっていた。
梗子はこの現状に不満があるわけではない。もちろん仕事が楽に越したことはないが、暇と思うよりは動いていたいという気持ちの方が強く、多少の無理はあっても何でも引き受けてしまう。頼みを受け入れたために梗子が損をしてしまうということも少なくなかった。
更衣室のロッカーを開けると会社からもらった書類や研修資料がバラバラと床に散乱した。中には去年の健康診断の結果通知書も混ざっていた。見るたびに梗子は早く持って帰らなきゃなと思うのだが、ついついロッカーに溜め込んでしまう。散らばった書類をまとめ梗子はロッカーに――梗子なりに整えた状態で――戻した。
持参のショルダーバッグからユニホームのポロシャツを取り出し身に着けてから、更衣室を出る前に壁に取り付けられた鏡を観ながら癖毛の茶色いショートヘアをハーフアップに束ね身だしなみの再確認を行い梗子はフロアに向かった。
フロアでは昨日施設に宿泊した利用者四名と朝一で送迎した二名の計六名がテーブルの椅子に座り各々くつろいでいた。一目ではそんなにバタバタしているようでもない。先程梗子に声をかけたパートの島田が一人慌てていた。
島田は五十代の勤続一年以上になるスタッフである。仕事の動きは申し分ないがたまに何かの拍子にパニックになり慌ててしまう場面もある。今日も何かあったのだろうと梗子はフロアのカウンターに置いてある本日の予定が書かれた日誌に目を通した。
ふと横を見ると、フロア全体が見渡せる位置に設置されている記録入力用のパソコンの前に野村華が座っていることに気付いた。
――なんだ野村さんいるじゃん。
華は梗子と同じ正社員で今年の一月に他施設から人事異動でやってきた後輩である。夜勤明けなのできっと夜間記録を入力しているのだろう。目の前でパートスタッフがバタバタしているのを見ているのだから何かしらフォローしてあげてもいいではないかと思いつつ、そんな器用なことは出来ないかと梗子は諦めてもいた。すでに夜勤の終了時間は過ぎているため無理に残業もさせたくない。
後輩の育成は先輩としての使命だが、華に関してはどのように育てていったらいいか悩んでいた。見た目が悪いからやめるように先日注意したユニホームの袖まくりも、忘れたのか華は今日もしっかり肩まで巻くって色白の腕を露出させていた。
「お疲れさま」
梗子は華に声をかけた。
華はちらりと梗子を見ると小さな声―本当に聞き取れない―で挨拶を返した。同時に華は罰が悪そうな表情でまくり上げていたポロシャツの袖を下ろした。
華は胸まである長い黒髪を後ろで束ねている。薄い眉毛に猫目の一重瞼、そして肌は雪のように真っ白である。梗子の程よく焼けた小麦色の肌と比べるとまるでオセロのように華は白い。仕事中以外は髪を解いているため華と目が合うと一瞬身構えてしまう人も多いだろう。華自身にはそんなつもりはないのだろうが外見が与える印象は強い。だがこの職場では華に対して見た目の奇妙さでどうこう言うスタッフはいないと梗子は確信している。それが梗子のここでの働きやすさの理由の一つでもあった。
梗子は再び日誌に目を戻し瞬時に全体の流れを頭の中で組み立て、島田の元へと近づいて行った。
「もー野村さん夜勤で何も準備してくれてなくて!」
