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留守? それなら月夜を散策しよう!

 森の中に水の音が聞こえている。

 川のせせらぎでも、水滴の音でもない。

 粘性の酷く嫌らしい水の音。

 森の中に死骸があった。

 赤い中身を晒した狼の死骸。

 傍らに笠と蓑を被った何かが居た。

 それは狼の死骸に顔を埋め、水音を立てている。

 時折、何かを啜る音も聞こえてくる。

 やがて何かは狼から離れ、闇の霧に覆われた山の森を降って行った。

 後には乱雑に散らばった狼だった物が散らかっていて、古臭い血の匂いが辺りに漂っていた。


 陽菜は目を覚ましてまず隣の布団を探った。

 月歩が居ない。

 手水に立った等という楽観はしなかった。

 戸の開く音がした気がするが、はっきりとしない。

 それが夢なのか現実なのか、今なのかさっきなのかも分からない。

 けれどきっとそれは本当で、大分時間が経っているに違いない。

 隣には誰も居ない温もりの薄れた蒲団だけが残っている。

 陽菜は部屋を出て、庄太の寝室へと押し入った。

 眠っていた庄太は暗闇の中で、突然の闖入者に驚いた様子で布団から身を起こして姿の定まらない人影に「月歩さん?」と問いかけた。

 陽菜はさっと部屋の中を見回して、他に人影が居ない事を確認して、玄関へと向かった。

 もう家の中に居るという希望は捨てた。

 家の中に居るなら居るで良いが、居ない場合は探している時間すら惜しい。

 昼に身に着けていた暖房具を羽織って、草履を突っ掛け、外に向かった。

 明るい夜だった。

 月の光が煌々と陽菜の進む道を照らしていた。

 入ってはならぬと言われた山への道が、月歩にははっきりと光の道筋として映った。

 走り出そうとした時に後ろで音が鳴り、振り返ってみれば庄太が戸に手を掛けてこちらを見つめていた。


「どうしたんですか? 外に出ちゃ、駄目です」

「月歩を探しに行くの」


 それだけ言って陽菜は駆け出した。

 後ろから庄太の着いて来る足音が聞こえるが振り返る事は無い。

 ただ月歩を求めて、陽菜は脇目も振らずに山へと向かった。


 山の中で月歩は迷っていた。

 微光に照らされた山は見えない程では無いが、とにかく道が分からなかった。

 整備された道なんて存在しない。

 悪がき達は道なき道を勘と経験を頼りに登って行った様だが、当然月歩にそんなものは無い。

 始めの内は悪がき達の草を掻き分けた跡を見付けて歩いていたが、それもすぐに見失って、今や月歩は前に進む事も後ろに進む事も出来ずに、たださ迷う事しか出来なくなっていた。

