日曜日3
ルークは部屋を出て階段へ向かった。銃を指に引っ掛けクルクルと回しながら階段を下りていく。非常灯と暖炉の炎が電気の消えたロビーをほのかに照らしている。しかしその中にちかちかと明滅する光がある。テレビが点いているのに気が付いた。テレビの前のソファには洋子が座っている。ルークは慌てて銃をジーンズの腰に隠した。ソファの上で膝を抱えている洋子をテレビの光がぼんやりと照らしている。何となく、吸い寄せられるようにルークはソファへ向かった。
テレビからは音楽が流れていた。ギターを抱えた女性シンガーが悲しいラブソングを歌い上げている。愛し合っていながらも傷つけ合うだけの恋に別れを告げる歌だ。洋子は瞬きもせずテレビに見入っている。ルークはテーブルとテーブルの間を縫うように洋子に近づいていった。
洋子はルークが来たのに気付くと、慌ててリモコンを手に取りテレビを消した。それまでの人工的な光は消え失せ、暖炉で燃える炎のオレンジ色が洋子の輪郭を包む。洋子は消した後もテレビの画面に目を向けたままだ。ルークはローテーブルの上のワインとグラスを見た。
「また飲んでるのか……」
洋子は黙って頷いただけだ。ワインボトルの向こうにはビールの缶もある。
「ビールまで……」
「お風呂上りはビールって決めてるのよ」
洋子はテレビの画面を見たまま答えた。ルークの顔を見ることができない。黙り込み、浮かない顔の洋子にルークが尋ねた。
「どうした?」
「……帰る事考えたら、憂鬱になっちゃって……」
「はあっ?」
ルークはソファの肘掛に右膝を立てて座り、呆れた声を上げた。
「帰るのは水曜日だろ? 今日は日曜日だぞ。今から憂鬱になってどうする?」
「今朝、帰りの話なんかするから……」
洋子は非難がましく言った。
「俺のせいか?」
「そうよ」
ルークはチラッと洋子を見た。まだぼんやりと消えたテレビの画面を見ている。
「旅行なんてそれ自体が遊びだろう。帰って仕事が待ってると思えば、誰だって憂鬱になるさ」
「遊んでる? 私が今日何してたか知ってて言ってるの?」
ルークはまずいことを言ったと思った。今日は朝から洋子に洗濯をさせ、留守番をさせ、その後彼女は夕飯まで作ったのだ。
「別に、それはいいんだけど……」
洋子の心の広さにルークはホッとした。
洋子は暫く黙り込み、そしてルークの方を向いて尋ねた。
「ねえ、ルークは私が帰ったら寂しい?」
洋子はてっきり「ふざけんな」と言われると思っていた。しかしルークは少し考えた後、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「そうだな……最初は突然来て迷惑だと思ったけど、いなくなったらいなくなったで寂しく思うんだろうな……」
「そう……」
意外なルークの答えに洋子は返す言葉を失った。憎まれ口を叩かれていれば、それに返す言葉は幾らでも思いついたのだが。
ルークは今日一人で出掛けた時、会う人皆が洋子のことを尋ねていったのを思い出して付け足した。
「この町の住民皆、そうだと思うぞ」
「ふうん……」
洋子は喜ぶどころか、ますます浮かない顔をする。深い溜息をつくと、ルークにというよりも独り言のように呟いた。
「でも……東京には私がいなくなって寂しいと思う人はいないわ。それなのに、帰らなくちゃいけないのね……」
「そんなにここがいいか?」
ルークが眉をひそめて訊くと、洋子は膝を抱えたまま頷いた。まるでしょげ返っている子供のようだ。
「だって……ここの人達、皆優しいもの……」
「ここの連中は皆暇なんだよ。だから他人のことが気に掛かるんだ」
冷たく言い放ったルークはまったくの無表情だ。本当にそう思っているのだろうかと、洋子は首を傾げる。これが、いわゆるニューヨーカーという人種なのだろうか。
「暇だから? 暇だから優しいの? 忙しいとやっぱり、他人のことなんかどうでも良くなるの?」
「何が言いたい?」
洋子は口をつぐみ、ルークから顔を背けた。そして立てた自分の両膝を見つめながら口を開いた。
「両親が死んだ時ね、すごく忙しかったの。泣いてる暇も無いくらい。葬儀の事とか、事故で相手もいたから保険のこととか。自分がこれから入る会社のこともそうだし、妹と二人でどうやって生活していくのか。やらなきゃいけないことや、考えなくちゃいけないことが山のようにあって……」
その時のことを思い出し、洋子は苦しそうに顔を歪めた。ルークは暖炉の炎に照らされ、揺れるように見えるワインのボトルに目を落とした。
