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七日目:隠密の帰還(3)

本日2回目の更新になります。


 バンッと乱暴に呼舷は戸を開けた。焔子が寝泊まりしている客室だ。焔子はいない。いようといまいと問題ではなかった。戸口には困惑した表情の従仕ら――当然焔子の従仕らもいる――が呼舷の荒々しい様子をびくびくしながら伺っていた。礼を失した呼舷の行動の理由を知っている伴鴻と楽環だけが、厳しい表情で呼舷の様子をみつめていた。


 呼舷は焔子の部屋をぐるりと視線を走らせ、目当てのものを見つけて手を伸ばした。布で包まれた剣筒。焔子が屋敷に着いた時に背負っていたもの。引き千切る勢いで布を外し、剣筒を開いて出て来たのは――


「呼舷様?お帰りなさいませ…一体…」

「——おまえは何者だ?」


 呼舷の帰宅に気付き、しかし常と違う様子に困惑気味に部屋へと入って来た焔子を迎えたのは、呼舷の底冷えするほどの怒りを含んだ声だった。戸口で様子を伺っていた何人かの従仕が「ひっ」と声を上げて顔を青褪めさせた。


 呼舷は、焔子の答えを待たず、手にした剣をかざした。


「…何故、これをお前が持っている?」


 呼舷の手に握られた剣、柳葉刀。常のものよりわずかに細い刀身。刀盤とうばん(鍔にあたる部分)に禁軍の紋章と相駁家の家紋が彫られている。


 見間違えようはずもない。これは、この剣は、呼舷があの少年兵に渡した剣だった。


 柳葉刀を見て、呼舷ははっきりと思い出した。ここのところ繰り返し夢で見たあの戦場は9年前のもの。範州で起きた麦浪の乱に乗じて殷真が侵略してきた時のものだ。その戦場で敵の奇襲を知らせた少年兵に、呼舷は確かにこの柳葉刀を贈った。そして登用したのだ、自分の軍に。〝範州の兵士〟だった〝彼〟を。


「…東軍火師団(かしだん)、第五旅団所属・両長…」

「!」

「――…その様子では、間違いないようだな」


 表情を硬くした焔子に呼舷は確信する。


 怒りが音を立てて渦巻いた。黒い炎が臓腑を焼き尽くすような怒り。びきり、びきりと額に青筋が走った。


「目的はなんだ?」

「――ッ」

「金か?それとも私を殺して戦でも起こす気だったか?」

「違います!私はッ」

「誰の策謀だ?父上か?朔州刺史か?それともおまえひとりで全てを騙していたのか?」

「お、お待ちください!誤解です!」

「何が違う?」


 呼舷は嗤った。顔布をしているのに、焼け崩れ色の変わった顔の右側が全て見えているかの如く、醜悪な笑み。


「女は従軍出来ん。つまりはそういうことだろう?考えたものだ。どちらともつかぬ顔立ちにすっかり騙された。男なら私の醜い顔にも耐えられような?何度も結婚に失敗した私なら簡単に絆されると思うたからこそやったのであろうがッ!?」

「違います!呼舷様!私は――」

「黙れ!」


 ヒュッと風を切り、呼舷が振った柳葉刀は焔子の首元で髪一本の隙間を開けてぴたりと止まる。誰もが息を呑み、喉の奥で悲鳴を上げた。


「出て行け」


 異様なまでに静かな、呼舷の声が通った。全身が縛り付けられたように動かない。何度も死線をくぐった伴鴻でさえ動けない中、焔子が必死に声を上げた。


「お願い致します呼舷様!どうか話を――」

「出て行けと言っている」

「決して騙すつもりではなかったのです!どうか少しだけ私の話を――」

「聞く耳持たぬッ!!」


 轟と、屋敷が揺れたようにさえ感じられる大喝。従仕の何人かは、恐怖のあまり腰を抜かしてその場に崩れ落ち、唯一声を上げていた焔子でさえ顔色を無くした。呼舷は憤怒の炎に身を焼かれ、もはや完全に我を忘れていた。


「即刻出て行かぬなら朔州刺史諸共切り捨ててくれるッ!!」


 弾かれたように焔子が駆けた。


 廊下の欄干を飛び越え、庭を突っ切って向う先は厩だろう。何人か焔子の従仕が立たぬ足腰を叱咤して慌ててその後を追ったが、戸口に残った焔子と呼舷の従仕達は、困惑と混乱で立ち尽くしている。呼舷は未だ治まらない怒りに任せて剣を振り「()ね」と叫んだ。