 月歩の前にある道は、登るか降るか。

 登りは悪がき達を追う為の、降りは陽菜の所へ戻る為の道だが、それすらも確かではない。

 登ったからといって悪がき達が見つかる訳では無いし、降ったからといって戻れる保証は無い。

 ただ月歩の意志を示す為だけの道。

 どうしよう。

 少しだけ悩んだが、すぐに月歩は登る道を選んだ。

 悪がき達を見捨ててここで降りたのでは、わざわざここまで来た意味が無い。

 戻って陽菜に泣きついて、それで陽菜に助けてもらうのか。

 それでは陽菜を起こさなかった意味が無い。

 月歩は登る事だけが自分に残された道だと信じて、黙々と草叢を掻き分け、聳える木々に手を掛けて、薄ら明かりの森の中をゆっくりと歩いて行った。


 空を見上げれば月が丸い。

 今日は満月だろうか。

 考えてみれば昨日も満月だった気がする。

 どうだったろう。

 はっきりとは分からないが、例え二日続けて満月でも何らおかしくはない。

 既にここは異界、世界の壁を隔てた先にある異世界の、更に隔絶され封じられた異界がこの山なのだ。

 だから何が起きても不思議ではない。

 何処からか悪がき達の悲鳴が聞こえてくるかもしれないし、次の瞬間には何かが自分に襲い掛かってくるかもしれない。

 けれど全く怖くない。

 疲労の溜まった月歩の頭は、恐怖も思考も取り留めなく散っていた。

 幾ら登っても頂上は見えず、幾ら探しても悪がき達は見つからない。

 足の皮が引っ張られる感覚が熱を持って伝わって来るが、それを痛みと認識する事すら今の月歩には出来なかった。

 どれだけ歩いたのだろう。

 頭上の月はさっきから変わらずそこにある。

 まるで時間が進んでいない様で、それが月歩の心を苛んだ。

 まるで全てが無意味の様で、自分のしている事すら何か大きなものの掌の上で踊っているに過ぎないのではと。

 疲れで自棄気味の月歩はそれはそれで良いと思って、また一歩、修行僧の様に苦役の旅路を歩んでいく。

 その時、月歩の肩に手が掛かった。

 気が付くと後ろに引っ張られ、力を失った月歩は倒れ込んで、そのまま何か柔らかく固いものをクッションにして仰向けになった。

 月歩はぼんやりと上を見上げながら、自分を引っ張ったのは魍魎だろうかと考えながら、寝返りを打って、その場を退いた。

 見るとそこには何故か庄太がいて、目を回した様子で痛そうに頭を擦っている。

 何故ここに?

 そんな疑問が膨らんだが、疲れて息の上がっていた月歩は言葉が出ずに、ただ木の葉にまみれた庄太を見つめる事しか出来なかった。


「大丈夫だった?」


 木の葉を払って立ち上がった庄太は、月歩に手を差し伸べてそう言った。

 月歩がその手を掴んで起こしてもらうと、庄太は何やら辺りが気にかかる様で、頻りに辺りを見回している。

 何故ここに庄太がいるのだろう。

 ようやく息を整え終えた月歩だが、尚もその疑問を尋ねられずに、辺りを見回す庄太を眺めていた。

 目の前にいる男の子は本当に庄太だろうか。

 庄太がこの山に入った理由を尋ねると何か決定的に取り返しのつかない事になりそうで、どうしても月歩は庄太に疑問をぶつける事が出来なかった。

 すると、辺りを見回していた庄太が、ふいに月歩に向かって尋ねてきた。


「陽菜さんは?」


 月歩は首を振るしかない。

 何故ここで陽菜の名前が出てくるのかも分からなかった。


「月歩さんが居ない事に気が付いて、二人で探しに出たんだ。陽菜さんの後を付いて来たつもりだったんだけど」


 辺りに陽菜の姿は無い。

 月歩の眼には月光に照らされて青ざめた庄太の顔が酷く不安げに見え、最悪の想像をするに十分な緊迫感を持っていた。

 月歩の視線に晒されながら、庄太は決断を迫られた。

 庄太はこの山が優しい山だという事を知っていた。

 特徴的な目印が多く、傾斜もなだらかで、危険な獣も居ない。

 地元の者なら月が出ていれば夜でも迷わずに目的の場所へ行ける位に分かり易い山であったし、例え迷っても野垂れ死んだ人間など居なかった。

 だから帰ろうと思えば月歩を連れてすぐに帰る事が出来るし、それが一番安全だ。

 寒さも飢えも一日で陽菜を衰弱死させる事は無いだろう。

 ましてあの強い陽菜が。

 今から家に戻り、明け方に戻って来る両親に事情を伝えて、みんなで山を探せば十分に間に合う。

 一方、今から月歩と二人で陽菜を探す事も出来る。

 もしも遠くに行っていないなら大声を上げるだけで出会えるはずだ。

 そうで無くても、大体人の通る場所は決まっているので、そこを探せば見つかる可能性が高い。

 探すか帰るか。

 本当ならどちらを選んでも、安全で確実なはずだった。

 この山は優しい山だから。

 どちらを選んでも、日が昇ってまた落ちるまでには、陽菜も見つかり、家にも帰れるはずだった。

 けれど今はそうじゃない。

 この山では祭りが行われ、子供が居てはいけない禁制区域になっている。

 皆は信じていない様だが、おばあさんから昔の話を聞き続けていた庄太は信じていた。

 この山には本当に何か得体の知れない神様が居て、それが子供を連れ去るのだと。

 本当なら一刻だってこんな場所に居ちゃいけない。

 けれど逃げ帰れば陽菜を見捨てる事になる。

 どうすべきかと助けを求めて顔を上げると、月歩に無表情で見つめられていた。

 まるで探しに行ってと訴えかけている様だった。

 庄太は思い出す。

 陽菜は月歩の親友で、庄太の命を助けてくれた恩人で、明るく強く庄太の憧れで、何より月歩の大事な人なのだと。

 見捨てるなんていう選択肢はあり得ない。

 けれどそれでも、たった一つだけ心配事がある。

 月歩が一人で無事に帰れるのかという事だ。

 幾ら迷い辛い山、それも麓の近くだと言っても、初めて足を踏み入れた月歩が、明るいとはいえ夜の闇の中を、しかも人攫いの神様が徘徊している森を抜けて、家まで帰れるのだろうか。