島田は梗子が来るなり言った。
「ポットのお湯も沸かしてないしベッドも整えてないし洗い物も残してて! トイレにも連れて行ってないし、ああこれからお昼ご飯準備しなきゃだし!」
休まず一気に喋る島田の目が若干泳いでいるのに梗子は気が付いた。このような目をしている時は必ずと言っていいほど島田はパニックを起こしているのだ。
「そうだったんだ。じゃあ私フロア見ながらお昼作るの代わりますよ。島田さんはお風呂介助進めてくれる?」
とりあえずすべきことを一つに絞ってあげよう。
「ありがとう。じゃあお風呂準備してくる」
言うなり島田は浴室に駆けて行った。
パソコンの方を見ると華は既にいなかった。
「吉岡さーん」
フロアからの呼び声に梗子は目を向けると昨日宿泊利用をされた女性利用者の落合が梗子に手招きをしていた。
「どうかしましたか?」
と聞きながら梗子は落合に近づいた。
「昨日の夜なんだけどさ。私滅多に夜トイレに起きたりしないんだけど、なんだか夕べは眠れなくてねえ」
そう語りかける落合の座る椅子の横で梗子はしゃがんで上目使いに話を聞いた。
「昨日の夜の子、なんだか気味悪いねえ」
「気味悪い?」
「なんだか知らないけどさ、真っ暗の中でテーブルにボール置いてそれに向かって両手をずーっとかざしてたんよ。念でもこめりゃ動くとでも思ったんかねえ」
「そんなことがあったんですか」
相槌を打ち、昨日夜勤だった華が暗闇でボールに念を送る姿を想像する。華がオカルトに興味があるという噂を以前聞いたことがあったのであり得ない話ではないかなとも思うが、落合という女性利用者には軽度の認知症があり夜間は頻回にトイレに起きてくることも知っているため、信じるようで本気にはしないようにした。
「吉岡さん彼氏できたかい?」
唐突に話題を切り替えた落合の質問に梗子は瞬時に返事ができず「え?」と聞き返した。
「もうじき三十でしょう。そろそろ結婚して子供産まないとどんどん歳取ってくよ。私なんか二十五の時にはもう二人も子供育ててたよ」
落合は梗子と会話をすると毎回この話題を持ち出してくる。
「なかなか出会いがなくて。私ルーズだからモテないんですよ」
梗子は笑いながらわざとらしく頭を叩いておどけて見せた。
自分の人生はとても「普通」だと梗子は考えたことがある。
社交的な性格でいじめられた経験もない。両親が離婚しているわけでもないし親戚に犯罪者がいるわけでもない。
普通に友達もいる。
高校の時は周りの影響もあり黒めの化粧をして紙も金髪にしていたが、そのあと普通に大学も出た。
普通に就職をし、
普通に恋愛経験も積んできた。
普通――。
普通とはなんだろう。
梗子は自身が感じているこの「普通」の生活に、時折何か足りないものがあるような気がしている。
足りないもの。
何が不満だというのだろう。
仕事だろうか。
マンネリ化している?
でも仕事自体は好きだ。日々楽しんでいると思う。
高齢者が好きで、いつまでも本人が本人らしく生活できるように支えたいと思ったからこの介護の道に進んだ。出世は望まない。ずっと現場でスタッフとのチームワークで奮闘しながら仕事として高齢者の生活を支えていきたい。職場が家から近いのが続けられている理由の一つでもある。
結婚――か?
