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七日目:隠密の帰還(4)


 茶を運んだ托苑や、孫健の護衛を兼ねているらしい従仕の同席を拒んだのは、意外にも孫健だった。さっきの今で従仕の同席はやむなしと考えていた呼舷は驚いたが、態度には出さず孫健の勇気と計らいに感謝し黙って彼らの背を見送る。


「さて、どこから何を話すべきでしょうね?」


 茶を口に含み、独り言のように言った孫健に呼舷はなんと答えるべきかと言葉に窮す。口を閉ざしたままの呼舷を孫健はちらりと見遣り、溜め息の代わりにもう一口茶を含んだ。


「焔子を抱いたのかと仰いましたね…」

「……」

「あれは、嫉妬ですか?」

「――…そうです」


 焔子が男だと思っていてなお嫉妬に狂ったのだと突きつけられ、わずかに躊躇ったものの、呼舷は素直に言葉にした。隠したところで何が変わろうかという投げやりな気持ちがあったのは確かだ。そんな呼舷の心の内を見透かしたのか、孫健は今度こそはっきりと溜め息をついた。


「…抱いてませんよ」

「え…?」

「焔子を抱いたことはありません…抱かせてもらえなかった…」

「…どういう意味です?」


 ようやく顔を上げた呼舷。怪訝な顔で孫健を見れば、探るような目が呼舷をまっすぐ見ていた。そしてふいと瞼を下げ、孫健は持ち上げたままの湯のみに視線をやる。


「改めてもう一度言いますが焔子は女です」

「…従軍記録が残っていた。それでも焔子が女だと?」

「私は衆道者ではありませんので」


 ぴしゃりと言い切った孫健。言葉の裏にひとまず話を聞いたらどうだという怒りを読み取り、呼舷はぐっと言葉を詰まらせた。


「焔子は元々俺の妻になるはずでした」


 不思議と動揺は無かった。焔子が洲家の養子であると解った時にすでに意識の奥にあった可能性だった。だが、孫健の次の一言は簡単に呼舷の平静を揺さぶる。


「朔州では婚前交渉が当たり前です」

「!!」

「正式に祝言を上げる前に事を成すことで夫婦の結びつきが強まり、子宝にも恵まれるという言い伝えがあります。当然俺もそれに従いました」

「……ッ」


 一瞬にして真っ黒な嫉妬が再び膨れ上がる。それを押しとどめたのは孫健が焔子を「抱いていない」と言ったその一言だ。呼舷は暴れる心を必死で押し殺し、耳を傾けた。


「焔子も言い伝えを知っていましたから素直に俺を閨に招き入れました。ですが、いざ事に及ぶ段になって、焔子は死を覚悟で泣いて拒みました」

「…何故?」

「貴方に…恋い焦がれていたからです」


 ことりと、孫健が置いた湯のみ。僅かに低くなった茶の水面、揺れるそれを孫健は見つめる。


「焦がれすぎて、貴方以外の男に抱かれることに耐えられなかったんです。決して叶わない恋だと解っていても…」

「……」

「焔子は俺と両親にやはり結婚は出来ないと泣いて詫びました。せっかくの縁談を台無しにし、恩を仇で返してすまないと。州城を追い出されるのは当然、打ち首も覚悟の上で」


 打ち首覚悟とは大袈裟な、と笑う事は決して出来ない。一介の従仕が州刺史の息子との結婚を半ば承諾した段階から断る。それは人命軽視が随分と無くなった今の世であっても、身分階級のはっきりした乾抄においては不敬罪に近い扱いで十二分に首をはねる理由になり得た。


「俺にとっては不名誉以外の何ものでもない話ですが、両親は焔子の行動にいたく感激しましてね。我が親ながら呆れたものですが、俺としても焔子のことは憎からず想っていましたから…。そんな女を殺すのは寝覚めが悪いし、正直、そこまで貴方のことを慕える焔子が羨ましかった。叶うものなら成就させてやりたいと思ってしまったんです。だから洲家は焔子を養子に迎えました。洲家なんて田舎刺史では極将との縁談など夢のまた夢だということは重々承知でしたが、蜘蛛の糸ほどの希望でも、ないよりはよいだろうと。まあ、両親にしてみれば、焔子を娘と呼びたいがための口実にすぎなかったようですが、それでも焔子は喜びました。それが去年のことです」