 我に返った従仕が皆、ばたばたと去って行く。伴鴻だけが、苦渋に満ちた表情でちらりと呼舷を伺ったが、結局何も言わず去って行った。


 途端にしん、と静まり返る焔子の部屋。柄を握りしめた小手がたてたギュッという衣擦れがいやに耳に残った。


「……」


 何もかも、嘘だったのだろうか。


 誰もいなくなり、静まり返った部屋で呼舷は思い返す。


 祈らずに、呼舷を守ると言った焔子。呼舷の醜い傷に触れ、ちっとも怖くないと言った焔子。感謝と尊敬を示した焔子。孫健に呼舷を慕っている事をからかわれ、真っ赤になって動揺した焔子。遠乗りに誘った時に嬉しそうに頬を染めた焔子。食事を共にしようと言い、並んで食べるのは名案だろうと笑った焔子。


 屈託なく笑い、全身全霊で呼舷にぶつかってきた、焔子の全ては、本当に、嘘だったのだろうか――?


「…ッ、ぅ…」


 痛い。


 胸が、心臓が、心が、裂かれ潰されたかのように痛い。


 顔を崩したあの拷問ですら、これほどの痛みではなかったのに――。


:::


 どれほどの時間が経ったのか、いや、わずかも経たぬほどかも知れない。足の裏に根が張ったかのように動けずにいた呼舷の元に、騒ぎを聞きつけた孫健がやってきた。


「呼舷様、何事です?焔子が何かご無礼を?」


 するりと部屋に入って来た孫健を、呼舷は温度の無い目で見遣った。


「…よくもぬけぬけと顔を見せられたものだな」

「はい?」

「これだけのはかりごと…よくもまぁ考えついたものだ」

「お、お待ち下さい、呼舷様…一体なんの話です?」

「とぼけるな。相駁家そのものは洲家と比べれば家格は低い。何が目的か知らんが万一策が失敗したとてやり過ごせるとでも思うたか?」


 また沸々と沸き上がる怒り。焔子がすべてをひとりで諮っていた可能性があることを解っていながら、呼舷の口は止まらなかった。


「焔子を養子に迎え、父に接触して私に嫁がせた。一体何が目的だ?」

「落ち着かれませ呼舷様!何か大きな行き違いがございます」

「行き違い?笑わせる。隠し事の間違いであろうがッ」

「しばしッ、まことしばしお待ち下さい呼舷様!何をそこまでお怒りなのですか?家同士の結婚です。大なり小なり深謀遠慮もありましょう」

「開き直るか!」


 会話にならぬ問答に先に焦れたのは孫健だった。孫健は宝冠の上から両手でバリバリと頭を掻くと、がぁ、と吠えるように呼舷に食って掛かった。


「ああもう!開き直るもなにも!確かに相駁家の家格がうちより低かろうと現極将と縁続きになれば朔州は大きな後ろ盾が出来ますから?そりゃ縁談決まったら儲け物だな、とは思いましたよ!けどね、そう思ったのは俺だけであって、父も焔子も貴方との縁談に下心なんてない。やましいことなんて何ひとつありゃしませんよ!大体焔子が養子だってわかってて縁談申し込んできたのはそっちでしょうが!?あんたのお父上に再三確認して、それでもよしと言ったくせに、今更いちゃもんつけるたぁどういう了見ですか!?」

「男を娘に仕立て嫁がせておいて何を言うか!」

「はぁ!?」

「知らんとは言わせんぞ!」

「いい加減にしてください!男を娘に仕立てるってどういうことですか!?」

「男である焔子を女と偽り嫁がせようとしたではないか!」

「――ッおだづな(ふざけるな)ッ!!焔子は女子おなごにゃッ!!」


 顔を真っ赤にして肩で息をし、孫健は射殺さんばかりに呼舷を睨み上げた。


「焔子を侮辱するのも大概にせろ!破談にしてぇだや(のか)!?それならそれでもっとまともな理由を言ったらどうだ!むちゃくちゃでねぇか!だかきや(だから)俺ぁ反対だったんだ!極将なんて格上から縁談なんか来るわけねぇだと思ったんだよ!それでも焔子の惚れた男だからって送り出したのに…ッ!こんなにひどい御仁だとは思わなかった!破談にしようとお考えなら願ったり叶ったりだ!あんたみたいな男の元に焔子はやらん!」