なんだかんだ仕事を続けて現在梗子は二十八歳になる。気が付けばもう三年程彼氏がいない。
最後は何故別れたのだったか。覚えてない。
出会いたければマッチングアプリに登録するなりイベントに出向くなりするのが良いのだろうか。でも梗子の中で今は仕事の方が優先順位が高い。
――足りないもの。
梗子は自身が感じる『足りない』という気持ちを埋めるため、ついつい衝動買いをしてしまうという癖を持っていた。それは主に洋服である。休日は専ら駅前にショッピングへ出かける。気に入ったという感情よりも欲しいという欲求が強くすぐに購入してしまうのだ。そんな衝動から梗子の家は洋服で溢れている。買っても一度も着ないという服も何着かある。処分しなければと考えることもあるのだが一向に進まない。職場のロッカーもそうだが、梗子は所謂『片づけられない人間』なのである。
「梗子おはよう!」
そう声をかけられ振り返ると、フロアの玄関から中へ介護主任の飯田美由紀が利用者二名と共に歩いて来ているところだった。
「おはようございます!」
元気に利用者に挨拶をした梗子は二人を誘導する美由紀に代わってフロアに設置してある洗面台へと誘導し手洗いとうがいを促した。
「おはようございます」
と今度は違う声がしたので振り返ると、見知らぬ男性がユニホームを着て美由紀の後ろに立っていた。
「彼、昨日から入った藤本悠太さん。梗子教育係になってくれる?」
美由紀に紹介され藤本悠太という男性が梗子に「よろしくお願いします」と頭を下げた。
「わかった。吉岡です。こちらこそよろしくお願いします」
梗子が美由紀と悠太の両方に返事を返すと、
「ごめんね急に。じゃあ私は次の送迎に行ってくるからフロア業務教えておいて」
と言って美由紀は玄関に向かった。
フロアに梗子と悠太が残った。悠太の年齢は自分と同じか少し下くらいだろうと梗子は想像する。細身で梗子より背が高い。といっても梗子の身長は百五十六しかないのでほとんどの人が自分より背が高いのだが。彼の顔立ちは整っている方だと思った。「かっこいい」と呼ばれる部類に入るだろう。
梗子は先程洗面台に案内した利用者の方を振り返り「終わりましたか?」と言って手洗いを済ませた利用者をテーブル席へと案内した。
「さて、藤本さん。何からやろうかね」
梗子は悠太を見上げて笑顔を作った。悠太も小さく笑顔で返す。第一印象だけだが、梗子は悠太のその素直そうな笑顔に好感を持った。
2
「とりあえず乾杯!」
美由紀の掛け声に梗子もビールジョッキを持ち上げた。
職場最寄り駅の居酒屋のテーブル席。四人掛けの席で梗子の隣に美由紀が座りその向かいに悠太が座る構図だ。日々最高気温が上がっていくこの頃。暑気払いをしようと美由紀の呼びかけで急遽新人歓迎会も兼ねた飲み会が開催されることになったのだ。突然の開催のためパートの主婦スタッフたちは都合がつけられず不参加となった。美由紀に頼まれ梗子は華にも声をかけたが、夜勤明けで疲れているという理由に断られた。といっても華はこのような会に一度も参加したことなどないが。結果三人だけのこぢんまりした会になってしまったというわけだ。
平日の中日と言うのに店内はそれなりに客が入っていた。最近は店内での喫煙が禁止され昔に比べるとかなり店内の空気は良くなったと梗子は思う。以前はそこら中で煙草の煙が充満していたものだ。
梗子は煙草を吸わないが以前の彼氏が喫煙者であったため毛嫌いしているわけでもない。吸うより吸わない方が良いと思う程度である。このお店は地下一階に位置していた。地上から階段を下ったところに入り口があり、その手前に小さな灰皿が一台設置されていたのを覚えている。
「夏はビールだね!」
乾杯後に勢いよくジョッキに口をつけた美由紀が言った。ジョッキを持つ美由紀のTシャツの袖から伸びる二の腕には適度に筋肉が付いていることが見て取れる。