 そして年に一度、各州の刺史が登城し一堂に会する議席で、舷角と面識を得た朔孫は自分に娘が出来たことを伝えたのだ。朔孫にしてみれば、ほんの挨拶代わり。娘が貴殿のご子息にいたく惚れ込んでおります、結構な跡継ぎをお持ちで羨ましいと、そんな社交辞令のつもりでいた。だが、舷角はそれを流さなかった。


「焔子が東軍に所属していたことは聞いておられますか?」


 切り替わった話題に呼舷はざわりと全身を震わせた。焔子が自軍にいたことを問いただし間違いないと解っているのに、未だどこかで嘘であって欲しいとの期待が孫健の一言で砕け散る。


「――ッ!ではやはり…」

「あのねぇ呼舷様、察して下さい。焔子を抱こうとして拒まれたと恥を忍んで話しましたでしょう。焔子は間違いなく女です。ここまで言ってまだ男と疑われるのなら、ご自身で焔子を裸に剥いて確かめて下さい」

「……まさか…そんな…いや、待たれよ。年齢が合わぬ」

「年齢?」

「焔子殿が女である事はもはや疑いますまい。だからこそ、従軍していたというのは信じ難い。…そうだ、やはりおかしいのです。先程焔子殿が私の知る兵士だと思い声を荒げてしまいましたが、私の記憶通りならばその兵士は十六、七歳だった。それならば焔子殿は今二十三歳前後になるはず。それに、従軍の際には身体検査があります。下帯だけになって女だと解らぬはずがない!」


 呼舷は混乱していた。楽環の報告で焔子の従軍を知り、自分で焔子の剣を確認し、あの少年兵が焔子であると確信した。孫健も焔子が従軍していたという。孫健が嘘を言っているとは思っていない。それでも呼舷は、焔子の従軍の事実を否定する材料を求めた。


 焔子が男だろうが女だろうが、もはやどうでもいいと思うほど、呼舷は混乱の境地に立っていた。


 そう、もはやなんでも良かった。呼舷が焔子を疑う全てを否定出来るのなら、なんでも――。


「…本当に何もご存知無いのですね…」


 孫健は怒りを滲ませてそう言った。呼舷を見る目は轟々と燃えていたが、今の呼舷にはそれを睨み返す余裕もなかった。カラカラに乾いた喉に無理矢理ごくりと唾を通す。死刑宣告でもするかの如く孫健は呼舷を睥睨した。


「焔子は私より五歳年上です。焔子は今二十四、私は十九です」

「――ッ!?」

「あれは童顔ですからね。残念ながら、呼舷様の計算に間違いはありません。それから、身体検査ですが…焔子の従軍の際にそんなものはありませんでした」

「…そんな…」


 衝撃の事実に言葉を失った。わずかな希望が潰えた。呼舷は怯える。何に怯えているのか呼舷にも解らなかった。心臓が、搔き毟りたくなるような気持ちの悪い早鐘を打つ。とうとう堪え兼ねて手で口を覆った呼舷に、孫健はくっと茶を呷り湯のみを空にすると、叩き割る勢いで卓にカンッと打ち付けた。


「あの綿毛頭めッあれだけ側にいて自分の話が伝わってなかがと気付きもせんだか!失礼ですが貴方も貴方のお父上もですよ!どうして肝心な話が何一つ伝わってないんですか!?焔子が養子であることも、従軍していたことも、何もかも全部お伝えしておいたというのにッ!!」


 湯のみを握りつぶしそうなほど憤慨する孫健に、呼舷はもはや何も反応出来なかった。


 打ちひしがれる呼舷に、孫健は何を思ったのだろう。大きくひとつ息をつくと、初めから順を追ってお話ししましょうと、手を組み、落ち着いた口調で話し出した。


「そもそも焔子が軍に入ったのは両親を疫病でうしない、元々小作で食うに困ったからだとか。仕事を探して範州の州都である麦浪ばくろうで州城の従仕に志願したが、男に間違われて州兵の登録となったそうです。