 実際に月歩は迷っていたのだ。

 けれど考えている時間は無い。

 きっと帰れると信じる他無い。


「月歩さん、僕は陽菜さんを探しに行くから」

「うん、じゃあ一緒に探そう」


 全く目を逸らす事無く月歩はそう力強く言った。

 二の句が継げなかった。


「でも、どうやって探そう」


 庄太は一瞬呆けた様に固まっていたが、息を吹き返して言った。


「きっと陽菜さんはここを通り過ぎて山を登ってるだろうから、僕達も山を登りながら呼び掛けていけばいいと思う。とにかくこっちの事に気付いてくれれば、何とか」

「うん」


 庄太は月歩の目に覚悟を見た。

 決して退かず、必ず陽菜を見つけ出すという決意を見た。

 庄太もまた同じだ。

 腹を括って陽菜を探し出す決意をした。

 今更構う形振り等一切無く、何を恐れるでもなくただ陽菜を探し出す。

 今まで陽菜は自分を助けてくれた。

 そんな陽菜を危険に遭わせる訳にはいかない。

 早速、庄太と月歩は手を口の前で開いて、大声を出す為に息を吸い込んだ。


 肺を膨らませた二人の耳に悲鳴が聞こえた。

 陽菜の声だった。


 陽菜は月歩を探していた。

 陽菜が猛然と草を掻き分け、何処かに居るはずの月歩を探していると、月の光に照らされた藁葺屋根が見え、ああ、ここが旅館からやって来た道なんだと気付いて、もしかしたら月歩は中に居るかも知れないと思って、あの時と同じ様に台に上り、窓を除くと中には何か蠢く黒い影がまるで寝息を立てる様に上下するのが見えたので、あれが月歩かと幾分疑問に思いながらも月光を遮る自分の体を少しずらして月の光が中まで届く様にしてみると、月の光に映ったそれは藁の塊で、どうやら人間ではないらしく、がっかりして陽菜は台から降りた。

 月歩は何処に居るのだろう。

 まさかおったな様とかいう訳の分からない神様に捕まったとは思えない。

 そんな事がある訳が無く、考える事も出来なかったので、後考えられるのは山の頂上か祭りの会場だろう。

 祭りの会場なら問題無い。

 沢山の大人達が居るのだから。

 それなら後は頂上だけだ。

 そう考えて再び気合を入れなおした陽菜は、背後で藁葺屋根の家の戸がするするとゆっくり開いて、陽菜の後ろにそっと近付く何かの影が揺らめく様にその手を陽菜へと近付けて、今まさに掴まんとする時に、それとは離れた別の場所で月歩と庄太が陽菜を探す決意をした事に陽菜自身は気が付く事が出来なかった。

 背後の気配に振り返ると、ふっと月歩の体が軽くなった。

 顔に何か刺す様な、くすぐったい様な痛みがちくちくと突き立ったと思うとすぐに、顔と体に風を感じ、更に体中が藪に晒されて痛みを感じ、しばらくその激しい痛みに自分でも気付かぬ内に悲鳴を上げて我武者羅に身体を振り回し、心を空にして暴れ回り、それでも尚自分を絡め取る何かは離れずに、再び気が付いた時には目の前に巨木が迫っていた。

 ぶつかると思っても、陽菜は目を瞑らずに、目の前の木を睨みつけ、近付いてくる黒い表皮に対して威嚇を続けながら、何とかその場を離れられないか必死にもがき続けた。

 やがて無情にも黒い巨木が近付いて、その茶色い皮がはっきりと見える様になった時には、流石の陽菜も目を瞑り、少ししてぶつかった感触が無い事に気が付いて、瞬間閉じた瞼の裏に光が溢れ、反射的にぎゅっと瞑る瞼に力を込めて、それから再び目を開けると、目の前に煌びやかに溢れる光の城が立っていた。

 訳が分からずその光景を眺めていると、光の城は突然浮き上がり、かと思うと陽菜の身体に衝撃が走って、肺腑の空気を吐き出しながら咳き込み苦しむ身体に鞭打つ様に、両の足を引っ張る何かの感触がひやりと陽菜を捉えていた。

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