デイジーの村で 8
「あ、あああ……」
まだ幼さを残す少年の顔がくしゃっと歪み、茶色の瞳にみるみる水の膜が張った。崩れ落ちるように地面に膝をつくと、俯いた喉の奥からしゃがれた声を絞り出す。
「俺があんなことしたから……」
ぽたり、ぽたりと、涙が乾いた土の色を変えていく。
「俺があんたのこと刺したりしたから……きっとそのとき、どうにかなったんだ。後ろから不意打ちしたから、あんた、手もつけずに酷い転び方して──なのに、無理して歌ってくれたんだろう?」
「……」
そういえばあのとき自分は喉を打ったんだ、とリーフィアスは思い出した。だから声が出なくて、穢魔の風の中で──。
「ごめん、ごめんよ、リーフィアス……あんたバルドなのに、立派なバルドなのに、俺──祖父さんもみんないなくなって、独りっきりになっちまったからって、逆恨みしてあんなこと……声を、俺が声を出なくして、あんなにきれいな歌声を──」
トイヴォはリーフィアスに向かって、土に額を擦りつけるようにした。くぐもった声が、拙い言葉で悔恨の情を伝えてくる。
「世の中には、取り返しのつかないことがある、だからどんなに頭にくることがあっても、大きく息を吸って吐いて気持ちを落ち着けるようにしなさい、って、祖父さんにも言われてたのに、俺、何てことを……ごめんなさい、ごめんなさい、リーフィアス」
「……」
少年の啜り泣く声を遠く聞きながら、リーフィアスは放心していた。
──声が、出ない?
──力が乗りやすくてとても良い声だと、師匠に褒められた、私の声が?
お師匠様、とリーフィアスは呼びかけようとした。唇からはやはり息が洩れるだけで、声にならない──。今は何処の空の下にいるのかわからない師のシダリアス。子供の頃のように彼の膝に縋って、自分もトイヴォのように手放しで泣きたかった。
夢が、失われたのだ。
お師匠様のように歌えるようになりたい──それがリーフィアスの子供の頃からの夢だった。万物の命の根源に届くような力強い歌声、緑の弥栄を讃える祝詞。美しい響き、繊細な抑揚。風と絡み合いながら、高く空に昇っていくような言霊の韻律──。シダリアスは、リーフィアスの憧れだった。
──俺はあなたのように……
なりたかった──。心で、ただそう呟く。眼から熱いものが零れて落ちそうで、必死に耐え、だが堪えきれずに閉じた瞼の奥、あの日のことが甦る。吟遊詩人の歌を、初めて聞いたあの日のことを、リーフィアスはつい昨日のことのように鮮明に思い出せる。
そのとき、幼いリーフィアスは海辺の穢魔の地で死にかけていた。元から貧しい村で、食料の蓄えも少なく、穢魔の風、禍つ風が吹いたあとは体力の枯れた村人たちは漁に出ることもできず、飢えて気力も萎え枯れ、皆死んでしまった。──リーフィアスが命を繋げることができたのは、たまたま災厄の直前に収穫していたハマナシの実を、両親が自分たちのぶんまで食べさせてくれたからだ。
それも尽き、ひもじさに耐えかねて、リーフィアスは外に出た。食べられるものを探そうと思ったのだ。だが、色褪せてしまった海を見下ろす低い崖の上、あれだけたくさんの実を生らせていたハマナシは姿を消しており、這うようにして、ようやくそこまで来たリーフィアスを絶望させた。──無理をした身体には、もう力が入らなかった。
何もなくなった浜はのっぺりとして、寄せる波は異様に単調で、生き物の気配を感じられない。木が立ち枯れるように死んでいった父母や村の大人たち、いつも一緒に遊んでいた幼馴染たちの顔を思い出し、どうして、どうしてと問う声に応えはない。
今なら知っている“理不尽”という言葉、それを感じて悔しくて涙が出た。そして、もはや遠い風の音以外、何も聞こえなくなったとき──。
澄んだきれいな声に、消えかけていた意識が繋ぎ留められた。風の合間に聞こえるそれは、歌だった。誰かが歌っている──母の歌ってくれた子守歌に似ているように思えて、リーフィアスはふと重たい頭をもたげ、眼を開けた。すると、よく響く歌声に応えるように、枯れ果てていたハマナシがみるみる鮮やかな緑の芽を出し、ぐんぐん伸びて枝葉を繁らせていくのが見えた。