 9年前の麦浪の乱の折、謀反を起こした範州に焔子はいました。範州は反乱軍としてあてにしていた全ての州に裏切られ、国を相手に孤軍となった。そのため、集めた兵士をろくな訓練もせずに戦場に放り込んでいたのです。決起した直後からよぼよぼの農夫の爺や病床の乞食まで無理矢理従軍させていたそうですよ。

 そんな状態の州がろくな身体検査を行うはずがありません。しかも麦浪の乱に乗じて殷真いんしんが侵略してきたのを覚えておいででしょう?」

「…ええ。殷真を属国に下した戦です…」


 殷真と乾抄は幾度となく戦と和睦を繰り返して来のだが、麦浪の乱に乗じて殷真が攻め込んで来た戦で、殷真の皇族全てを斬首に処し完全に乾抄の属国とした。余談だが、このひとつ前の戦で和睦を結んだ際に万瀑総大将は殷真の皇女を妻として迎えている。一部では万瀑に皇女を嫁がせて乾抄を油断させ、殷真の手引きで麦浪の乱が引き起こされたとも言われているが真偽の程は定かではない。


「禁軍が州軍を擁して戦に臨むのは常の事。ましてや混乱に乗じた殷真の進攻を前に悠長に一兵卒まで丁寧に調べてから取り込む時間はなかった。範州軍は禁軍東軍に組み込まれ、焔子はそこでうっかり戦功をあげたものすから、戦が終わればとんずらするつもりが、東軍の両長に引き抜かれたのです。

 州軍に属していたなら問題なかろうと禁軍でも再度の身体検査は行われず。元より帰る場所もなく、焔子に非はなくとも女の身で従軍した罰を受けるのではないかと怯え、女だてらに腕も立ったのでそのまま6年。どうやって誤摩化していたのか、よくまあバレずにそれだけの間従軍していたものだと思います。

 そうして3年前、鉉秋げんしゅうとの戦で負傷し女だとバレたそうですが、軍医がうまく誤摩化してくれたおかげで軍を退役することが出来た。だが女である以上傷が癒えようと復役することは能わず、かといって郷里に帰る場所はなし。あてもなく彷徨い朔州に流れ、行き倒れているところを父が拾って城仕えにしたというわけです。

 元兵士ということもあり、焔子はよく働きました。女仕事はもちろん、力もそこそこ体力は十分にありましたから、男仕事もよく手伝っていました。始めの頃はただ黙々と勤めていましたが、次第に良く笑い、良く話し、良く働き……爺と婆しかいない州城で太陽のような存在になっていきました。それを気に入った父が、俺の元服を前に嫁にと持ちかけた…あとは、すでにお話しした通りです」


 長い、長い話のあと、部屋にはしんと沈黙が落ちた。何を言えばいいのか。どうすればいいのか。混乱した頭で、呼舷はそれでも何か言わねばと最後に疑問として残っている他愛も無い事を口にいた。


「何故…孫健殿が兄と…?」

「そんなもの。私を振った女が姉となって私を呼び捨てに出来る立場になるのが腹立たしかったからに決まってるでしょう。それに、もしも本当に呼舷様と焔子が結婚したならば、私が呼舷様を義弟おとうとと呼べるのです。胸がすくじゃありませんか」

「なるほど…意趣返し、というわけか…」

「左様」


 ふん、と挑戦的に笑んだ孫健に、呼舷はようやくほんの少し苦笑することが出来た。だが、それもすぐに消え失せる。期待した答えが全て否定された今、信じたくない避けようの無い事実へと追い込まれて行く。


「…ここまで話したのは焔子の名誉の為です。あれは男ではないし、誓って洲家が呼舷様に対して思うところがあっての縁談ではありません…誤解は、解けましたか?」

「…面目ない。申し開きの言葉もない」


 絞り出すように、呻くように答えた呼舷。誤解は解け、憂うものは無くなったはずなのに孫健もまた顔を曇らせて黙した。


 どくどくと、呼舷の心臓は厭な鼓動を刻む。焔子が女なのは間違いない。そして焔子が従軍していた事もまた間違いではない。つまりそれは――


「…ッ…それでは…本当に、焔子殿は女の身でありながら…従軍していたというのか…!」


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