第1話「静かに暮らしたい」
目が覚めたとき、最初に思ったのは――もう働かなくていい、という安堵だった。
次に思ったのは、やけに視界が白いな、ということ。
「……ここ、どこだ」
周囲は、何もない空間だった。床も壁も天井も曖昧で、ただ白が広がっている。現実感がない。というより、現実じゃないとしか思えない。
そして、すぐに思い出した。
連日の残業。終電。仮眠。上司の怒声。終わらない業務。
気づけば机に突っ伏していて――そのまま意識が途切れた。
「……ああ、死んだのか」
妙に納得した。
すると、どこからともなく声が響いた。
「理解が早くて助かる」
「うわっ!?」
振り返ると、いつの間にかそこに“人の形をした何か”が立っていた。光をまとっていて、顔もよく見えない。
「まあ、いわゆる神だと思ってくれればいい」
「雑だな説明……」
思わずツッコむ。だが、相手は気にした様子もない。
「君は過労で死んだ。よくある話だ」
「よくあってたまるか」
「なので、第二の人生を用意した」
さらっととんでもないことを言われた。
「異世界だ。好きに生きるといい」
「……仕事は?」
「ない」
「ノルマは?」
「ない」
「残業は?」
「概念がない」
主人公はしばらく黙り込んだ。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「行きます」
即答だった。
神は満足げにうなずく。
「では能力を与えよう。戦闘系スキルは――」
「いらないです」
「おや?」
「戦う気はないので」
きっぱりと言い切る。
「もう争いとか競争とか、そういうのはいいです。静かに暮らしたい」
「なるほど。では生活系スキルを極めた形で付与する」
「それで十分です」
神は軽く手を振った。
「料理、建築、農業、裁縫、交渉、その他諸々。すべて最高水準だ」
「……盛りすぎでは?」
「気にするな」
気にするしかない気もしたが、深く考えるのはやめた。
「では行ってこい」
その言葉と同時に、視界が暗転する。
落ちるような感覚。
そして――
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次に目を開けたとき、そこは森だった。
「……ほんとに来たな」
青い空。木々のざわめき。土の匂い。風の感触。
どれもが妙に鮮明で、夢ではないと理解できる。
とりあえず、深呼吸をひとつ。
「……いいな」
静かだった。
機械音も、人の声も、怒鳴り声もない。
ただ風と葉の音だけがある。
「ここにしよう」
人の気配がない場所を探して、歩き出す。
しばらく進むと、ひとつの建物が目に入った。
「小屋……か?」
近づいてみる。
古びた木造の小屋。壁は歪み、屋根は一部崩れている。扉も半分外れかけていた。
「……ボロいな」
だが、雨風はしのげそうだ。
何より――
「誰もいない」
それが重要だった。
「よし、ここを使おう」
決めた。
拠点はここだ。
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まずは修理から始める。
「えーと……木材は……」
周囲の倒木を見つけて、適当に拾う。
釘の代わりになりそうなものを探し、屋根の崩れた部分に当ててみる。
すると――
「……あれ?」
手を動かした瞬間、妙にしっくりきた。
どうすればいいか“わかる”。
どの木をどこに置けば安定するか、力のかかり方、補強の仕方。頭で考える前に、身体が動く。
「これがスキルってやつか……?」
半信半疑のまま作業を続ける。
気づけば、崩れていた屋根はしっかりと組み直されていた。
壁の隙間も塞がれ、扉もきちんと取り付けられている。
ついでに床も整え、簡単な寝床まで作った。
「……こんなもんか」
小屋の中を見回す。
最初に見たときとは別物になっていた。風も入らないし、日差しも程よく差し込む。
かなり快適だ。
「まあ、最低限はできたな」
本人の認識はその程度だった。
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外に出て、もう一度小屋を見る。
歪みのない構造。無駄のない配置。周囲の地形に合わせた安定設計。
本来なら、熟練の職人でも時間をかけて作るレベルの出来だが――
「これで十分だな」
本人は満足げにうなずいた。
その瞬間、森の空気がわずかに変わる。
小屋を中心に、静けさが広がった。
風が穏やかになり、遠くで鳴いていた獣の気配が消える。
まるで、この場所そのものが“整えられた”かのように。
だが――
「さて、次は水だな」
本人はまったく気づいていなかった。
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こうして、彼のスローライフは始まった。
静かに暮らすための、ただの準備。
――そのはずだった。