美由紀はスポーツジムに通っている。仕事以外に打ち込むものや趣味を持っていない梗子は充実した美由紀の生活と何もない自分の「普通」の生活を比べて少しだけ恥ずかしくなることもある。美由紀のタイトなTシャツで強調された張りのある胸も梗子とは全然違う。梗子の天然パーマで茶色く染めたボブはもう何年も変わらない。美由紀のように思いきり短く切ってみようかと思ったこともあるが結局は勇気が出ず何も変えられなかった。
「藤本さん楽しんでる?」
美由紀がトイレに立った時梗子は悠太に聞いた。美由紀の思い付きで半ば無理矢理誘ったようなものなので梗子は彼の反応が気になっていた。
「ええ。楽しいですよ。でもあまりお酒飲めなくて」
「私もお酒は好きだけど弱いのよね。でもほろ酔いになるのは好き」
「酔った吉岡さんも見てみたいですね」
「え?」
悠太の言葉に顔を向けて言うと目が合った梗子は少しだけドキッとした。その時美由紀が席に戻ってきた。
「さあ、いっぱい出してリセットしたからもっと飲むよ!」
美由紀はそう言いながら注文用のタッチパネルを手に取った。
「ちょっと汚いこと言わないでよ」
「いいじゃない、無礼講よ」
その後も梗子は美由紀に合わせながらお酒を楽しんだ。そして時折悠太をチラチラ見ながら様子をうかがう。
――大丈夫かな。
――本当に楽しんでいるのかな。
そう思いながら梗子は頭の中で自らの首を横に振る。こうやってすぐ人を甘やかしてしまうから損を見ることが多いのだ。
「でも華ってホントわかんないわ。一回くらい誘いに乗っても良いのに。ずっと変わらないのよ、あの子」
「ずっとって、美由紀は前から面識あったの?」
「華がいた前の施設にさ、人手が足りないからって何度かヘルプに行ったことあんのよ。その時からああいう暗い感じが全然変わってない。あの時さ、華は職場でちょっといじめられてたみたいでね。良くないって相手に言ったんだけど、なんだかもうそういう派閥みたいなのあって、大きい施設はこれだから嫌だって思ったよ。その後にあの事故が起きて、華がうちの事業所に来るって聞いた時はもう絶対あんないじめみたいなことのない施設にする、って思ったよ」
「事故って?」
「え、梗子知らなかったっけ? 華がいた施設で起こった火事の事。って言うか、梗子も一回だけヘルプ行ったことあるじゃない。私がシフト組んでるんだから覚えてるよ。なんか休憩室のファンヒーターが突然爆発したんだって。それ以来うちの法人はファンヒーター禁止になったんだよ。あれで何人かスタッフ亡くなったみたいだし」
最後は小声になって美由紀は言った。
「そうだったんだ」
「そうだよー。ま、華は変わらないけど梗子も変わらないっちゃ変わらないよね。いつまでも幼いっていうか」
と言って美由紀は笑う。
「うるさいなあ」
と返しながら梗子は自分自身を振り返った。
変わらない。
変わらない。
変わらない。
――変わりたい。
変えたいと思う。
美由紀を見る。
明るく、自分のしたいことに迷いなどなく前をしっかりと見て生きている。
悠太を見る。
先輩二人の会話にしずかに相槌を打ち、場に溶け込んでいた。
二人からどう見えているのだろう。二人にとって、私はどんな立ち位置にいるのだろう。存在価値はどこにあるのだろう。
何が――。
――何が足りないのだろう。
「梗子! 今日は私の奢り!」
何杯飲んだかわからないが、美由紀はかなり酔いが回っているようだ。梗子は美由紀にもたれかかられた。
「美由紀相当酔ってるよ、大丈夫?」
そろそろ帰ろうよと梗子が提案し三人はレジに向かった。
「あれー、お金がないよ梗子お」
レジの前で自らの財布を見ながら美由紀が甘えた声を出した。
「良いよ。私が立て替えとくよ。明日職場で返して」
美由紀を支えながら梗子はクレジットカードで会計を済ませた。
「藤本さんは大丈夫? 一人で帰れる?」
後ろで静かに佇む悠太に声をかけた梗子はすぐさま質問を後悔した。相手は子供ではないのだ。
