探検? それなら外に出よう!
廊下の曲がり角からぬっと人の顔が現れた。
現れた顔はそっと廊下の様子を窺い、出歩いている人が居ない事を確かめた。
廊下には昨日見た立て看板があるだけで、後はずらりと襖が並んでいるだけだ。
陽菜が曲がり角から飛び出して、後ろにいる月歩を手招いた。
月歩もまた陽菜と同じ様にぬっとその無表情を窺わせ、陽菜が手招いているのを見て、曲がり角から抜け出し、音を立てぬ様に後を追った。
二人が小走りに立て看板へ近寄る途中、陽菜が着物の裾を踏んで転んだ。
それを助け起こそうと慌てた月歩が続いて着物の裾に引っかかり転んだ。
二人は旅館から借りた着物を着ていた。
陽菜は大きな花の描かれた赤系統の明るい着物。
月歩は魚と花が水で遊ぶ青系統の落ち着いた着物。
着物を着なれていない二人にとっては何とも扱い辛いものであった。
先に陽菜が立ち上がり、転んだ月歩を助け起こすと、細く息を吐いて口に人差し指を当てた。
それに頷いて、月歩も口に人差し指を当てた。
辺りに人がやって来る様子は無い。
二人は再び忍び足を始め、ようやく看板に辿り着いた。
看板の文字など二人にとっては問題無い。
そこが秘められた場所である事を示す蠱惑的な表示板であれば構わない。
陽菜が奥を覗き込み、続いて耳を澄ませたが、看板の向こうの暗がりに人の気配は無かった。
陽菜は部屋から持ち出した懐中電灯を点け、後ろから陽菜の着物を掴む月歩を連れて、暗闇への冒険に乗り出した。
暗闇の中を一筋の光を頼りに進んでいった。
幅が二人並んで通れない狭さな事を覗けば表と同じ廊下で、何の変哲も無く、少し歩くと何も見つからない内に壁に行き当たった。
行き止まりかと少し残念に思いながら、陽菜が辺りを照らしてみると、行き止まりではなく、右に折れ曲がっているだけだった。
期待の再燃した二人は右に曲がり、また少し進んだ。
するとまたも行き止まりに突き当たった。
良く見てみればそれは木製の引き戸で、陽菜の頭の部分に手を掛ける金具が付いていた。
「扉だね」
「うん、女将さんはただの行き止まりだって行ってたのに。やっぱり嘘だったんだ」
陽菜は嬉しそうに金具を手に掛けて、戸を横にずらした。
突然光が満ちて思わず目を瞑り、恐る恐る目を開けると、戸の先には伝えられていた通りの雑木林があった。
立ち並ぶ枯れた木の間に木漏れ日が紛れて、照らされた腐葉土が積もっている。
木と枯れ葉と土。
二人がめいめいに期待していた秘密めいた物は全く無く、ほとんど同じ様な景色に埋め尽くされていて、二人が遠くを見ても、ずっとその光景が続いていた。
「どうする?」
陽菜が困惑した様子で訊ねてきたので、月歩は不安を口にした。
「でも、私靴履いてないよ」
靴は玄関の靴入れに仕舞い込まれている。
さすがにそれを取ってここまで戻ってくる間には誰かに見つかってしまいそうだ。
悩み始めて下を向いた陽菜は、そこに草履が二足置いてある事に気が付いた。
赤く色付いて、ちょこんと兎の絵が描かれている、可愛らしい履物だった。
「みて、ここに靴あったよ」
「え? 働いてる人のかな?」
「多分そうだよ。これを履こう」
履いてみると、それは二人の足にぴったりと合った。
これなら外に出られる。
二人は萎み掛けていた期待を膨らませて足を踏み出した。
何一つ変わり映えのしない雑木林だった。
ずっと木と枯れ葉と土が続いていた。
幾ら歩いても同じ景色ばかりで、飽きと疲労がどんどんと募っていった。
大分歩いたのに何も無い事に焦れ始めた陽菜を見て、月歩は後ろから弱々しく声を掛けた。
「ねえ、陽菜。そろそろ戻った方が良くない?」
「うーん」
「このままだと暗くなっちゃうよ」
懐中電灯は持っていたが、それで夜の林を歩いて行けるとは思えなかった。
陽菜はしばらく考えてから、空元気を振り絞って言った。
「分かった! じゃあ、後百数えたら戻ろう」
そう言って、一歩一歩踏み締める毎に陽菜は数字を数えはじめた。
月歩もそれに合わせて、数字を読み上げていく。
数字が進み終わりがいよいよ近付いてきた頃に、二人の眼にふと何かが見えた気がした。
二人は数を数えながら目を凝らした。
「九十三、九十四」
見れば、木に紛れて遠くに四角い何かがあった。
「九十五、九十六」
二人の歩幅が、少しだけ大きくなった。
「九十七、九十八」
藁葺の屋根の様なものが見えた。
仄かな灯りが漏れていた。
「九十九、百!」
数え上げた瞬間、陽菜は駆け出し、月歩もそれに追い縋った。