言葉もなく見つめている間にも、花芽がついて次々と花が咲き開き、赤い実が生る──。リーフィアスはそれに手を伸ばした。母と一緒に摘んだ、甘い実。
取りこぼした実が砂地に落ちて、すぐに芽吹いたのに驚き、手を止める。落としたハマナシは急速に成長して、新たな実をリーフィアスに差しだしてくれた。指が震えて、上手くつかめない。もどかしさに癇癪を起こしそうになっていると、誰かがそれを摘んで渡してくれた。あのきれいな歌が、すぐ近くで聞こえた。
見上げると、穢魔の風に穢されていた空はいつの間にか青く澄み渡り、太陽がまぶしかった。村の長が語っていた、流転の神々が海を空をめぐる姿が見えるような気さえする。──抱き上げてくれた腕は、まるで神々のいる天から伸ばされたもののように思えた。
抱き上げられたまま、リーフィアスはその人が歌うのをただ聴いていた。自分の中の、小さく萎え消えそうになっていた何かが力を取り戻し、周囲の緑と一緒に大きくなるように感じられる。
歌い手が言霊の旋律を紡ぐたび、触れた腕や胸からあたたかい響きが伝わってくる。リーフィアスの小さい身体にそれは共鳴するようで、ひどく幸せな気持ちになった。
再生したハマナシの花は目にも鮮やかな赤で、とても良い匂いがしたことを覚えている──。
それが、幼いリーフィアスと、育て親であり師でもある吟遊詩人、シダリアスとの出会いだった。彼の、その技。穢魔を祓い、緑の弥栄をもち命が栄えることを祈り、穢れを浄化して、世界の流転の流れに繋げて戻す。流転の神々を讃頌する言霊の、妙なる調べ。
後に師とともに各地を経巡り、様々な吟遊詩人たちの歌を聴くことになったが、あんなに美しく力強い歌を、リーフィアスは未だに知らない。
そのシダリアスに、お前の声はとても良い、きっと良い吟遊詩人になるだろう、と言われたときの喜び。ああ、自分もいつか師のように、穢魔に侵された地を自分の歌で浄化し、緑の弥栄を取り戻すのだと──。
声が出ないなら、お師匠様のようになることはできない。世界に再生の祝詞を響かせることなどできない……。
だが、と、絶望の中でふと疑問が浮かぶ。
「……?」
リーフィアスは、いつの間にかうつむいていた顔を上げた。今、声は出ない。どうしても出ない。なのに、あの穢魔の風の中、自分は確かに歌うことができた。このデイジーの村に、幼い頃に思い描いたような緑の弥栄を取り戻すことが、できた──。
それに、おかしなことはまだある。今まで気づかなかったのが不思議だが、あれほど酷かった身体の痛みがない。打ち身も、刺されたところも……。トイヴォだってもう咳をしていない。本人はまだわかっていないようだが、今にも頽れてしまいそうに弱っていたのが、回復しているように見える。
「……」
リーフィアスは、手の中のおっさんを見た。寝返りを打って、くるりと丸まっている妙ちきりんな草擬きは、降りそそぐ明るい陽射しに頭の双葉をつやつやと輝かせている。その幸せそうな顔。
♪~
見つめられているのに気づいたのだろうか? おっさん草がふと眼を開けた。緑色の瞳。リーフィアスと同じ──。
見つめ合っていたのは、どれくらいだったのだろう。気づけばおっさん草が立ち上がっていた。
♪ ♪♪ ♪~
両手をぱたぱた動かしながら、何かを歌っている……いや、しゃべっている? 相変わらず声は聞こえないが、リーフィアスにはそれがわかった。──トイヴォはまだ泣いている。彼には聞こえていないようだ。
「──!」
次の瞬間、不思議な草はぴょーんと跳躍し、リーフィアスの頭に飛び乗った。小さな足がそこで足踏みをする。覚えのある、珍妙なリズム。とんと、とん、ととんと、とんとん……。
驚きに身体を硬直させたまま、ただ眼を見開いて虚空を見るだけだったリーフィアスは、唐突に理解した。
「……デイジー デイジー
こたえておくれ」
そして、歌う。
「わたしははんぶんこわれてる──」
仕事の環境が激変したので、今まで以上に不定期になると思います。
それでもちみちみと続けていきますので、よろしくお願いします。