「大丈夫です」と悠太は微笑んで返す。
「じゃあ気を付けてね。私は美由紀をタクシーまで送ってくから」
そう言って梗子はふと店の外に目を向けると、入り口の外の喫煙スペースで煙草を吸っている女性と目が合った。
その女性は腹筋が見えるほど丈の短いノースリーブTシャツとタイトなブラックデニムを身に着けていた。スレンダーで露出された腹部は綺麗にくびれている。パーマのかかった金色の髪は胸まで長い。一瞬外国人かと思ったがどうやら日本人のようだ。目が合った彼女は口から煙草の白い煙を吐き出し煙草を持たない方の手で髪の毛をかき上げた。
そして、梗子に向かってウインクをすると妖艶に微笑んで見せた。
梗子は完全に見惚れていた。
「もう一軒行こう!」
美由紀の声に我に返った梗子はその誘いを断り、美由紀を支えながら悠太と共に店を出た。駅前で悠太と別れ、美由紀をタクシーに乗せ、梗子は自動販売機でミネラルウォーターを購入し駅前の駐輪場に停めた自転車を取りに戻った。
家に着きシャワーを浴びてパジャマに着替え、ドライヤーで髪を乾かしてからベッドに横になり目を閉じた時、居酒屋で見かけた金髪の女性の微笑んだ唇が目に浮かんできた。
梗子はいつもかけて寝るだけの毛布を両足で挟むと、火照る体に酔いしれてそれを強く抱きしめて眠りについた。
3
「おつかれっす!」
翌日、梗子は職場の休憩室に入ると同僚のパートスタッフ及川に勢い良く挨拶をされた。二十代前半の男性である。梗子も挨拶を返す。休憩室には美由紀の姿もあった。
「ねえ梗子、及川さんバンドやってるんだって! 知ってた?」
「ああ、そういえばそんなこと聞いた気もする」
言いながら梗子は二人の座るテーブルに同席した。
「これ見てくださいよ。俺がいつもライブやってるライブハウスが雑誌に出て、常連のバンドが特集組まれたんす。俺のバンドもその常連の中に入れたんすよ!」
興奮しながら及川は手にしていた音楽雑誌を開いて梗子に見せた。「ここです」と指さしながら及川は自身のバンドの紹介記事をアピールした。
「へー。すごいね」
「梗子、今度ライブ見に行ってみようよ」と美由紀。
「そうだね、休みが合えばね」
言いながら梗子は雑誌内の他のバンドの写真を見渡した。その中に梗子が目を引いたバンドがあった。
男女六人組。女性は一人である。その紅一点の女性は何やらひらひらした赤いフレアスカートを履き、同じ生地の赤いブラを身に着けていた。周りの男性陣はスーツ姿だった。とにかく一際女性が目立つような写り方をしている。だが梗子が目を引いたのは衣装のせいだけではない。その女性は、昨日美由紀と共に暑気払いを行った居酒屋で梗子にウインクをしてきた女性だったのだ。その夜、梗子は家に帰ってから彼女の顔を思い出し身体を熱くしていた。
そして今回も、雑誌の中で見つけた彼女に対し梗子の胸は一瞬にして燃えるように熱くなった―。
後日、及川が組んでいるバンドのライブを観に行こうと梗子は美由紀から誘われた。同じく誘われた華も承諾したと聞いた梗子は、珍しいこともあるもんだと思った。
職場の正社員三人が揃って休日に外出をすることなど今までなかったので、職場は大丈夫だろうかという梗子の心配を美由紀は「気にしてたら仕方ない」と一蹴するのだった。
待ち合わせ場所に早く着いた梗子は二人の到着を待った。最初にやって来たのは美由紀である。スポーツジムで鍛えられた筋肉がTシャツの袖から伸びる腕に表れ、相変わらずたくましいなと梗子は感じた。
その後時間ピッタリにやってきた華は、長袖の白いリネンシャツに大きなチェック柄のロングスカートを履いていた。梗子が知る限り華の普段着でこの格好以外の服を見たことがない。長い黒髪を下ろし、猫背のため表情もはっきりとわからない。
「華さあ、服それ以外に持ってないの?」