「悲しいとさえ思えなかった……。ただ、大変なだけ……香織は……」
妹の名前を口にし、言い淀んで口をつぐんだ。ルークがずっと黙っているのに気が付いたからだ。
「あ、ごめんね。暗い話で。退屈……」
「続けろ」
ルークが促した。洋子は躊躇いがちにルークを見た。何故こんな話を聞きたいのか不思議に思いながら。しかしルークは表情を変えぬまま、もう一度口を開いた。
「いいから続けろ」
洋子はルークから目を逸らすと、半分ほどワインが入ったグラスを見つめながら話を続けた。
「妹はね。かわいそうにあの子、毎日泣いてたの。……普通姉妹なら、親が死んだ時ぐらい慰め合うものだと思うでしょう?」
洋子は溜息をついて首を振った。
「私はしなかったの。出来なかったんじゃない。しなかったのよ。忙しいんだから仕方ないって、その時は思ってた。泣いてばかりいる妹を疎ましいとさえ思ったわ」
洋子は声を詰まらせた。
「……妹は私を冷たい人間だと思ってる。卒業してすぐ結婚したのも、一緒にいるべき人を妹はちゃんと選んだのよ」
ルークを見た洋子はぎこちない笑顔を作った。
「さっきキッチンではあんな風に言ったけど、本当は、妹とうまくいってないの……」
ルークは目線だけを動かして洋子を見た。
「……それが、君のせいなのか?」
洋子は頷きかけたが、首を振った。
「分からない……。私だって自分がそんなに悪かったとは思いたくないし、かといって忙しさのせいだとも思えない。でも、妹のせいじゃない事だけは確かよ」
洋子は膝を抱えた腕の中に顔を埋めた。ルークは静かに立ち上がると、どこかへ行ってしまった。洋子はグラスに半分ほど入っていたワインを飲み干し、またワインを注いだ。
こんなことを誰かに話したのは初めてだった。朗はいつも明るくて、悩み事があることすら忘れてしまえた。洋子の頭に朗の笑顔が浮かぶ。あの頃は、そこに裏があるなどとは思いもしなかった。いつもその笑顔に救われていたのだ。
「私は朗の笑顔に逃げていたのかも知れない……。それじゃ、朗は? 朗は、私から逃げたかったの……?」
ふとそんな考えが頭の中に渦巻いた。朗は結婚を決めた事を後悔していたのかも知れない。結婚する前に、ほんのひと時でもこの現実から逃げたかった。だからこんな遠い所で、自分の欲望の赴くままに。
戻ってきたルークは、今にも泣き出しそうな顔をしている洋子の目の前にアイスクリームとスプーンを置いて隣に座った。突然の事に洋子はキョトンとした。
「何これ?」
「アイスクリーム知らないのか? 日本にはアイスクリーム無いのか?」
ルークの小馬鹿にした態度に洋子はムスッとして言い返した。
「そんな事分かってるわよ。どうしたのって訊いてるの」
「俺が楽しみに取っておいたやつだ。食っていいぞ。そのかわり、そのワイン俺によこせ」
洋子はワインとアイスクリームを見比べた。
「物々交換ってわけ?」
ルークが頷くと洋子はくすくす笑った。
「構わないけど、誰が買ったワインか知ってる?」
「そうだよ。俺が買ったんだ。誰かさんが自分の物のように飲んでるから忘れるところだった」
ワインはルークが飲み、洋子はアイスクリームを食べていたが、結局「口の中が甘い」と言って冷蔵庫からビールを出して飲み始めた。それからは他愛も無い話が続いた。
「朗はね、高校の同級生だったの。三年前に同窓会で会ってそれから……。朗はね……」
洋子は照れ臭そうににくすくす笑った。
「ずっと私のことが好きだったんだって」
ルークが失笑すると洋子はムキになった。
「本当よ! 朗がそう言ったんだから!」
「どこが好きだったんだろうな?」
「それよ!」
洋子はビールを一口グビッと呷った。
「一度訊いた事があるの。私のどこが好きか。そうしたらアイツ、一時間も黙って考え込んだのよ! あんなこと訊くんじゃなかった!」
洋子は笑っていたが、突然疲れたように息をついた。明るく話をしているつもりでも、どうしても朗の事が頭から離れない。
「男の人にも、マリッジブルーってあるのかな?」
「はあっ?」
突然の質問にルークが困ったような顔で洋子を見た。
「さあ……、結婚なんて、しようと思ったことが無いからな……」
「そっか……そんな相手がいたら、こんな所に一人で来ないわよね」
ルークは不機嫌そうにそっぽを向いたが、洋子は構わず質問を続ける。
「ここのオーナーが戻ったら、ルークはニューヨークへ帰るの?」
「そうなるだろうな……」
洋子は笑い出した。
「ルークの場合、マリッジブルー以前に相手と仕事を見つけなきゃね」
「大きなお世話だ」