転んだ。
二人して同じ瞬間に転び、落ち葉の中に身体を突っ込んだが、それでも沸き立つ心は些かも減じない。
起き上がって更に走り、走っては転びながら、藁葺屋根まで駆け寄った。
藁葺屋根の下はみすぼらしい土壁の家で、窓からぼんやりと光が漏れていた。
電灯の光では無く、蝋燭の様だった。
陽菜はすぐさま戸へと近付こうとしたが、月歩に背中を思いっきり引っ張られて止められた。
「怖い人が居るかもしれないよ」
陽菜はもっともだと思ったが、ここまで来て中を確かめないという選択肢など存在しなかった。
「じゃあ、窓から覗いてみよっか」
丁度、窓の下には木箱があって、載れば中を覗けそうだった。
初めに陽菜が登り、上から月歩を助け上げて、二人は窓の中を覗いた。
中には中央に囲炉裏と燭台が、端に小さな文筆用の机があるだけの粗末な家だった。
中には一人、こちらに背を向けて囲炉裏に向かう白髪の女性が座っていた。
何か硬い物を擦る甲高い音が聞こえてきた。
しばらく見ていると、今度は何か粘性の音が聞こえてきた。
一体何をしているのか。
尽きぬ興味に急かされて、二人がもっと良く見ようと力を込めて爪先立ちをした時に、二人の載る台が耐えられない様子でみしりと鳴った。
頭の中が真っ白になった二人の視界に、老婆の向こう、手元の辺りから何か液体が飛んだのが映った。
暗く見え辛いが、何やら赤い。
二人の頭が更に混乱していって、頂点に達しようかという時に、老婆がゆっくりと二人の居る窓へ振り返った。
振り返った老婆は包丁を持って、蝋燭の炎で皺だらけの顔を揺らめかせた。
驚いて後ろに下がった拍子に、二人は足を踏み外して下に落ちた。
月歩が痛みに呻いていると、陽菜に手を引かれて無理矢理立ち上がらされた。
自分を立ち上がらせた陽菜の顔に恐怖の浮かんでいるのを見て月歩も怖くなった。
二人はその場から何とか逃れようと駆け出して、何度も転びながら必死で藁葺屋根の家から逃げ出した。
痛みも忘れて走りに走って疲れ切って止まった頃になって、ようやく月歩が最悪の事態に気が付いた。
「どうしよう。こっちは旅館と反対だよ」
「あ!」
驚いた様子の陽菜を見て、陽菜に何か考えがあっての事かという月歩の僅かな期待は脆くも崩れ、二人は自分達が森の中で迷い始めた事を知った。
辺りは既に暗闇に浸され始めている。
「今から戻る?」
「でもあそこを通らなきゃ」
蝋燭に浮かび上がった老婆を思い出して月歩と陽菜は震えた。
「きっとあれ山姥だよ」
「山姥?」
「山の中に住んでて迷い込んだ人を食べちゃうの」
月歩の読んだ絵本では三枚のお札を使って逃げていたが、今の二人は当然持っていない。
山姥が追いかけてきているかもしれない今、戻るどころかこの場に留まっている事すら危ないのだ。
「進もう」
陽菜が言った。
「もう少し歩けばこの森を抜けられるから。そうしたらお巡りさんのところに行って、あの山姥を逮捕してもらう」
希望の入り過ぎた意見だったが、それ以外に何を出来るでもない。
月歩はそれに頷いて、後ろを振り返りつつ、雑木林の先へと歩き出した。
陽菜は力強く希望を口にしたものの、自分自身でもそれが可能性の薄い事は分かっていた。
重く動き辛くなった足に引かれて、陽菜の心は弱り始めていた。
このままじゃいけない。
陽菜は疲労で弱気になる自分を叱咤する為に、守るべき月歩を見た。
月歩は相変わらずの無表情で、内心は窺い知れない。
きっと怖がっているとは思うのだが、それでも恐れのまるで見えない月歩の表情が陽菜に元気を分けてくれた。
これならまだ頑張れる。
胸の中に熱い希望が灯りだし、力強く落ち葉を踏み出してどこにあるのかも分からない林の出口を探し始めた。
広大な砂漠を歩く様な気持ちだった陽菜達だったが、林の切れ目は余りにもあっさりと現れた。
驚きと喜びに二人が大急ぎで林の外に出てみると、そこは畦道で辺りには田んぼが広がり、所々に灯りの点いた家が見える。
だが二人はそこで立ち竦んだ。
どの家も二人の知っている民家では無く、夕闇の中に垣間見える建物は林の中で見た家と同じ藁葺の屋根だった
「どうしよう」
二人が呆然とそう呟いた時、突然横合いから土を擦る音が聞こえた。
二人が驚いて、そちらを向くと、林の陰で輪郭しか窺えない人影が立っていた。
月歩は思わず後ずさり、陽菜は勇気を振り絞って前に出た。
恐れる二人の前で、影は二人に向かって一歩、踏み出した。