美由紀が切り込む。梗子も思っていたことだが、直球で質問する美由紀に驚いた。華は美由紀を睨み付ける。いや睨んだのではないかもしれない。眉毛の薄い華が顔を向けるだけで睨んだような印象を受けてしまうのだ。
「まあ別にいいけどさ。不潔な雰囲気や臭いもないし」
美由紀の意見には梗子も同意見である。同じ服装ばかりだが汚らしくはないのだ。梗子は、華は同じ服を何着も持っているのではないかと予想している。
美由紀の先導で「CRASH」というライブハウスに到着した梗子たちはハウス内のバーカウンターで梗子と美由紀はカクテルを、華はジュースを注文した。すでに一組目のライブが始まっているところだった。
「華はお酒飲めなかったっけ?」と美由紀。
「酔うと集中力が切れるので飲まないようにしてます」
華はそう返したが声が小さく美由紀には届かなかったようだ。梗子が通訳して美由紀に教える。「ふうん」とだけ美由紀は返事をした。
及川バンドは本日出演する四組中の三番目ということだった。美由紀は及川の出演時間に合わせて行こうと提案したが、梗子は気になるバンドがあるからと時間を変更してもらった。そのバンドとは及川に見せてもらった雑誌で一際梗子の目を引いた六人組のバンドである。ロカロカという名のバンドは及川バンドのステージの一組前に設定されていたのだ。それをどうしても見てみたいと梗子が美由紀に頼み込み、現在に至る。
一組目のライブが終わり、入れ違いにロカロカのメンバーがステージに現れると会場から歓声が上がった。ファンがついているらしい。ステージに出たのは男性だけで、あの女性の姿はなかった。
「次が梗子の見たかったバンドだね」
美由紀が言うと梗子は「うん」と返事をする。その時華の視線を感じたが、特に気にすることなくステージに目を向ける。
ラテン調のギターのカッティングと共にベース、キーボード、ドラムが入り込む。このイントロが流れると再び会場が沸いた。そして、サックスを手にしてセンターに立ちラップを口ずさむ男性の誘いによってステージ脇から姿を現した女性に向けて、更に会場の熱気が熱くなる気配を梗子は感じ取った。梗子も一瞬にして彼女に引き込まれる感覚に陥った。彼女のダンス、歌、仕草全てに梗子は吸い込まれた。
ロカロカは全六曲を披露しステージを後にした。あっという間だった。
「次だね。及川さんのバンド」
美由紀に声を掛けられ梗子は我に返った。
「そうだね。ちょっと私トイレ行ってくる」
梗子は美由紀にそう伝え会場外にあるトイレに入った。用を足してトイレから出てきた時、梗子は先程までステージに立っていたロカロカのボーカルの女性と鉢合わせた。
女性と目が合う。
「探してた」
梗子は目の前に立つ金髪の女性に言われた言葉に驚いて黙っていると、突然彼女にキスをされた。
抵抗しようとは思わなかった。
身体が熱く、まるで鉄板に乗せられたバターのように溶けていくような感覚に陥る。
女性がゆっくりと唇を離すと、二人の唇と唇の間に糸が引いた。女性はその糸を見て微笑んだ。梗子も、つられて微笑む。
――身体が熱い。
「二人でどこか行かない?」
女性に言われた梗子は、ゆっくりと首を縦に動かした。
ずっと感じていた、自分に足りない何かを梗子は目の前の女性に求め始めていた。
7月の終わりに出会ったこの金髪の女性のおかげで、きっと8月は例年より熱い日々になるのではないかと梗子は胸が高まっていた。
*
【毎朝新聞デジタルより抜粋】
【速報】Ⅿ市ライブハウス「CRASH」で大規模爆発
8月30日、Ⅿ市にあるライブハウス「CRASH」で大規模な火災が発生しました。現場では爆発音も確認されており、現在も消火活動が続けられています。
火災発生時、会場ではインディーズバンドのライブが行われており、多くの観客がいた模様ですが、正確な人数や被害の規模はまだ判明していません。周辺住民の話によると、会場内から多数の悲鳴が聞こえたとのことです。
消防や警察が現地で調査を進めており、詳しい情報が入り次第お伝えします。