洋子は黙り込んだ。無理に笑ってみても自分の声が遠くから聞こえる。
「ルークの言った通りね……」
ぽつりと呟いた洋子にルークが顔を向けた。さっきまで笑っていた洋子が、今では眉間に皺を寄せ苦痛に喘いでいるような顔をしている。
「裏の顔なんて、分からないのよ……。他人が何考えてるかなんて、分かる訳ないのよね……」
止めようと思っても止まらなかった。これまでに積もった朗への疑念が口から溢れ出てくる。朗が生きてさえいれば、その裏切りを問いただし、罵り別れを告げる事も出来た。それなのに、朗は全てを覆い隠したまま持ち去っていってしまった。
「錯乱状態だったっていうけど……人を撃つ前に、自分の頭を撃つ前に、家族とか友達とか私の事を、少しは考えたのかな……」
その心の内は永遠に分からない。分かっているのは朗が犯した行為だけだ。洋子の声が震えた。
「分からない……。ましてや、クスリで侵された頭の中の事なんて、私には想像も出来ない……」
ルークは口を引き結び、ずっと黙ったままだ。洋子は俯いて流れ出した涙を隠した。
「今朝あんなこと言ったのに、本当にごめんなさい……こんな暗い話ばっかり……。もうやめるから、水曜日までは楽しく過ごすから……」
「別に、無理しなくていい……」
それきり二人は口をつぐんだ。
洋子にとってその沈黙は重苦しいものではなかった。慰めも同情の言葉も掛けず、黙って話を聞いてくれているルークの存在をとてもありがたいと思った。もう少しだけこの優しい沈黙の中で、ルークの気配を感じていたい。洋子は目を閉じた。
長い沈黙を破ったのはルークだった。
「おい……」
洋子は返事をしない。ルークが覗き込むと、膝を抱えたまま眠っている。
「何だ、寝てんのかよ……」
ルークは呆れたように呟いた。
ルークは洋子が握ったままのビールの缶を取ろうとした。缶を引っ張ると、その拍子に洋子が前のめりに傾いてきた。慌てて空いている方の手で肩を押さえると、洋子の踵がソファの座面から滑り落ち、薄いラグが敷かれた床にトンッと音を立てて落ちた。洋子が弾かれたように頭を上げ、ぱちっと目を開けた。
「起きたのか?」
ルークが缶をテーブルに置きながら訊いた。洋子はきょろきょろと辺りを見回しルークと目を合わせた。
「大丈夫、大丈夫……」
日本語で呟き、右手を自分の顔の前でヒラヒラと振る。
「何だって?」
ルークには何と言っているのか分からない。再び洋子の瞼が閉じようとしている。
「ちゃんと、自分の部屋で寝るから……」
依然ルークの分からない言葉を洋子は口の中で呟いている。そうしているうちにルークの肩に頭を乗せた。もう完全に目を閉じている。
時折ブツブツと呟く洋子の言葉は、ルークには何と言っているのかさっぱり理解できない。困惑に僅かばかりの苛立ちが混じり、肩に乗せられた洋子の顔を覗き込んだ。鼻でもつまんで起こそうかと考えたが、いつしか時折ゆっくりと動く洋子の唇に見入っていた。暖炉の炎がその輪郭に陰影を作り、化粧っけのないその頬を上気したように赤く染めている。ルークは洋子の唇に指を近づけた。柔らかく暖かな息が触れる。そして無意識にその唇に顔を寄せた。もし洋子が起きたらどんな反応を示すのだろうかと頭の片隅で考えながら。
二人の唇が触れる直前、それまで意味不明の言葉を呟いていた洋子だったが、突然「サンキュールーク」と呟き、ルークの動きがぴたっと止まった。
「何が?」
問いかけても洋子は目を閉じたままだ。
この女に礼を言われる筋合いなど無い。本当の事を知れば、今とは違った目で自分を見るに違いないのだ。
「だめだ……やめとけ……」
洋子から顔を離したルークは溜息をつき、首を巡らせ上を見た。非常灯にぼんやりと照らされた二階の廊下が見える。部屋へ連れて行こうかと思った。でもベッドに寝かせた後、何もしないでそのまますんなりと出て来れる自信も無い。
「困ったな……」
洋子は寝言も言わなくなり、静かな寝息を立てている。洋子を動かさないように気を付けながら、ルークは着ているポンチョを脱いだ。それを洋子の肩から体をくるむように掛ける。洋子は全く目を覚まさない。ルークは目元まで下がった洋子の前髪を手でそっと上げると、額に短くキスをした。肩に腕を回して引き寄せると、洋子の頭がルークの肩をゆっくりと滑っていく。寝心地のいい場所を探すようにもぞもぞと動き、ルークの首に左のこめかみをあて、そこで落ち着き動かなくなった。
ルークはゆらゆらと燃える暖炉の炎を見ていた。パチッパチッと時折薪のはぜる乾いた音が眠りを誘う。ルークは目を閉じた。