 睨み、怒りをぶつける。お互いに血管が焼き切れそうな怒りを渦巻かせ、睨み合う。だが、それで冷静になろうはずもない。先にその事に気付いたのは孫健だった。ふいと視線を逸らすと、悔しさを滲ませて絞り出すように呟いた。


「こんなことになるならッ…閨を口実に無理矢理嫁にしてしまえばよかった…ッ!!」


 ぷっつりと、何かが切れた。


 気付けば呼舷は、孫健の首を掴み、決して軽くない男の身体を腕一本で持ち上げていた。


「ぐ、ぇっ…!」


 目が回る。怒りで視界が揺れる。どす黒い何かが全身の内側を這い回っている。孫健が苦しそうにもがいている。呼舷の手から逃れようと爪を立てるため、呼舷の手にも赤い筋が何本も走る。そんなことは、すべてどうでもよかった。


 この男は、今、なんと言った?


「…焔子を抱いたのか?」

「だったら、なんだ…ッ!」

「答えろ!!」

「ぁが…ッ!」


 孫健が目を見開く。赤黒くなっている顔に何本もの血管が浮き上がった。答えられないほどに首を絞めているのは呼舷であるのに、答えないならばこのまま殺してしまおうと考える。


 もう一段、力を込めようとした、その時だった。


「殿ッ!!」


 声とともに冷水を浴びせられた。比喩ではない。はたと我に返った呼舷がぼとりと孫健を落とせば、孫健が床に倒れ込む音とともにパタタッと水の飛び散る音がする。呆然と見つめた掌も、視界も、水で濡れていた。


「極将ともあろうお方が!何たる様ですッ!」


 悲鳴のような声に振り返ると、そこには焔子の部屋に飾ってあった花瓶を抱え、震えながら呼舷を睨む托苑がいた。それを見てようやく、自分は托苑に花瓶の水を浴びせられて正気に戻ったのだと理解した。


 咳き込む孫健を托苑が介抱する。ようやく少し落ち着いたらしい孫健は、ぎろりと呼舷を睨みつけた。殺されかけたというのにそこに怯えの色は無い。


 呼舷は愕然とした。戦場で数えきれぬほど人を殺して来た。だが、感情に任せ、私情で人を殺めたことだけは無い。


「殿。お気を確かに…」


 静かな、しわがれた托苑の声が呼舷に届く。孫健は怯えていない。怯えているのはむしろ呼舷だ。己の御しきれぬ激情に怯えを抱いているのを、托苑の声が嗜めた。


「孫健様、殿、何卒ご無礼をお許し下さいませ」

「……」

「まずは御召し替えを。お戻りになる頃には茶の湯を整えておきまする。まずは、心と腰を落ち着けてお話しされるのがよろしいかと…」

「…頼む」


 ようやくその一言を発し、呼舷は托苑に支えられてよろよろと立ち上がった孫健に視線をやった。


「…孫健殿」

「ええ、ええ、ええ!腰を据えて、じぃっくり話をさせてもらいますとも!内容如何では例え極将相手だろうと、許しはしない」


 ぎろりと先ほどから変わらぬ鋭い視線を向けられたことに呼舷は安堵した。孫健は強い。あの様子なら、呼舷さえ冷静でいればきちんとした話ができるだろう。


 呼舷はようやく焔子の部屋を出た。どっと疲労が全身を襲う。何もかも投げ出したい衝動に駆られ、呼舷は崩れた顔を隠す為の装備を引き千切り、その場に投げ捨てた。鉄で出来ている額当てと野晒やしが、ひどい音を立てて回廊の床を凹ませる。


 托苑に話をせよと言われ納得し、孫健が話に応じるつもりであることに安堵した。だが、話をしたとて、何か変わるのだろうか?


 焔子はもう、いないというのに。


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― 新着の感想 ―
何が目的だ?とか、?マークでいろいろ聞いてるのに、聞く耳持ってないところがおいおいーって思うんですけど、それくらい激情にかられててそれくらい必死で冷静でいられないくらい、焔子のことが大事なんだなって思…
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